第3章:変転する風、歌声の響く砦
バハ・ジャヌーラの商人会議所に生還したその商人は、酒場で、市場で、そして他の都市から来た行商人たちに向けて、熱弁を振るい続けた。「緋色の傭兵団」という、圧倒的な武力と冷徹な規律を併せ持つ集団の存在を。
噂は、波紋のように静かに、だが確実に広がっていった。
それはやがて、あの冷淡だった領主の耳にも達する。領主からは「我が都市の常駐衛士(実質的な私兵)として、定額で雇用したい」という申し出が届いたが、俺はそれを即座に拒絶した。「我々は特定の領主に縛られない、自由な渡り鳥ですので」という、差し障りのない表向きの理由を添えて。
やがて、噂を聞きつけた行商人や小規模な商隊から、個別の護衛依頼が舞い込むようになる。しかし、俺たちの拠点はアタラヤ・デ・ラ・ジャヌーラ砦という辺境の廃墟だ。依頼人がいちいちそこまで足を運ぶのは現実的ではない。対応に苦慮した商人会議所から、「都市内に定期的な連絡員を置いてくれないか」という打診があった。
そこで、俺は逆に提案を持ちかけた。
「バハ・ジャヌーラの商人会議所の内部に、我が『緋色の傭兵団』の公式な出張事務所を置かせてほしい。護衛や討伐の手続き、報酬の交渉はすべて会議所の査定を通し、正式な商業契約として取り交わす」
この提案は、商人たちにとって願ってもないものだった。彼らにとって、得体の知れない武力集団が「商取引のルール」に自ら従うと言い出したのだから。会議所に一定の手数料を差し引かれることにはなったが、俺たちはこの都市における「合法的な経済活動の一環」として、完全にその地位を認められることになった。
依頼の増加に伴い、俺は団の組織を大幅に再編成した。
一括での大部隊運用を改め、依頼の規模や危険度、地形に合わせて五人から十二人で構成される「分隊」を複数編制。重装歩兵のみの分隊、山岳地帯に強い弓兵・狩人隊、敏捷性に優れたクリシュ・アラン(異民族の精鋭)、さらには防壁の修繕や工兵任務に対応する工兵隊など、タスクに応じた最適な人選を行えるシステムを構築した。
オットーさんはさらに一歩進め、傭兵稼業で得た潤沢な手元資金を元手に、団独自の「緋色商隊」を組織し、流通業にまで乗り出した。
それから半年が経過する頃には、俺たちの名はバハ・ジャヌーラ一帯だけに留まらず、さらに南方や西方、王都の周辺にまで届くようになっていた。
単に戦いが強いだけの「野良犬の集まり」ではない。独自の兵站網を維持し、土木建築の高度な技術を持ち、さらには計数管理や行政実務の知識まで備えた、極めて特異で洗練された「機能集団」として。
だが、組織の経営が軌道に乗る一方で、深刻な問題が持ち上がっていた。特務隊長のガーブが、目に見えて荒れ始めていたのだ。
「ぬるい。つまんねえ。シン、俺を干からびさせる気か?」
最初は喜々として盗賊退治に飛び出していった彼女だったが、この地の「敵」はあまりにも脆弱すぎた。当然だ。正規の軍事訓練すら受けていない、食い詰めた暴徒や山賊の類が、ゲルマニアの修羅場を潜り抜けてきたガーブの相手になるはずがない。俺たちにできるのは、彼女を宥めつつ、クリシュ・アランの戦士たちを相手に、砦の練兵場で終わりのない対人戦闘訓練に付き合わせることだけだった。
そして、順調だった稼業そのものにも、決定的な「陰り」が見え始める。
皮肉なことに、俺たちが完璧に仕事をこなしすぎた結果、バハ・ジャヌーラ周辺の治安が劇的に改善されてしまったのだ。山賊は駆逐され、街道の危険度は激減。それに伴い、高額な護衛依頼や討伐任務の需要そのものが消滅していった。
「シン君、これが直近の帳簿だ。来るべき時が来たよ」
オットーさんから提出された書面を見て、俺は静かに息を吐いた。想定内の事態だ。
俺は主要幹部十二名――オットー、ガーブ、ハンス、イエーガー、ヤミル、クリス、ノイン、ゲルド、コナ、フィニ、コーを砦の作戦室に招集した。
「バハ・ジャヌーラにおける俺たちの『役目』は終わった。今後の進路について、お前たちの意見を聞きたい」
「はいはーい!」ガーブが待ってましたとばかりに元気に手を挙げる。「ここ、もう飽きた! もっとこう、血が湧き立つような、面白い戦場に行こうよ!」
「それも有力な選択肢だ」俺は頷いた。「この半年の間に、ヤミルとクリスが手掛けたバハ・ジャヌーラの都市衛士の訓練は完了している。今や彼らは自前の力で都市を守れるだけの組織になった。俺たちがここを去っても、治安が瓦解することはないだろう」
「……シン、何を待っている?」ハンスが、その鋭い目を細めて俺を見つめた。
「俺はな、ハンス。そろそろこの国の中央、あるいは相応の力を持つ大領主に、俺たちの『価値』が届く頃合いだと思っていたんだ」
「なるほど。『買い手』からの直接のアプローチを待っていた、というわけですね?」オットーさんがシンの意図を補足する。
「そうだ。俺たちは名前を売った。ちんけな盗賊退治の積み重ねだが、『緋色の傭兵団』の実務能力の高さは実証したはずだ。ゲルマニアやブリタニアの時も、俺たちが動けば、オルレアン伯爵のような大物がすぐに網を張ってきた。だが……このヒスパニアでは、その気配がない」
「中央の耳目が、南の泥沼に囚われすぎているのか。あるいは、俺たちをただの『便利な道具』として使い潰す算段か」ハンスが冷酷に分析する。
「いずれにせよ、これ以上の滞留は組織の維持費が収入を上回る。オットーさんの言う通り、限界だ。これ以上この地に居座れば、今度は俺たちが『過剰な武力』として、バハ・ジャヌーラから排斥される側に回る。猟犬は、獲物がいるから飼われるんだ。獲物がいなくなれば、ただの食い潰しだ」
「みんなの状況は?」俺は各人に視線を巡らせた。
「衛士の練度は十分。引き継ぎに問題はないぜ」とヤミル。
「防壁の修繕、外周堀の構造強化はすべて完了している。メンテナンスの方法も現地の職人に叩き込んだ」と、ゲルドさんが無骨に答える。
「最近は商隊に同行しても、風の音しか聞こえないよ。退屈極まりない。周辺の通商路の安全は、現地の二流傭兵でも維持できるレベルだ」クリスが肩をすくめた。
全員の意見は一致していた。ここに、これ以上の「利」はない。
「分かった。退去しよう。さらに南方、戦火の絶えない本物の戦域へと移動する。三日以内にすべての荷をまとめろ。オットーさん、領主と商人会議所へ退去の通知を」
「了解した。明朝、最後の手続きを済ませてこよう」
「よし、解散だ。ハンス、お前は残れ。南方の詳細な勢力図と地政学的情報を再確認する」
幹部たちが席を立ち、作戦室が静まり返る。俺は深く椅子に寄りかかり、長いため息を吐いた。当てが外れた。もう少し早く、ヒスパニアの「国家」という枠組みから接触があると思っていたのだが。だが、出ない賽の目を呪っても始まらない。気持ちを切り替えるだけだ。
翌日、砦内は退去のための慌ただしい活気に包まれていた。ガーブはつまらなそうに、俺の隣で木箱に腰掛け、団員たちの作業を眺めている。
「んー……シン、楽しかったバカンスもおしまいだねえ」
「ああ、お終いだ。ガーブ、次からはお前の望む通りの大舞台を用意してやる。暴れ狂う準備をしておけ」
「ん、約束だからね」ガーブは白い歯を見せてニカッと笑うと、自身の武器の点検へと歩き出した。
「おい、そこの! 荷物を積むだけで満足するな、ロープの結び目が緩い! 行軍中に荷崩れを起こす気か! 集団行動の鉄則を忘れるな!」
俺の指示が響く中、団員たちは意外なほど楽観的に撤収作業を進めていた。彼らにとって、一つの場所に定住すること自体が異例なのだ。彼らの本質は、どこまでいっても境界線なき世界の住人。
やがて、誰からともなく、「あの歌」が口ずさまれ始めた。
『傭兵稼業は、根無し草――♪』
『傭兵稼業は、根無し草――♪』
それは、かつてフランクの泥濘で、ゲルマニアの廃都で、数え切れないほどの仲間を失いながら歌い継いできた、血と硝煙のバラードだった。
「風の吹くまま、今日も行く――
昨日の敵とも、杯交わし――
名前も過去も、置いてきた――
どうせベッドで、死ねない身――」
一人、また一人と、作業の手を止めずに歌声が重なっていく。
「ヘイ! 根無し草でも、歌はある――
ヘイ! 最期は誰にも、選べない――
剣のきらめき、星にして――
今夜は派手に、笑おうぜ――
どうせ明日は、来ないかも――
だから今を、歌い切れ――!」
「倒れた仲間の、名を刻む――
墓標代わりに、この歌へ――」
最後は、砦全体を震わせるような大合唱となった。その中に、明らかに音程の外れた不協和音が混ざっている。ガーブだ。フィーアが笑いながら彼女の脇腹を突き、ガーブが照れ隠しに軽い蹴りを返している。新参のクリシュ・アランの戦士たちは、その奇妙な一体感に戸惑いつつも、どこか羨望の眼差しでそれを見つめていた。
(いい仲間だ。だからこそ、俺の役割はただ一つ。彼らを犬死にさせないための、絶対的な戦略を構築することだ)
夕方、バハ・ジャヌーラから戻ったオットーさんは、満足げな顔をしていた。
商人会議所では、治安維持の要を失うことを恐れた商人たちから涙ながらに引き止められたらしい。だが、オットーさんは「市場の飽和」と「維持コストの不釣り合い」を冷徹な商業論理で解き明かし、最後は商人同士の最高級の挨拶――『商機を我が手に、利を逃さず、不渡りなき明日へ』を交わして綺麗に縁を切ってきたという。領主の反応は「そうか、苦労をかけたな」という、実にあっさりしたものだったらしいが。
これで、未練はなくなった。
ふと見ると、給食隊の馬車の周りに、見慣れない女の子が二人増えていた。聞けば、近隣の村の孤児で、この半年の間に給食隊のキビキビとした働き振りに憧れ、自分たちも連れて行ってほしいと直訴してきたのだという。
「連れていけない。俺たちが向かうのは本物の戦場だ。明日、誰が死んでもおかしくない世界だぞ」
俺は厳しく諭そうとしたが、かつてエマおばちゃんの薫陶を受け、今や給食隊の差配を任されているマリナが、巨大なスープ用の木べらを肩に担いで前に立ちはだかった。
「だったら、アタシたち給食隊も全員ここに置いていきなよ、副団長さん。死ぬ? はっ、人間なんてね、クソ重い病気に罹るか、野盗に首をハネられるかして、いつか勝手に死ぬんだよ! 自分の生きる場所を自分で決めた連中を、あんたの安っぽいお節介で否定すんな!」
凄まじい剣幕だった。周囲の傭兵たちからも「そうだぞ、シン。マリナの言う通りだ」「飯炊きの人数が増えるのは大歓迎だ!」と擁護の声が上がる。
俺たちは完全に彼女たちに胃袋を握られている。ここで給食隊を敵に回せば、明日からの行軍の質が著しく低下するのは明白だった。
「……分かった。ただし、いざという時は足手まといにならず、後方支援の指示に従うこと。これが条件だ」
俺が折れると、給食隊から歓声が上がった。まったく、ガーブといいマリナといい、うちの組織の女性陣は、前線の重装歩兵よりも遥かに肝が据わっている。
アタラヤ・デ・ラ・ジャヌーラ砦を出発して三日。
俺たちの長い隊列は、平穏な北東辺境を抜け、乾いた緊張感が漂う南方の境界領域へと差し掛かっていた。
その時、前方を走っていた特務隊の斥候から、緊迫した一報がもたらされた。
「前方街道上、軍装の騎兵集団を確認。数はおよそ二〇〇。こちらに向かって直進中!」
にわかに、平原の空気が凍りついた。




