第四章 郡山から仙台へ――見た松、見ぬ里(二)
元禄二年五月二日(新暦六月十八日)。福島から飯坂へ。
歌に詠まれた石と、佐藤兄弟ゆかりの旧跡を訪ね、雷雨の夜に、芭蕉は長い一夜を過ごします。
四 文字摺石
五月二日。朝から快晴だった。
福島の町を出て十町(一キロほど)行くと、五十辺村のはずれに川があった。二人はその川を渡らず、右へ入って、岡部の渡しで阿武隈川を舟で越えた。
そこから山の方へ十七、八町(二キロほど)。谷あいに、文字摺石があった。このあたりを山口村という。
石のまわりには柵がめぐらされていた。近くには小さな観音堂があり、杉と檜が六、七本立っている。虎が清水と呼ばれる浅い水場もあった。曾良は柵に沿って歩き、立木の数を数え、水の場所を確かめて、帳面に書いた。
芭蕉は柵の前に立った。
石は、半ば土に埋もれ、模様を摺り出す面を下にして伏していた。
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに。
忍草を布に摺りつけ、乱れた模様を染め出す。その乱れ模様に、人の心の乱れを重ねた恋の歌である。私の心が乱れたのは誰のせいか、私のせいではないのに、と詠んでいる。石を使って摺ったとも伝えられるが、実際の技法には分からぬところがある。
だが、模様を写したはずの面は、いま土の中を向いている。見えるのは、石の背だけだった。
柵の外に、村の子が二、三人集まってきた。旅の者がもの珍しいらしい。
「この石は、昔は山の上にあったんだ」
いちばん年かさの子が言った。
「旅の人が来ては、麦草を踏み荒らして、この石で摺ってみるんだ。それで村の者が怒って、谷へ突き落とした。そうしたら、面が下になった」
子どもたちは、村の伝承を至極当然のこととばかりに語った。
「そういうこともあろうか」
芭蕉は、苦笑した。
歌の中では、王朝の恋を映す石である。だが麦を育てる村の者にとっては、畑を荒らす旅人を呼ぶ、厄介な石でしかなかった。どちらかが嘘だというのではない。どちらも、この谷にある。
石の向こうの田では、早乙女(田植えをする女たち)が苗を植えていた。束から苗を取っては、水の中へ挿していく。その手つきを、芭蕉はしばらく見ていた。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
早乙女が早苗を取る手つきに、昔の忍摺の手つきがしのばれる、という句である。
低く口吟し、芭蕉は矢立を取り出して句を書き留めた。曾良は、石と、田に働く早乙女たちを見比べていた。
芭蕉は観音堂に手を合わせ、柵を離れた。
五 佐場野
山口村を出て、月の輪の渡しでもう一度阿武隈川を越えた。瀬ノ上の宿を過ぎ、さらに一里半ほど行くと、佐場野である。
道は田のあいだをゆるく上り、やがて寺の門が見えてきた。医王寺。佐藤庄司ゆかりの寺である。
門の前で、曾良が足を止めた。寺には、義経ゆかりの笈(旅の荷を背負う箱)や、弁慶が書いた経、系図などがあると聞く。
芭蕉は門の内へ一度目をやった。伝えられる宝物よりも先に、石塔に眠る者たちを訪ねたいと思った。門をくぐらず、西へ歩き出した。曾良もあとに従った。
西へ行くと堂があった。堂のうしろに、庄司夫婦の石塔が立っている。堂の北のわきには、兄弟の石塔があった。どれも古く、刻まれた文字は読み取りにくかった。
佐藤庄司とは、この地を治めた佐藤基治のことで、奥州の主・藤原秀衡に仕えていた。その子の継信と忠信は、源義経の家来となった。伝承では、継信は屋島で義経をかばって矢を受け、忠信は都で義経の身代わりを務めた末、敵に攻められて自刃したという。
兄弟の石塔のわきに、竹が生えていた。兄弟が旗竿を挿した場所と伝えられ、そこに生える竹を「はた出し」と呼ぶという。毎年二本ずつ、同じように生えてくると聞く。
「何本ある」
曾良は竹を見た。
「二本です」
答えてから、念のため、もう一度数えた。
石塔のかたわらには、さらに二つの碑があった。兄弟の妻たちのしるしと伝えられるものだった。
夫たちを失い嘆き悲しむ姑を慰めるため、二人の妻はそれぞれ夫の鎧兜を身につけ、帰還した姿を装ったという。
女ながら、よくもこれほどの名を世に残したものだ。芭蕉はそう思い、袂で目もとを押さえた。
曾良は何も言わず、少し離れた所で竹を見ていた。
風が杉の梢を渡っていった。芭蕉はふり返らず、飯坂の方へ歩き出した。
六 飯坂の一夜
寺を離れ、川を越えて十町ほど東へ行くと、飯坂である。昼を過ぎたころから、空は曇りはじめていた。
村の上の方に、佐藤庄司の館の跡があるという。二人は遠くからそれを仰ぎ、まず湯へ向かった。
湯は、村の湯屋にあった。石段を下りると、湯気が立っている。湯は熱かった。芭蕉は肩まで浸かり、目を閉じた。歩き続けた足の疲れが、ゆっくりと溶けていく。
「ほっとしますな」
隣で曾良が言った。
「湯は、旅の者の友だ」
「はい」
湯から上がるころ、空は暗くなり、細い雨が降りはじめていた。二人は急いで宿を探した。
見つかったのは、宿とも呼べぬ貧しい家だった。通された部屋は土間に筵を敷いただけで、畳も床もない。灯をともす油もないといい、二人は囲炉裏の火の明かりを頼りに、寝床をこしらえた。
「ここで、よろしいですか」
曾良が声をひそめて言った。
「他を探す余裕はない。日も暮れる」
「それは、そうですが」
「寝られれば、宿だ」
曾良は何も言わず、荷を壁際に寄せた。
横になってほどなく、雨音が強くなった。屋根を叩く音に、遠くの雷が混じる。やがて雷は近づき、稲光が戸の隙間を白く染めた。
「雨ですな」
「旅には、つきものだ」
「明日は桑折を経て、白石までです。雨が止まねば、草鞋が重くなります」
「止む」
「先生は、よくそう言います」
「言わねば、出られぬ」
曾良は小さく笑って、囲炉裏の灰をならした。
芭蕉は雨音を聞いていた。
明日は桑折を経て、伊達の大木戸を越える。国見峠を越えたその先に、福島領と仙台領の境がある。
領境。芭蕉は、その言葉を胸の中で繰り返した。
雨音は、夜が深くなっても止まなかった。止まぬどころか、屋根の傷んだところから雫が落ち、横になった芭蕉の上へ滴った。筵の端へ体をずらしても、また別の所から落ちてくる。
蚤が脛を刺し、蚊が耳もとで鳴いた。払っても払っても、数は減らない。眠ろうとするたびに、どこかが痒く、どこかが濡れた。
どれほど経ったか。腹の底が、鈍く痛みはじめた。
古い持病だった。長い道のりの疲れが、体の奥に溜まっていたのだろう。痛みは波のように寄せては引き、引くたびに深くなった。芭蕉は歯を食いしばり、声を出さぬようにした。額に汗が滲む。寒いのに、汗だけが出る。
「先生」
暗がりで、曾良の声がした。眠ってはいなかったのだ。
「……起きていたか」
「起きるほかありません」
曾良は濡れた筵を避けて近づき、芭蕉の背に手を当てた。何も言わなかった。
「さきほど」
芭蕉は、絞り出すように言った。
「湯は旅の者の友だ、と言ったな」
「はい」
「夜までは、友ではなかったらしい」
曾良の手が、一瞬止まった。それから、押し殺した笑いが漏れた。
「そのような軽口が出るなら、まだ大丈夫です」
「軽口でも言わねば、持たぬ」
芭蕉も、息のあいだで笑った。笑うと腹が痛んだ。
雷は遠のいたが、雨は夜通し降り続いた。意識が遠のきかけては、痛みに呼び戻される。消え入るような心地、とはこのことかと、芭蕉は思った。
五月の夜は短い。それでも、この夜は長かった。
やがて、戸の隙間が、ほんのりと白んだ。
【あとがき】
文字摺石では、歌に詠まれた由緒と、土地の人々が伝える話とを重ねた。佐場野では、佐藤兄弟ゆかりの旧跡を訪ね、伝承が後世に残したものを描いている。
◆ 句・歌について
「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」は『古今和歌集』に載る歌。忍草を布に摺りつけ、模様を染め出す技法と結びつけて語られてきたが、文字摺石との関係や実際の染色技法には不明な点がある。
「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」は『おくのほそ道』に載る芭蕉の句。田植えをする早乙女の手もとを、歌枕の伝承と重ねて詠んでいる。
◆ 旧跡と伝承について
文字摺石を谷へ突き落としたという子どもたちの話は、『おくのほそ道』に基づく。曾良の日記は、佐場野で庄司夫婦と兄弟の石塔、旗出しの竹を記すが、妻たちの碑には触れていない。本作では『おくのほそ道』の配置を採り、妻たちの碑と、翌日に道中で通る御影堂を別の場所として描いた。妻たちが夫の鎧兜を着て姑を慰めたという話は伝承である。
日記は佐場野の寺の名を記さない。本作では、現在、佐藤氏ゆかりの寺とされる医王寺に当たると考えて名を出した。佐藤基治は資料によって元治とも記され、元治を幼名とする説もあるが、確かな典拠を確認できないため、本作では基治の名で通した。
『おくのほそ道』は、この寺で「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」と詠むが、曾良の日記は寺に入っていないと読めるため、本作は句を採らなかった。
◆ 飯坂の宿について
飯坂の夜について、曾良の日記は、湯に入ったことと、夜に強く雨が降ったことしか記さない。一方『おくのほそ道』は、土間に筵を敷いただけの粗末な宿で、雷雨と雨漏りに加えて蚤や蚊に責められ、持病まで起きて眠れなかった一夜を記す。また、『おくのほそ道』は、佐藤庄司の旧跡を訪ねた日を五月朔日と記し、その夜に飯塚(飯坂)に泊まったとするが、曾良の日記では五月二日である。本作は日付と旅程を日記に従い、宿の描写には『おくのほそ道』を採った。曾良との会話や、軽口を交わす場面は創作である。




