第9章:大洋の関門、あるいは冷徹なる大義
アギラドス騎士団400騎、そして緋色の傭兵団の全職能部隊が、海峡を見下ろす丘陵地帯を埋め尽くしていた。
俺、ガーブ、オットー、ハンス、そしてヴィアナは、眼下に広がる港湾都市の威容を見つめていた。
「シウダ・デ・マナ・ラルタル……。現在の住民は約800人。全盛期の5分の1以下に激減しています」
ヴィアナが、肩書きを外した気軽な口調で状況を説明する。
「その大半がコルディア系の貿易商とその私兵。正規の衛士と呼べる戦闘員は、せいぜい20人程度に過ぎません」
「……こちらの戦力が過剰すぎるな」俺は小さく息を吐いた。
「政治的には、武威を示すためにこれでも足りぬほどです」とヴィアナが即座に応じる。
「無駄な動員は、兵站の浪費だ」俺は冷たく突き放した。
「必要な場所に、必要な適性を、適正な数だけ配置する。我々には遊んでいる人員など一人もいない。今回はあんたの『はったりが必要だ』という進言に従ったが、20人の衛士に対してこの軍勢は滑稽ですらあるぞ」
「お忘れなきよう。海峡の向こうにはコルディア首長国の本土が控えています。彼らをこの地から追い落とすにあたり、生半可な譲歩を見せれば、奴らは数年を待たずして再び大軍を海峡に渡らせるでしょう。二度とこの地に指一本触れさせぬという、絶対的な『恐怖』を植え付ける。そのための武威にございます」
「……やはり、政治という泥泥は肌に合わねぇな」
俺のぼやきに、ヴィアナは苦笑いを返した。
「報告いたします」ハンスが影から現れた。「街の筆頭商人であり、コルディア側から任じられた総督、ハサン・イブン・イスマイルが、こちらへの面会を申し出ております」
「よし、街の手前に天幕を張れ。ガーブ、オットーさん、ヴィアナさん、ハンス。俺たちで臨む」
「シン君」オットーが俺の服装をまじまじと見た。「その……いつもの薄汚れた傭兵の革鎧のまま会うのかい?」
「ああ。動きやすいのが一番だ」
オットーは「やれやれ」と額を押さえた。その意味を、俺は直後に思い知ることになる。
街の城門から50歩、俺たちの本陣から300歩下がった中立地帯に設営された天幕。
やがて、豪奢な絹の長衣をまとった初老の男が、10人ほどの護衛を引き連れて現れた。
「おお、これはヴィアナ騎士団長殿。会談に応じていただき感謝する。……で、そちらに座る無礼な小僧どもは?」
ハサン・イブン・イスマイルは、あからさまに見下した視線を俺たちに注いだ。
「イスマイル殿」ヴィアナの声は、地響きのように低かった。「言葉を慎まれよ。ご紹介する。我が主、アギラドス公爵家当主、シンシオ・デ・アギラドス様である」
「アギラドス家の当主だと?」
イスマイルは鼻で笑った。
「あの一族は15年前に死に絶えたはず。どこぞの馬の骨とも知れぬ傭兵の小僧に名家を騙らせ、我らを愚弄するおつもりか? ヴィアナ殿、交渉の戦術としてはあまりに稚拙ですな」
確かに俺の格好は、どこからどう見ても戦場帰りの泥臭い傭兵だ。格式高い貴族の服など、フランクのあの傲慢な連中を思い出して胸糞が悪くなるからと拒絶したが……こういう交渉の場においては、衣装それ自体が「武器」になる。オットーが言いたかったのはこれか、と内心で舌を巻いた。
だが、今更引き下がれるか。
「お初にお目にかかる、イスマイル殿」
俺はあえて、ドスの利いた低い声で、感情を殺して話し出した。
「アギラドス家当主、シンシオだ。現在は一軍の指揮官を任じている。衣服の非礼は不問とされたい」
しかし、イスマイルは俺を完全に無視し、ヴィアナに向き直った。
「このような子供にそれらしく喋らせて、一体何になる。我々は対等な大人の交渉を――」
「何も話すことはねぇってことだな」
俺は短く言い放ち、椅子の背にもたれかかった。
「ハンス。全軍に突撃の準備をさせろ。コルディアの使者は、ヒスパニア王室、およびアギラドス公爵家を公式に侮辱した。会談は決裂だ。あとは鉄と血をもって決着をつける」
俺が静かに席を立とうとすると、イスマイルの顔から一瞬で血の気が引いた。
「な、何を言うか!貴様のような小僧が、何の権限をもって戦端を開くというのだ!」
「権限?」俺はイスマイルを冷酷に見据えた。「それはこちらのセリフだ、商人の分際で。お前は何の権限があって、王室の血を引く公爵家当主である俺に対して不敬を働いた?ここはヒスパニアの領土だぞ」
「わ、私はこの街の、コルディア首長国直任の総督だぞ!」
「ほう。ならばその名誉を賭けて、我が軍の猛攻を凌ぎ切ってみせろ。街壁をすべて瓦礫に変え、一人残らず海峡の藻屑にしてやった後で、その不遜な言葉を思い出してやるよ」
俺の殺気に呼応するように、ガーブが楽しげに大刀の柄に手をかけ、ハンスが音もなく懐に手を忍ばせる。
「ヴィアナ殿!これはどういうことだ!あなたはこの狂人の暴挙を許すのか!」
イスマイルの悲鳴に、ヴィアナは凍りつくような冷淡な一瞥をくれた。
「イスマイル殿。先に申したはずだ、このお方こそが我が主であると。主君が侮辱された以上、我が騎士団の剣はただ敵を滅ぼすためにのみある。最初から交渉を決裂させるつもりだったのは、あなたの方だ。私は、我が主の命に従うのみ」
「……っ!では、この小僧は……本当に本物のアギラドスなのか……!?」
愕然と立ち尽くすイスマイルに、俺は一切の表情を崩さずに冷たい視線を浴びせ続ける。
数秒の沈黙の後、現実を理解したイスマイルは、なりふり構わず天幕の床に膝をついた。
「お、お待ちくだされ!アギラドス公爵閣下!我が非礼、我が不調法、平に、平にお許しいただきたい!どうか、どうか会談の継続を……!」
「……どこまで上から目線で物乞いをしてやがる」
「大変、申し訳ございませぬ!先ほどの不敬、重ねて陳謝いたします!」
額を床に擦り付けんばかりの総督の姿を確認し、俺は隣のオットーと視線を交わした。オットーが極めて小さく、満足げに頷く。
俺はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……よかろう。面談を再開する。用件を聞こうか、イスマイル殿」
イスマイルは衣服の乱れを整えながら、必死に呼吸を整えて席に戻った。
「……こ、こほん。我が街の包囲を解いていただきたい。我が同胞たちの通商が完全に遮断され、多大な損失が出ている。我々には、この地での自由な商業活動の権利が認められているはずだ」
「自由、ね。ヴィアナさん、我が家にそんな権利を敵国に与えた記録はあるか?」
「いえ、アギラドス家がコルディア人の領内自由行動を許可した事実など、過去200年間一度たりともございません」
「だそうだ。誰が認めたんだ、それは」
「イシュビリア・デ・アルナハル総督殿に決まっている!」
イスマイルの抗弁に、ヴィアナが冷徹に補足を加える。
「……それは、コルディアが勝手に我が国の『セビレア』に付けた不法な名前ですな。その総督とやらは、占領地を不法拠点にしていた侵略者の長に過ぎませぬ」
「ああ、あの先日、俺が首を撥ね飛ばしてやった街の盗賊の親玉のことか」
俺の言葉に、イスマイルは息を詰まらせた。
「ということだ、イスマイル殿。あなた方コルディア人に、我が領地を我が物顔で歩き回る権利などない。また、土地を無償で貸し与えた覚えもない。直ちにこのヒスパニアの地から立ち退いてもらおう」
「そんな無法な!我々は400年前からこの地に根を張り、市民権を得て生きているのだぞ!」
「400年前?違うな、俺は『今』の話をしている。その市民権とやらは、誰が許可した?ヒスパニア王室の署名が入った割符でもあるのか?あるなら見せてみろ」
「ぬうう……っ!」
「無いだろう、そんなもの。お前らが武力で我が土地を強奪したんだ。俺たちはそれを本来の持ち主に返してもらいに来たに過ぎない。これでも、あんたらと違って『紳士的な話し合い』の場を設けてやっているんだぞ?それとも、あんたら流に有無を言わさず全員首を刎ねて奪い返した方がお好みか?」
「無体な……!」
「無体、ね。……分かった、そこまで言うなら譲歩してやろう。あんたらコルディア人の居留を、条件付きで『認めて』やる」
「……本当か!?」
イスマイルの目に、微かな希望の光が宿る。
「俺は嘘はつかねぇよ。ただし、条件は厳しいぞ。他人の家の土地を不法占拠して、タダで商売が続けられるほど、世の中甘くはねぇだろ?」
「……条件を聞こう」
俺はオットーがあらかじめ作成していた、悪魔のような条項を読み上げた。
「一、シウダ・デ・マナ・ラルタルの借地権対価として、年間150万ゴールドをヒスパニア王室へ支払うこと。
二、居留する入植者一人につき、年間100ゴールドの人頭税を課す。
三、街の完全隔離。コルディア人の借地外への出入りは完全許可制とし、通行の際は一回につき通行税50ゴールドを徴収する。
四、右記の隔離を徹底するため、街の外周に強制的な隔離壁を自費で建設すること。出入口は一箇所のみとし、我が軍の臨検を受けること。
五、市内に不当に拘束されているヒスパニア人の即時全員解放。
六、領内でコルディア人が罪を犯した場合、すべてヒスパニアの法に基づき、我が方の手で処刑・処罰する。
――以上だ」
「な、何ということを……!これでは商売にならん!利益などすべて吹き飛んでしまう!」
「ああ、補足だ」俺は冷酷に付け加えた。「街に居留するヒスパニア人に対する人頭税も、すべてお前たちの負担だ」
「そんな殺生な……!」
「それとも」と、俺は身を乗り出し、イスマイルを睨みつけた。
「過去400年間、お前たちが我が国の民を不法に支配し、搾取し、殺戮してきた『歴史的賠償』の話を始めるか?……そうだな、総額40億ゴールド。これを一括、あるいは10年分割で支払うというなら、今の条件を少しは見直してやってもいいぞ?」
「ふ、ふざけるな……!」
「いたって大真面目だ。お前たちの命の値段にしては、格安だと思うがね」
イスマイルは激しく小刻みに震え、怒りと恐怖で言葉を失っていた。
「……いち、一度、街に戻って検討させてほしい」
「猶予は2日だ。2日後の正午までに契約書に血判を押して持ってこい。1秒でも遅れれば、我が全軍がこの街を地獄に変える」
「……承知、いたしました」
老商人は、まるで老人のように背を丸め、這うようにして天幕を去っていった。
その背中を見送りながら、ヴィアナが俺の横に並んだ。
「……イスマイルはどう動くでしょうか、シン殿」
「受けるさ」
俺は模擬刀の柄を軽く叩いた。
「ひとまず条件を呑んで時間を稼ぎ、その間に全財産を船に積んで、本土へ逃げ出す準備を始める。俺が奴の立場なら、間違いなくそうするね。……それでいいんだ。街壁を壊さず、無血でこの重要港湾が手に入る」
2日後の正午、1分前。
ハサン・イブン・イスマイルは、真っ白な顔で、すべての条件を受け入れる旨の書状を携えて、再び天幕の前に現れた。
――これで、南部の平定は完全に完了した。




