第三章 須賀川から乙字ヶ滝へ 水かさの日 (改稿版)
第三章は、旧暦四月二十一日に白河の関を越えた日から、二十九日に須賀川を発つまでの九日間(新暦では六月八日から十六日)。須賀川で旧知の俳人と再会し、雨に足を止められる旅です。
白河の関を越えた松尾芭蕉と河合曾良は、陸奥の奥へと歩を進める。
一 白河を越えて
住吉と玉島を祀る古関の明神を拝したあと、芭蕉と曾良は来た道を戻り、関山へ向かった。麓から峯までは十八丁(二キロほど)。朝方の雨を含んだ山道は湿っていて、芭蕉は黙って足を運んだ。やがて山門が見えた。成就山満願寺。奈良時代の高僧、行基菩薩が開いたと伝わる古い寺で、本堂の奥には行基と弘法大師を祀る堂がある。山門と本堂のあいだには、寺を預かる別当寺があり、真言の僧が起居していた。
本堂に参るころ、また雨が落ちてきた。二人は軒下でしばらくやり過ごした。ほどなく雨脚が弱まり、止んだ。
「さっきまで降っていたのに」
「山の天気は変わります」
「山だけか」
曾良は答えなかった。
山を下りて白河へ向かう。昼を過ぎるころには雲が切れ、陽が差してきた。白河の町では中町の左五左衛門を訪ね、黒羽へ送る小袖と羽織、それに書状を預けた。黒羽の人々にあてたものである。用を済ませると、二人はすぐに町を出た。
矢吹に着いたのは、日が西へ傾きはじめるころだった。白河から四里(十六キロほど)。宿を定め、芭蕉が草鞋を脱いでいるあいだに、曾良は旅日記を開いて墨をすった。
「明日は須賀川ですな。等躬殿がお待ちでしょう」
その名を聞いて、芭蕉の顔が少しゆるんだ。
「久しく会っていない」
曾良は筆を止めずに頷いた。
相楽等躬。須賀川の豪商で、宿場を取りまとめる役も務める俳人である。須賀川の俳諧の中心人物で、芭蕉より六つ年上、五十歳ほどになる。
白河の関は越えた。奥州にも入っている。それでも旅は、まだ見知らぬ土地ばかりを歩くものではなかった。
久しく会っていなかった旧知の友との再会が待っていた。明日は、その男の家を訪ねる。
二 風流の初め
四月二十二日、空は曇っていた。矢吹を発って奥州街道を北へ進む。道の両側には水を張った田が続き、遠くの田で腰を曲げている人の姿が見えた。田植えの季節だった。
しばらく歩いて阿武隈川を渡った。左手には会津の峰が高く、右手には岩城、相馬、三春の山々が連なっている。やがて、かげ沼と呼ばれる沼に出た。名のとおり、晴れた日には物の影が水面に映るという。この日は空が曇っているせいで、影は映らない。
「今日は、映りませんな」
「空がこれでは、無理もない」
二人は沼をあとにした。
やがて須賀川の町に入った。奥州街道でも指折りの宿場で、人馬の往来が多い。相楽等躬の家は本町にあった。宿場を取りまとめる家だけあって、門前には荷を下ろす馬と馬方が出入りしている。曾良が声をかけるより先に、内から人が出てきた。等躬だった。
「ようやく来られましたな」
「待たせた」
「旅の者には短くとも、待つ者には長いものです」
「昔から、口がうまい」
「昔からご存じでしょう」
等躬は曾良のほうへ向き直った。
「河合殿も、ご無事で何より」
「おかげさまで」
座敷に通され、茶が出た。ひと息ついたところで、等躬が尋ねた。
「さて、白河の関はいかがでした」
芭蕉はしばらく答えなかった。
「どう、と言われてもな」
「何か思われたでしょう」
「思った。長旅の疲れが身にも心にも溜まっていたし、あの景色を前にすれば、古人の歌も浮かんでくる。それで、何をどう句にしたものか、まとまらなかった」
「一句も」
「ああ」
「芭蕉殿でも」
「句は、こちらの都合で出てくるものではない」
等躬は声を立てて笑った。
「それで、手ぶらで須賀川まで。関を越えて初めて会う友に、空手で通すおつもりですか」
芭蕉は茶碗を置いた。
日が傾きかけていた。田のほうから、歌声が流れてくる。日の暮れる前に植え終えようとする人々が、苗を植えながら歌っているのだった。
「田植え歌か」
「この辺りは、いまが盛りです」
芭蕉はしばらく耳を澄ましていたが、やがて筆を取った。
「風流の初やおくの田植うた」
等躬は、書きつけられた句を声に出して読んだ。
「田植え歌を、風流の初めに」
「奥へ入って、初めて耳にした風流だ」
風流とは、ここでは詩歌を詠み、味わう道のことをいう。
「では、こちらから続けましょう」
等躬が筆を取った。
芭蕉の句は、連句の最初の句、発句である。連句とは、何人かで五七五と七七を交互に付け合い、句を連ねていく遊びで、発句に付ける二句目を脇、三句目を第三という。
「覆盆子を折て我まうけ草」
野苺を折って、もてなしにしようという句だった。芭蕉が頷き、曾良が第三を付けた。
「水せきて昼寝の石やなをすらん」
川の水をせき止め、昼寝のための石を据え直しているのだろうか、という句である。
句は句を呼び、三人の筆が紙を埋めていった。白河の関で一句もまとまらなかった芭蕉の矢立が、須賀川の座敷ではよく動いた。
三 軒の栗
四月二十三日は、昼過ぎまで等躬の家で過ごした。夕方になって、等躬が言った。
「可伸のところへ行きませぬか」
「可伸」
「俳諧をする男です。静かな人ですよ」
「そなたの口添えでは、何も分からぬ」
「会えば分かります」
等躬に案内され、芭蕉と曾良は裏通りへ入った。等躬の家から四、五軒ほど南、裏通りに近いところに小さな庵があり、軒のそばに大きな栗の木が立っている。枝は屋根の近くまで伸びていた。
庵の前にいたのが可伸、俳号(句を詠むときの名)は栗斎である。僧の姿をしているが、寺に属する僧ではないらしい。人の多いところを離れ、栗の木の下でひっそり暮らしている男だった。
「これは、遠いところを」
「こちらこそ」
庵はごく質素で、必要なものしか置かれていない。芭蕉は栗の木を見上げた。
「大きな木だ」
「昔からここにあります。栗という字は、西の木と書くそうで。西方の浄土に縁のある木だとして、行基菩薩が杖にも柱にもお用いになったと聞いております」
「行基か」
芭蕉は、一昨日登った関山の、行基菩薩の堂を思い出した。
「あの御堂を拝んできたばかりだ」
「それは、ご縁ですな」
可伸は静かに笑った。
しばらく話して庵を出ると、帰りに近くの寺々と八幡社に参った。栗の木は、町なかにあってもひどく目立たない。だが、一度見れば忘れがたい木だった。
四月二十四日。この日、等躬の家では田植えがあった。朝から家の者たちが田に出て、腰を曲げ、苗を一本ずつ水に挿していく。田の端から歌声が聞こえる。二日前の夕方、座敷まで流れてきたのと同じ節だった。
昼過ぎ、可伸の庵に須賀川の連衆(句を連ねる仲間)が集まった。等躬のほか、医者の吉田祐碩(俳号は等雲)、内藤安衛門(須竿)、矢内弥市右衛門(素蘭)、そして庵主の可伸。芭蕉と曾良を合わせて七人である。
栗の木に目をやると、枝先に花がつきはじめていた。白く細い、目立たない花である。
「咲いておりますな」と可伸が言った。
「ああ」
「見ようとせねば、見落とすでしょう」
芭蕉は花を長く見ていた。それから紙を広げ、筆を入れた。
「隠家やめにたゝぬ花を軒の栗」
世を避けて暮らす庵の軒に、人の目を引かぬ花を咲かせる栗の木。その姿は、庵の主にもよく似ていた。
等躬は、書きつけられた句を読んだ。
「可伸殿のための句ですな」
可伸は何も言わず、しばらく句を見つめていた。それから筆を取り、脇を付けた。
「稀に螢のとまる露艸」
露を置いた草に、ときおり蛍がとまる。目立たぬ庵の静けさを、そのまま受けた句だった。
歌仙が始まった。三十六句を連ねる連句の形である。七人の句が次々と紙を埋めていく。そのうち、遠くで雷が鳴った。誰かが戸口を見る。もう一度鳴り、やがて雨が落ちてきたかと思うと、一気に本降りになった。屋根を打つ音で、座敷の声が聞き取りにくい。
「雷まで来ましたな」と等雲が言った。
芭蕉は句の紙を押さえた。風が入れば飛ばされる。雷鳴が近づいても、筆は止まらなかった。やがて日が傾くころ雷雨は収まり、歌仙も巻き終わった。
会席に出されたのは蕎麦で、等雲が一同にふるまった。湯気の立つ椀を手に、芭蕉は庵先の栗を見た。雨に濡れた葉が、わずかに揺れている。
「花は、目立たぬままだな」
「そのほうがよいのでしょう」と可伸は言った。
芭蕉は笑った。
四 雨の書状
四月二十五日は、等躬の物忌みの日だった。身を慎んで過ごす日で、火も別にして、家の中は常より静かである。芭蕉と曾良は旅の道具を改めた。笠の紐を締め直し、矢立の墨を確かめる。
「そろそろ発つ頃合いですな」と曾良が言った。
「ああ」
黒羽でも予定より長く留まった。須賀川でも、気がつけば日が過ぎている。それでも、歩いていないのに旅が止まっているとは思えなかった。
二十六日は小雨だった。芭蕉は江戸の杉風へ書状を書いた。道中のこと、曾良が達者でいること。近く発つつもりだと書き、句はあまりできぬ、と書き添える。書き進めるうち、先月の今日、杉風が来てくれたことが思い出された。旅に出てから、宿を変えるたびに、曾良とそのことを話していた。杉風の厚意は誰よりありがたかった、と口にしては、目頭が熱くなる。芭蕉の筆が止まった。しばらく紙を見つめてから、筆を取り直した。
芭蕉は書状を書き終えてたたんだ。
「出しましょう」と曾良が言った。
雨はまだ細く降っていた。
五 水かさ
四月二十七日、曇り。この日は須賀川の連衆と三つ物を巻いた。発句、脇、第三の三句だけで終える、短い連句である。その座に等雲もいた。話の合間に、等雲がふと言った。
「須賀川から東へ二里ばかり行ったところに、石河の滝がございます。阿武隈川の本流が落ちる滝で、守山へ抜けられるなら、そこを見てから行く道もありますよ。案内いたしましょう」
「滝か」
「この長雨で、さぞ水が増しておりましょう」
「見てみたい」
そのあと、芭蕉と曾良は連衆とともに芹沢の滝へ向かった。須賀川の西、丘陵のあいだにある小さな滝である。ふだんは細い流れなのだろうが、雨続きで水量が増し、狭い谷いっぱいに水があふれていた。
「小さくとも、増せば様子が変わりますな」と曾良が言った。
「石河の滝は、これよりずっと大きいのだろう」と芭蕉が言うと、等雲が頷いた。
「比べものになりません。明日、お発ちのついでにご覧なされませ」
「そうしよう」
六 出る日、出られぬ日
四月二十八日。朝のうちは曇っていた。この日が出立と決めてあり、荷もまとめてある。そこへ矢内彦三良という人物が訪ねてきた。話が長引くうちに、このところの雨で阿武隈川の水かさが増し、石河の滝のあたりは川を越せない、という話が出た。
出立は延びた。
「またか」と芭蕉は苦笑した。曾良は荷をほどき、旅道具を再び広げた。
昼過ぎから、二人は彦三良の家へ招かれ、暮れ方まで過ごした。帰りに十念寺へ参り、諏訪明神にも詣でた。
宿に戻ってから、芭蕉は紙を広げた。須賀川の東二里ほどに石河の滝があると聞き、見に行こうと思い立ったが、この頃の雨で水かさが増して川を越せず、取りやめた。そのいきさつを書きつけ、筆を止めて、しばらく考える。目の前に滝はなく、水の音もない。それでも、増した水の姿は思い描けた。
さみだれ、すなわち梅雨の長雨。それを受けた阿武隈川は、滝を埋めるほどの水かさになっているにちがいない。
「さみだれは滝降りうづむみかさ哉」
曾良が紙をのぞき込んだ。
「まだ、ご覧になっておられませんな」
「ああ。見ずとも、水かさは分かる」
曾良は句を見つめた。芭蕉は句を、案内を申し出てくれた等雲のもとへ届けさせた。
七 石河の滝
四月二十九日。珍しい快晴だった。朝のうちに旅支度を整え、門まで出ると、等躬が馬を用意して待っていた。昼飯の包みまで添えてある。
「守山までは、馬でお行きなされ」
「歩くつもりでした」
「歩いていては、日が暮れます」
曾良が馬を見て頭を下げた。
「ありがたいことです」
「礼は、旅をつつがなく続けられてから」
須賀川を出たのは、昼前だった。雲ひとつない空の下、阿武隈川に出る。水はまだ多く、にごっていた。滝に近づくにつれ、水音が大きくなる。ふだんなら歩いて渡れる所もあるというが、この日は水が深く、渡れない。滝から十町(一キロあまり)下った渡しまで行き、舟に乗った。川幅は広く、流れは速い。
「昨日なら、ここで足止めでしたな」
「水は急ぐ。人よりもな」
対岸で馬方に馬を預け、二人は川上へ歩いた。水音が地面を震わせるほどに近づき、木立を抜けると、視界が開けた。
石河の滝だった。
高い滝ではない。高いところで二丈(六メートルほど)、低いところは一丈(三メートルほど)しかない。だが幅がある。阿武隈川の流れが、川幅いっぱいに広がって落ちていた。雨で増した水は、滝というより、川そのものを崩して落としているようだった。
「高さは、それほどでもありませんな」と曾良が言った。
「だが、幅がある」
芭蕉はしばらく動かなかった。昨日、見られぬまま詠んだ句である。いま目の前にある水は、あの句を裏切っていなかった。むしろ句のほうが、先にここへ来ていたように思われた。
矢立には手をかけなかった。句はもうある。
二人は滝を離れ、馬の待つ渡しまで戻った。川を左手に見ながら一里ほど下ると、向小作田という宿に出る。そこから二里で守山である。
守山の宿では、人馬の手配を取り仕切る問屋の善兵衛が、二人を手厚く迎えた。等雲の添え状が効いたのである。旅の途中で、人の手が道をつないでくれる。黒羽でも須賀川でもそうだったと、芭蕉はまた思った。大元明王に参り、素蘭の紹介状を持って本実坊と善法寺を訪ねると、寺には雪村筆と伝わる歌仙絵(名高い歌人たちを描いた絵)があり、狩野探幽の描いたと伝わる大元明王の絵も拝ませてもらった。
昼を過ぎて、善兵衛は馬を出し、郡山まで二人を送らせた。阿武隈川をもう一度舟で越え、郡山に着いたのは日の入り前だった。その夜の宿は、須賀川の座敷とは比べものにならない、むさ苦しいものだった。
横になって目を閉じると、須賀川で過ごした八日が遠のいていく。田植えの歌、等躬の座敷、可伸の栗、雷雨の音、雨の中の書状、見られなかった滝、そして見た滝。
須賀川はもう遠い。前には、次の道が続いていた。
【あとがき】
第三章では、須賀川で過ごした八日間を描いた。旅の途中で旧知の友を訪ね、土地の俳人たちと句を交わし、雨に足を止められる。それでも、人との出会いから新しい句が生まれ、見られなかった景色さえ、想像の中で一つの句になっていく。会話や心情は創作である。
◆ 句について
「風流の初やおくの田植うた」
読みは「ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた」。芭蕉が須賀川で、等躬との俳諧の座で詠んだ発句である。「風流」は単なる上品な趣味ではなく、俳諧を楽しみ、句を交わす文芸の営みを指す。「おく」は奥州。白河の関を越えた芭蕉が、奥州で最初に出会った風流として挙げたのが、田植えをする人々の歌だった。都の歌人が憧れた歌枕を訪ねてきた芭蕉が、土地の人々の暮らしに根ざした歌を、風流の始まりとして受け止めている。そこには須賀川への挨拶と、奥州への期待が込められていると考えられる。『おくのほそ道』にも収録されており、作品や句碑によって仮名遣いや表記の違いはあるが、句としては同じである。
「覆盆子を折て我まうけ草」
読みは「いちごをおりて わがもうけぐさ」。等躬が付けた脇句。「覆盆子」は野に生える木苺、「まうけ草」は客を迎えるための用意の品という意味合いで読める。大げさな馳走ではなく、土地にあるものを差し出す。芭蕉の発句に、土地の主人が客を迎える気持ちを返した句である。『おくのほそ道』は「脇・第三とつづけて三巻となしぬ」と記すが、二句そのものは本文に掲げていない。本作では、俳諧の記録に残る句を採用した。
「水せきて昼寝の石やなをすらん」
読みは「みずせきて ひるねのいしや なおすらん」。曾良が付けた第三。川辺の石を動かし、水の流れを変えながら休む人の姿が浮かぶ。前の句の野苺のもてなしから、川辺の景色へと発想を転じている。「枕石漱流」(石を枕とし、流れで口をすすぐ)という、俗世を離れた暮らしを表す故事を踏まえた連想も指摘されている。
「隠家やめにたゝぬ花を軒の栗」
読みは「かくれがや めにたたぬはなを のきのくり」。四月二十四日、可伸の庵で詠まれた発句である。庵の軒近くに立つ栗の木は、枝を広げていても、花は白く細く、目立たない。芭蕉はその姿に、世間から離れてひっそり暮らす可伸を重ねたのだろう。この句は、のちに『おくのほそ道』で「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と推敲された。初案は「隠家」と「目に立たぬ花」に焦点があり、庵と栗の花の目立たなさを描いている。推敲後は「世の人の見付ぬ」が加わり、花が目立たないだけでなく、世間の人々が気づかないものとして表現されている。本作で用いたのは、曾良の記録などに残る初案である。史料に残る初案と、紀行文学として整えられた『おくのほそ道』の表現は、区別しておきたい。
「稀に螢のとまる露艸」
読みは「まれにほたるの とまるつゆくさ」。可伸が、芭蕉の発句に続けて付けた脇句。目立たない草に、ときおり蛍がとまる。栗の花を詠んだ発句に対する返答として読むことができ、庵の静けさとよく合う。「稀に」という言葉には、旅の客が訪れた一瞬の気配を重ねて読む余地もある。
「さみだれは滝降りうづむみかさ哉」
読みは「さみだれは たきふりうずむ みかさかな」。石河の滝を訪ねることができなかった四月二十八日に生まれた句である。「さみだれ」は梅雨の長雨、「みかさ」は水かさ。見ていない滝の、水かさが増した姿を思い描いて詠んだ。翌日、二人が訪れた石河の滝では、阿武隈川の水が川幅いっぱいに広がって落ちていた。句が先にあり、現地で光景を確かめることになったのである。この句は『おくのほそ道』の本文には収録されておらず、曾良の記録や『俳諧書留』などによって伝わる。後世の句碑には「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」と表記されるものもあり、「は」と「の」、「みかさ」と「水かさ」に違いがある。いずれも長雨で増水した滝を詠んだ句だが、これを『おくのほそ道』での推敲前後の違いと考えるのは適切ではない。本作では、記録に残された形をそのまま用いた。
◆ 人物について
相楽等躬は寛永十五年(一六三八)の生まれ、正徳五年(一七一五)没。須賀川の豪商で、宿場の運営にも携わった。須賀川俳壇の中心人物で、芭蕉とは旧知の仲だった。
可伸は、『おくのほそ道』に「世をいとふ僧」と記される人物。ただし、寺に所属する僧だったかどうかは明確ではない。芭蕉が訪れた庵と栗の木は、のちに「軒の栗」の句で知られるようになった。
吉田祐碩(等雲)は、薬師でもあった須賀川の俳諧仲間。石河の滝を訪ねるきっかけをつくり、守山へ向かう際にも、紹介状を通じて旅を助けた。矢内彦三良は、須賀川滞在の最終盤に芭蕉を訪ねた人物で、詳しい経歴には不明な点がある。
◆ 場所について
関山の満願寺は、現在も白河市の関山山頂にある。かげ沼は、現在の鏡石町周辺に比定される鏡沼のことで、当時は水面に物の影が映るという伝承で知られていた。
須賀川は奥州街道の主要な宿場町で、商業と交通の要地だった。可伸の庵は等躬の屋敷から数軒南にあったとされ、現在は須賀川市本町に「可伸庵跡」が整備されている。「軒の栗」の句碑もここにある。
石河の滝は、現在の乙字ヶ滝にあたる。須賀川市と玉川村の境を流れる阿武隈川にあり、水量が増すと、広い川幅いっぱいに水が落ちることで知られる。守山は現在の郡山市田村町で、当時は街道沿いの宿場だった。
なお、現在の市町村名は、現代の地図上で行程を理解するための目安であり、当時の街道や渡河地点が現在の道路とそのまま一致するわけではない。
次章では、須賀川を発った芭蕉と曾良が、さらに北へ歩みを進める。




