第三話 影と槍
第三話 影と槍
大和の山を抜けた柘植朔太郎は、山城の街道を北上し、織田の厳重な警戒を掻いくぐって京の都へと潜入した。
織田の目が光る都の片隅、東山の荒れ果てた廃寺の境内。街道の関銭や日々の食料で目減りした路銀から買い求めた、固い糒をかみちぎりながら、朔太郎は黙々と槍の柄を磨いていた。
腰の袋にある銭は、すでに三百五十文。明日の米にも事欠く有様であった。
一 漆黒の男
「……槍の柄を磨く手に、迷いがないな、朔太郎」
境内を包む夕闇の中から、ぬっと影が立ち現れた。
足音も気配もない。だが、単なる忍びの術とは異なる、数多の修羅場を潜り抜けてきた武者特有の重苦しい殺気が漂っていた。
朔太郎は手元を止めず、低い声で応じた。
「……服部、半蔵か」
そこに立っていたのは、徳川家康に仕える伊賀同心の頭領――服部半蔵正成であった。織田家への使者の供回りとして京に入り、極秘裏に信長のお膝元の情勢を探っていた男だ。
同じ伊賀の生まれでありながら、家康の庇護を受け、陽のあたる戦場を駆ける男。
「伊賀惣国一揆は潰えた。五百の足軽を率いて敗走したと聞き、死んだと思っていたが……しぶとく生き残っていたか」
「用は何だ。俺は見ての通り、忍術の才など皆無の落ちこぼれだ。徳川の裏工作に使える札ではないぞ」
「ふん」と半蔵は鼻で笑い、背から一振りの長槍を引き抜いた。
「術などどうでもいい。俺が用があるのは――その槍と、お主の『理の指揮』だ」
二 間合いの激突
言葉が終わるより早く、半蔵の長槍が閃いた。
夕闇を切り裂く、疾風のごとき突き。
ガァンッ!
朔太郎は柳生で修めた『無刀の理』で即座に身をかわし、自身の槍の柄で半蔵の穂先を弾いた。
狭い境内で、二本の長槍が激しく火花を散らす。
半蔵の槍は「鬼半蔵」と恐れられる、豪快かつ精密な実戦の攻め。
対する朔太郎の槍は、無駄を削ぎ落とし、柳生の間合いの見切りを組み込んだ冷徹な防衛の槍。
十数衝動の交錯の末、互いの槍の穂先が、相手の喉元一寸前でピタリと止まった。
「……見事だ」
半蔵が殺気を収め、槍を引いた。
「術の使えぬ落ちこぼれが、いつの間にこれほどの槍を仕入れた。……朔太郎、徳川に来い。我が主・家康様は、お主のように実務ができ、足軽を厳しく率いられる指揮官を求めている。不自由はさせん」
三 拒絶の理由
高禄の召し抱えの誘い。
腰に三百五十文しかない無所属の浪人にとって、渡りに船の話であった。
だが、朔太郎の目には一切の動揺もなかった。
「断る」
短く、冷ややかに朔太郎は吐き捨てた。
「なぜだ。落ち武者として泥をすすり、野良犬のように死ぬつもりか」
「どこかの主に仕えれば、また誰かの都合で足軽を死なせ、俺も使い捨てられるだけだ。伊賀の山で五百人を死なせた。……もう誰の指揮棒も振りたくないし、誰かの下で頭を垂れるつもりもない」
朔太郎は槍を収め、懐の糒の袋を縛り直した。
「俺は、俺の知恵とこの槍だけで食う。徳川の陣が恋しくなったら、こちらから客として売り込みに行ってやるよ」
四 それぞれの道
半蔵はしばし朔太郎の冷ややかな眼光を見つめていたが、やがて呆れたように息を吐いた。
「……相変わらず、情のない可愛げのない男だ。武士としての愛想というものがない」
「褒め言葉として受け取っておく」
「覚えておけ、朔太郎。右も左も焼き払う織田様の苛烈な天下やり方は、いずれどこかで大きな歪みを生む。……その時まで、野良犬のように行き倒れて死ぬなよ」
半蔵の姿が、夜の闇へと消えていった。
一人残された朔太郎は、境内を出て京の賑やかな通りを見下ろした。
腰の所持金、わずか三百五十文。
「天下の動向など知ったことか。……まずは明日の食い扶持だ」
朔太郎は槍を抱え、夜の京の街へと足を踏み入れた。




