第四章 郡山から仙台へ――見た松、見ぬ里(三)
元禄二年五月三日から四日(新暦六月十九日、二十日)。眠れぬ夜のあと、芭蕉は領境を越え、武隈の松を見ます。歌枕の笠島を前にして、道を急ぐ二日間です。
七 伊達の大木戸
五月三日。夜が明けても、雨は残っていた。
芭蕉は身を起こそうとして、腹の底にまだ鈍い痛みが居座っているのを知った。朝のうちに、ようやく雨が止んだ。
発つ気になれなかった。夜の名残が、体にも心にも重く沈んでいる。それでも、ここに留まっていては、道は先へ進まない。
曾良が宿の者に頼み、馬を借りてきた。
「桑折まで、馬で行きます」
「歩ける」
「歩けませぬ」
曾良の声は、珍しく強かった。芭蕉は言い返しかけて、やめた。
馬の背に揺られながら、芭蕉は行く手を思った。松島も、平泉も、その先の北陸も、まだ遠い。この体で、そこまで行き着けるのか。
旅に出る前から、覚悟はしていたはずだった。道のほとりで倒れて死ぬのなら、それもまた天の命だ、と。
その覚悟が、いま試されているのだと思った。
「曾良」
「はい」
「この先、旅の途中で命を落とすことになっても、それもまた天命なのだ」
「縁起でもない」
「覚悟の話だ。……そう思うと、少し楽になる」
曾良は答えなかった。ただ、馬の轡を取る馬方のあとを、黙って歩き続けた。
桑折は伊達郡の宿場である。そこで馬を返し、ここから先は、自分の足で踏んでいくことにした。気力が少し戻ってきたのを、芭蕉は感じた。
町を抜けて北へ進むうち、道は山あいへ入った。国見峠のあたり、伊達の大木戸と呼ばれる場所に差しかかった。およそ五百年前、奥州藤原氏の最後の当主・藤原泰衡が、鎌倉の源頼朝の大軍を迎え撃つため、山に防塁(巨大な要塞壁)を築かせた古戦場である。
奥州方は、ここで敗れた。芭蕉は山を見上げた。平泉の最後の主が望みをかけた防塁は、破られたのだ。その平泉は、この先にある。
峠を越えた先、貝田と越河のあいだに、福島領と仙台領の境があった。仙台領は、仙台藩(伊達家)の領地である。左手に、石を積み重ねた所がある。大仏石という。
曾良は「福島領と仙台領の境」と書き留め、福島領と呼ばれた土地も、桑折より北はいまは幕府の代官所が支配しているという注記を添えた。
「仙台領ですな」
「ああ」
境を越えても、道も山も木々も変わらなかった。変わるのは、土地の名と、そこを治める者である。
だが人は、その境を意識して歩く。
これまでの道にも、境はあった。栗橋の関所は、手形を求められることも、事情を問われることもなかった。白河の関を越えたときも、意識したのは領地の境より、陸奥へ入ったという感覚のほうだった。
今度は、違う。仙台領は、まだ見ぬ土地である。
芭蕉は、積み重ねられた石を見た。境を示すために置かれたものなのか、ただ積まれただけなのかは分からない。ただ、ここに石があるということは、誰かがこの場所を境と思ってきたということだった。
越河の宿を過ぎ、道はまた山のふもとを行く。斎川の手前、道の下に、鐙壊という名の岩があった。そこから少し下ったところ、道の右手に、小さな御影堂(人の像を祀る堂)が見えた。
継信と忠信の妻を祀る堂だという。
芭蕉は足を止めず、堂の前を通りながら、笠を傾けて会釈した。昨日、石塔のかたわらで見たふたつの碑が、堂の内に重なった。
夕方、白石に着いた。
宿に入って荷を解く。
「武隈の松は、岩沼でしたな」
「ああ。見ておきたい」
「寄れましょう」
曾良は、足の裏の泥を落とした。
八 武隈の松
五月四日。雨は朝のうちに少し残っていたが、まもなく止み、折々日が射した。白石を発ち、岩沼へ向かう。
岩沼の入口の左手に、竹駒明神がある。二人は参道を入り、神社を預かる別当寺のうしろへ回った。
そこに、松があった。
竹垣で囲われている。まわりは侍屋敷で、その屋敷の主が守っているという。
芭蕉は松の前に立ち、しばらく動かなかった。
根は土際から二本に分かれ、それぞれが上へ伸びている。枝は広く張り、緑は深かった。目の覚めるような心地がした。
たけくまの松はふた木を都人いかがと問はばみきと答へむ。
都の人に武隈の松はどうかと尋ねられたら、二本の木を見たと答えよう、という意味だ。二木と「見き」の響きを掛けて遊んだ、古い歌である。そして、能因(平安時代中期の僧侶・歌人)の歌があった。
武隈の松はこのたび跡もなし千年を経てや我は来つらむ。
今度来てみると、松の跡もない。千年も経ってから、私は来たのだろうか、という歌である。
昔、陸奥守(陸奥国を治める長官)としてこの地に下った人が、この松を伐って、名取川の橋杭にしたという。能因が訪れたときには、跡形もなかったのだ。その後も、あるときは伐られ、あるときは植え継がれて、この松は代を重ねてきたと聞く。いま目の前にあるのは、千年の昔の姿を取り戻したかのような、見事な松だった。
昔のままの木ではあるまい。それでも、歌に詠まれた松が、歌のとおりにここに立っている。それで十分ではないか、と芭蕉は思った。
弟子の挙白が、旅立ちの餞別にくれた句があった。
武隈の松見せ申せ遅桜
遅咲きの桜よ、師に武隈の松をお見せしてくれ、と頼む句である。
深川を出たのは三月の末、桜の名残の頃だった。四月を越えて、いまは五月である。
芭蕉は、二本に分かれた幹を見上げた。
散り失せぬ松や二木を三月越し
桜はとうに散ったが、二本の松は、三月を越えて、いまも変わらず立っている。
声には出さなかった。矢立を取り出し、黙って句を書き留めた。曾良は竹垣の外に立ち、松と屋敷の様子を見ていた。
芭蕉は矢立をしまい、松に一礼して竹垣を離れた。
九 笠島を見ず
武隈の松を後にして、二人は北へ向かった。岩沼から増田へ。この季節の長雨を五月雨という。雨のあとの道は重く、草鞋が泥を吸った。
途中で、曾良が足をゆるめた。
「笠島は、この道から左へ一里ばかり入った所です」
「実方の塚があるのは」
「その笠島です」
藤原実方。一日目、浅香山の話に出た、あの陸奥守である。この地で、道祖神(道の神)の前を馬に乗ったまま通りかかり、馬が倒れて命を落としたと伝えられる。
芭蕉は、道の先を見た。道はまっすぐ北へ続いている。
「寄りますか」
芭蕉は足もとを見た。雨のあとの道は泥を含み、一歩ごとに草鞋が重い。体の芯には、飯坂の夜の疲れがまだ残っていた。
「寄れば、往き戻りだけで二里(約8km)ほどはかかる。今日は仙台まで行かねばならぬ。名取川も越えねばならぬ」
曾良は笠島の方角を一度見て、歩き出した。
笠島は道の左手にある。ここからは見えない。田が広がり、遠くに山の影があった。その向こうに里があり、実方の塚がある。
「惜しいですな」
曾良が言った。
芭蕉は答えなかった。
松は見た。笠島は見ない。どちらも歌に詠まれた土地でありながら、一方は目の前に立ち、一方は道の外に残る。
芭蕉はもう一度だけ左を見て、あとはふり返らなかった。ぬかるんだ道に足を取られながら、口の中で句を整える。
笠島はいづこさ月のぬかり道
さ月は五月のこと。笠島はどのあたりだろう、五月雨にぬかるんだ道が、行く手を阻んでいる、という句である。
十 仙台へ
中田を過ぎると、名取川に出た。川には大橋と小橋、ふたつの橋がかかり、水は左から右へ流れていた。
橋を渡りながら、芭蕉は武隈の松のことを思った。あの松は、かつてこの川の橋杭にされたという。そのときの橋は、もうどこにもない。流れだけが、昔と同じ向きに流れているのだろう。
長町の出口で若林川を越えると、その先が仙台の町だった。夕方である。
町は広く、家並みが長く続いていた。宿場町とは違う、城下の広さと人の多さがある。どの家の軒にも菖蒲が葺かれていた。翌日の五月五日は端午の節句。戸口のあたりに青い匂いが立っている。
浅香山では、かつみに出会えなかった。ここには、あやめがある。
宿は、国分町にあった。部屋に通され、芭蕉は草鞋を脱いで座った。
「仙台に着いたな」
「着きました」
「松島は、近い」
曾良は少し考えた。
「近いと言えば近いのですが、仙台から塩竈、塩竈から松島と、まだ二日の道のりと聞いております」
「二日か」
「その前に、仙台で幾日か過ごすことになりましょう」
芭蕉は窓の外を見た。町の灯が、軒の菖蒲の影を揺らしている。
松島。旅に出る前から、胸の底にあった名である。それがいま、手の届くところにある。
「明日は、書状を届けに行こう」
「はい」
その夜、二人は早く休んだ。
【あとがき】
この話では、領境を越えることと、歌枕を訪ねることを重ねて描いた。山や道は境を越えても変わらないが、治める者と土地の名は変わる。そして、歌に詠まれた場所であっても、すべてを訪ねられるわけではない。
◆ 旅程について
五月三日、飯坂から桑折まで馬を借りたことは、『おくのほそ道』が記すもので、曾良の日記には記されていない。道のほとりで死ぬのも天命と覚悟を固める心の動きも、『おくのほそ道』に記されている。この場面の会話は創作である。
◆ 旧跡と句について
阿津賀志山の防塁は、文治五年(一一八九)の奥州合戦に際し、藤原泰衡が鎌倉方に備えて築かせたものとされる。現地で鎌倉方を迎え撃った大将軍は、泰衡の異母兄・国衡とされる。防塁の位置と福島領・仙台領の境は、同じ一点とは断定していない。
「たけくまの松はふた木を都人いかがと問はばみきと答へむ」「武隈の松はこのたび跡もなし千年を経てや我は来つらむ」は、ともに『後拾遺和歌集』に見える歌。武隈の松は、一本の古木が千年そのまま残ったという意味ではない。伐採と植え継ぎを経て、歌枕として伝えられてきた松である。本文の「散り失せぬ松や二木を三月越し」は『四季千句』に伝わる句形を採った。芭蕉自筆の句文懐紙には「ちりうせぬ松は二木を三月ごし」が残り、『おくのほそ道』では「桜より松は二木を三月越シ」と推敲後の形が記される。
笠島の位置は、曾良の日記に従って道の左手とした(『おくのほそ道』は右)。芭蕉が笠島に寄らなかった理由について、日記は何も記さない。『おくのほそ道』は、五月雨で道が悪く、身も疲れていたため、よそながら眺めて過ぎたと記し、「笠島はいづこさ月のぬかり道」の句を載せる。本作は、これに仙台までの行程を重ねて描いた。句を口の中で整える場面は小説上の創作である。
斎川の御影堂は、現在、甲冑堂と呼ばれる堂に当たるとされる。御影堂での芭蕉の行動は日記にないため、会釈にとどめた。




