第1章:泥濘の社交、漂う腐臭
シウダ・デ・マナ・ラルタルの街が、ついに堕ちた。
だが、城を落とせば戦いが終わるわけではない。むしろ傭兵の本領たる「破壊」の後に続く「構築」こそが、底なしの泥沼だった。
占領後の事後処理、降伏契約の締結、住民の掌握に向けた人別帳の作成、街を囲む防壁の強度確認、破壊された城門の急突貫での整備、そして新たな徴税官の任命――。
息の詰まるような実務に追われること都合二週間。それらすべての取り決めをどうにか終え、俺たちはようやく本拠地であるアルカサル・デ・ラ・ミラーダ砦へと帰還した。
思えば、南方地域の今後について方針を決めたあの日から、すでに七か月近くが経過していた。
これでようやく、泥のように眠れる一息つける時間が来る――。そう安堵したのも束の間、副団長のオットーさんも、そして何よりアギラドス騎士団長のヴィアナさんが、俺にそれを許さなかった。
砦に帰り着いたその日のうちに、ヴィアナさんはヒスパニア王室へ向けた早馬を飛ばした。内容は「南方地域平定の完了報告」、そして「シンシオの生存とアギラドス家復権の嘆願」である。
そして恐るべきことに、翌朝から俺に対するヴィアナさんの猛特訓――俗に言う「貴族教育」が開始されたのだ。
「何をするにしても、まずはヒスパニア王室がある王都マトリード・デ・レオンへ赴き、国王アルフォンソ・デ・レオン陛下に謁見せねばなりません」
ヴィアナさんは、かつて戦場で見せたことのないような峻厳な眼差しで俺をねめつけた。
「その際、シン殿のあのような無頼極まる所作や話し方は、不遜として即座に首を刎ねられかねません。一時的とはいえ、シン殿は名門アギラドス家の当主代理として謁見されるのです。王の心象を悪くするわけにはいかない。さらに言えば、他家の貴族どもに付け入る隙を与えるなど言語道断です」
ヴィアナさんは一呼吸置き、声を潜めた。
「シン殿。これからの戦いを思えば、王室宮殿は『敵地』そのものであるとご認識ください。猶予はありません。始めましょう」
かくして俺は、慣れない豪奢な貴族服の着こなし、うわべだけのマナー、迂遠極まる話し方、貴族社会の陰湿な暗黙のルール、さらには主要な貴族家の系譜や特徴にいたるまで、ありとあらゆる「くっだらねぇ知識」を頭に叩き込まれることになった。
これがまあ、戦場で死線を潜るよりも気が滅入る代物だった。特に、互いの腹を探り合うような貴族特有のまわりくどい会話術には、辟易するのを通り越して吐き気すら覚えた。
「違う!話す前にまず、相手の爵位と家格を頭の中で値踏みするのです!」
「言い回しが直截すぎます!敵を殺すのではない、言葉の真綿で首を絞めるのです!」
連日、ヴィアナさんと、講師役として雇われた下級貴族の騎士から容赦ないダメ出しが飛ぶ。
結局、俺が自ら進んでそんな反吐の出るような言い回しを覚えることも、口にすることもできないと悟ると、二人は大いに落胆した。しかし、最低限「相手が何を企み、どういう嫌がらせを言っているか」を正確に聞き取る能力だけは、徹底的に身体に染み込ませられた。
……あと、社交ダンスのステップも叩き込まれたが、それについては思い出したくもない。
俺以上にこの地獄に巻き込まれて悲惨だったのは、傭兵団を代表して出席させられることになったガーブだった。
ヴィアナさん曰く「緋色の傭兵団の象徴として、ガーブ団長とオットー副団長の謁見は必須」とのことで、俺の道連れにされたのだ。
オットーさんはいい。元々団の交渉役であり、あくどい商人どもと渡り合ってきた経験があるため、貴族の化かし合いにもすぐに適応していた。
問題はガーブだ。
彼女は講師の騎士の話などハナから聞かず、教本は破り捨て、講義中は堂々と大イビキをかいて寝ていた。
ダンスの練習に至っては、「できるか、こんなもん!」と顔を真っ赤にして暴れ回り、砦中を逃走する始末。
なぜ彼女がそこまで顔を赤くして嫌がったかといえば、無理もない。普段のガーブは、汗臭いシャツにパンツ、その上に胸を覆うだけの武骨な胴鎧という姿で生活している。生来、スカートなどという軟弱な布切れを穿いたことがなかったのだ。
見かねたオットーさんと侍女たちが、力づくで彼女を捕らえ、婦人用のドレスを着せ替えてみた。
すると、意外や意外。粗野な野生児だと思っていたガーブは、見違えるような凛とした美人へと変貌したのだ。これには見守っていた野郎ども一同、あいた口が塞がらなかった。
だが、空気を読まないヤミルのバカが「へえ、馬子にも衣装ってのは本当なんだな」と口走った瞬間、ドレス姿のガーブの裏拳が炸裂し、ヤミルは壁まで吹っ飛んでいった。
ガーブは耳まで真っ赤にして婦人服を脱ぎ散らかし、それ以後、二度とドレスを着ようとはしなかった。じつに残念なことである。
そうこうして胃の痛むような六週間が過ぎた頃、ついに王都マトリード・デ・レオンからの勅使が砦に到着した。
勅使の口上は、うわべだけの華やかなものだった。
「南方地域平定の偉業に対する賛辞を添え、国王陛下直々に謁見を賜る。叙勲、ならびにアギラドス家復権の手続きを執り行い、祝宴を開く」
招聘されたのは、アギラドス家当主として俺。南方平定の最高功労者としてヴィアナ騎士団長。そして、その矛となった緋色の傭兵団からガーブとオットーさん。
「来たか」と、俺は小さく呟いた。
まあ、想定通りの展開だ。このために、あの気が滅入るような社交界の予行演習を繰り返してきたのだから。王都の謁見の間に出向かなければ、俺たちの次の盤面には進めない。祝宴だの叙勲だのという甘い蜜に、どれほどの毒が仕込まれているかは、王の顔を見てからの判断になるが。
その夜、俺たちは砦の最深部で改めて極秘の打ち合わせを持った。
勅使が到着したのとほぼ同じタイミングで、ハンス率いる特務隊が王都マトリードでの潜入任務を終えて戻ってきたからだ。
集まったのは、俺、ガーブ、オットーさん、ヴィアナさん、ノイン、そしてハンスの六人。
ガーブはすでに眠そうだ。堪えろガーブ、お前にも重大な役割があるんだからな。
「さて、本日勅使が参られた」
まずはヴィアナさんが静かに口を開き、状況を整理する。
「騎士団長である私、当主であらせられるシンシオ様、傭兵団のガーブ団長、オットー副団長への招聘だ。私には男爵位の授爵、シンシオ様にはアギラドス公爵家の完全なる復権、傭兵団へは労いと褒章という名目になっている。……だが、腑に落ちん」
俺は腕を組み、ヴィアナさんを見つめた。
「こちらの勝利報告がマトリードに届いたのは、およそ五週間前のはず。報告の重要性を考えれば、即座に王の耳に入ったはずだ。なのに、そこから勅使がこちらに派遣されるまで、妙に時間がかかっている。ヴィアナさん、この『空白の時間』の原因は何だと思う?」
俺の問いに、ヴィアナさんは苦渋に満ちた表情で頷いた。
「王宮の動向については、すでに手を回して探らせておきました。やはり……あなたの出現、すなわち『アギラドス公爵家の復権』に対し、激しい難色を示した複数の勢力が難癖をつけていたようです。具体的には、宰相グスマン、そしてヒスパニアの四大貴族と称される大家のうち、アギラドス家を除く三つの門閥が猛烈に反発しています」
ヴィアナさんは卓上に、マトリード王宮を牛耳る権力者たちの名を書き連ねた。
グスマン家:
現宰相ドミンゴ・デ・グスマン。広大な領土と権益を持つアギラドス家の存在を「王権を脅かす歪な特権」と呼び、復権に真っ向から反対している。
メンドーサ家:
アルバロ・デ・メンドーサ侯爵。北部国境の要衝コルディアからの侵攻を防ぎ続けてきた勇猛な将軍の末裔。南部の華々しい平定に対し、自分たちの北部防衛という地味な役回りに強い不満を抱いている。
サントス家:
ロドリゴ・デ・サントス子爵。東部の領主。フランク王国との国境線で睨み合いをしている隙に、アギラドス家が南部を平定したことを「美味いところを掠め取った」と逆恨みしている。
アルバ家:
アントニオ・デ・アルバ伯爵。西部の大領主であり、かつて『国土回復運動』の主導権をアギラドス家と激しく争った宿命のライバル。南部平定を成し遂げたアギラドス家を激しく敵視。
「この四勢力は……十五年前のアギラドス家先代当主暗殺事件の際、限りなく黒に近い『容疑者』として名が挙がっていた者たちです」
ヴィアナさんの言葉に、オットーさんが低く呟いた。
「確かな証拠がないため不問とされてきたが……シンシオ様が戻られる前は、この四家が南部の統治権を巡って醜い利権争いを演じていた。そこへ、死んだはずの当主の血を引く者が現れた。四家は示し合わせたようにシンシオ様を『偽物』と断じ、復権を拒むと同時に、南部の領有権をアギラドス家から完全に剥奪するよう王に上奏しています」
「つまり、その四家全員が、先代暗殺の黒幕である可能性が高いと……」
オットーさんの確認に、ヴィアナさんは重々しく頷いた。
「言いづらいことだが、その通りだ。彼らのいずれか、あるいは全員が関わっていると見て間違いない」
「はっきりと話してくれて助かるよ、ヴィアナさん」俺は彼を遮った。「だが、事実と推測は分けて考えよう。宮廷に乗り込む前から推測だけで目を曇らせるわけにはいかないからな」
「……仰る通りです、ご当主様。軽率な発言をお詫びします」
「だから、その『ご当主様』とか『シンシオ』って呼び方はやめてくれって。背中が痒くなる」
「では……若君」
「ぶっ!」
隣でガーブが吹き出した。「若君だって!ぷっぷっぷっ……」
「聞こえてるぞ、ガーブ。……んん、ハンス」俺は咳払いをして、影のように控えていた特務隊長に話を振った。
「その四家の、より具体的な政治的地位、経済状況、軍事力について、お前の耳が拾った情報を教えてくれ」
ヴィアナさんは政治工作や裏取引を嫌う高潔な騎士だ。南部平定という武功には滅っぽう強いが、宮廷のドブネズミどもの情報までは持ち合わせていない。そこからはハンスの領分だった。
ハンスは表情一つ変えず、よどみなく淡々と報告を始めた。
「グスマン宰相。王宮の内政・人事を掌握。王都の有力商人たちと太いパイプを持ち、巨額の裏金が動いている。直属の近衛兵、二千。
メンドーサ侯爵。北部貴族の重鎮。武骨だが政治力は低い。沿岸貿易の不調により財政は火の車。動員兵力、三千五百。
サントス子爵。東部貴族。政治基盤が脆弱で、領地内での反乱リスクを抱える。動員兵力、三千。
アルバ伯爵。西部部の大領主。周辺の地方貴族を完全に統合。領地はヒスパニア随一の穀倉地帯であり、財政は極めて潤沢。動員兵力、六千」
ハンスは冷徹な視線を俺に向け、結論づけた。
「政治の最高権力はグスマン宰相。経済と武力はアルバ家が突出。現状、グスマンが他三家を糾合し、アギラドス家の『廃爵』と南部地域の完全解体を狙っている。……それと、もう一つ」
「何だ?」
「王都の巷間では、アギラドス家の南部平定の偉業が熱狂的に迎えられている。行方不明だった次期当主シンシオは、どん底の傭兵から這い上がってきた『悲劇の貴公子』として、吟遊詩人どもに絶賛されている」
「ハンス、頼むからやめろ」
俺は顔がカッと熱くなるのを感じた。ハンスの奴、真顔でそんな恥ずかしい報告を上げるんじゃねぇ。冗談で言ってねぇのが一層タチが悪い。ガーブを見ると、案の定ニヤニヤしながら俺の脇腹を突ついてくる。くそ、覚えてろよ。
「……コホン。概要は理解した。ハンス、引き続きその四家の動向をマークしろ。さて、これからのことだが……」
俺は卓上の地図を見つめ、不敵に笑った。
これからは、血の流れない戦が始まる。だが、相手が化かし合いのプロだろうと関係ない。俺流の、傭兵流の戦い方で、あの肥溜めのような宮廷をひっくり返してやる。




