第五話 山崎の泥雨
第五話 山崎の泥雨
天正十年、六月。
天下を揺るがした本能寺の変から、わずか十日あまり。
備中高松城の陣から驚異的な速度で引き返してきた羽柴秀吉の軍勢――いわゆる「中国大返し」によって、京の天下は再び泥沼の戦場へと変貌していた。
一 勝龍寺城の買い手
「日金五百文。勝てば首級ひとつにつき銭一貫(千文)だ」
山崎の地に陣を張る明智光秀の陣営で、朔太郎は明智方の武将と冷徹な交渉を交わしていた。
羽柴軍四万に対し、明智軍は一万六千。折り悪く降り続く泥雨によって火縄銃が使えず、圧倒的な口減らしの中で明智方は喉から手が出るほど「戦える槍の指揮官」を求めていたのだ。
懐の所持金を底突かせないための、割り切った傭兵稼業。
朔太郎は宛がわれた食い詰めた浪人や足軽、約三十人を冷ややかな目で見回した。
「おい、死にたくないなら耳を澄ませ。俺の指示通りに槍を突き、引き、前に出るな。言われた通りに動けば、生きて報酬を持ち帰れる」
愛想も温もりもない声だ。だが、その声に含まれる圧倒的な「理」の力に、怯える雑兵たちの背筋が伸びた。
二 天王山麓の死闘
六月十三日、申の刻(午後四時頃)。
土砂降りの雨によってぬかるんだ山崎の地で、両軍が激突した。
天王山を羽柴方の先鋒(中川清秀・高山右近)に押さえられ、明智軍は雪崩を打って崩れかける。
その大混乱の最中、朔太郎の率いる即席の足軽隊だけが、異常なまでの静けさで泥の中に佇んでいた。
「慌てるな。敵の先鋒は勢い任せだ。沼地に誘い込み、脚を取られたところを三方から突け」
朔太郎の長槍が、雨を突いて鋭く走る。
柳生で掴んだ『無刀の理』で敵の突進をかわし、間合いを削いで喉を穿つ。すかさず配下の足軽たちが、指示通りに整然と槍衾を揃えて突っ込んだ。
「今だ、首を上げろ! 欲張るな、深追いするな!」
崩壊する明智軍の中で、朔太郎の部隊だけが冷徹な機械のごとき精密さで羽柴の兵をハメ殺し、次々と首級をあげていった。その数、実に十。
三 戦術の勝利、戦略の敗北
だが――一個の部隊がどれほど奮戦しようとも、四万の怒涛を押し返すことはできなかった。
「明智様の本陣が崩れたぞーッ!」
「退け! 退けぇっ!」
味方の悲鳴が、雨音をかき消して響き渡る。
せっかく上げた十の首級を抱えながら、配下の足軽たちが怯えに顔を歪めた。
「朔太郎様! どうします、このままでは包囲されます!」
「……撤退だ。首を捨てろ。命より重い荷物などない」
朔太郎は一切の未練もなく、勝ち取った首級を泥の中に投げ捨てさせた。
「明智の負けだ。計算を誤った男に付き合って死ぬ必要はない」
四 泥の撤退戦
朔太郎は長槍を振るい、追撃してくる羽柴の騎馬兵を返り討ちにしながら、配下の足軽たちを一人も欠かすことなく勝龍寺城の裏手へと退却させた。
手に入ったのは、前払いの五百文と、命のみ。
首級の恩賞は、泥の中に泡と消えた。
泥まみれの山道を下りながら、朔太郎は燃える勝龍寺城を見上げた。
「伊賀の時と同じだな……。どれほど完璧に陣を張ろうと、大きな波には勝てん」
だが、朔太郎の眼光は死んでいなかった。
伊賀の乱で敗れたあの日のように、ただ惨めに逃げたわけではない。今回は「稼ぎ、生きて部下を連れて引き揚げた」のだ。
宿に隠していた銭と合わせ、懐の所持金は一貫八百文。
敗残兵がごった返す勝龍寺城の闇に紛れながら、朔太郎は次の盤面を見据えていた。




