第二話 剣の里の無刀
第二話 剣の里の無刀
伊賀の山並みが遠ざかり、織田の封鎖線を避けて笠置の険しい山道を這うように越えたとき、柘植朔太郎の脚は限界を迎えていた。
辿り着いたのは、大和国添上郡――柳生庄。
古くから剣豪の里として知られるが、現在は織田勢の検地によって領地を奪われ、密かに牙を研ぐ極貧と忍耐の地であった。
一 竹林の遭遇
鬱蒼と繁る竹林の中、朔太郎は足をもつれさせ、倒れ込むように腰を下ろした。
擦り切れた草鞋を買い直したため、腰の袋に残る路銀は四百九十文。懐の手ぬぐいに包んだ槍の穂先が、かちりと冷たい音を立てる。
「……伊賀の残党か」
頭上から、低い声が降ってきた。
振り返るより早く、首筋を冷や汗が伝う。気配を一切消して佇んでいたのは、白髪の混じる髪を束ね、木刀を携えた五十格好の鋭い目つきの武者――柳生新陰流の当主、柳生宗厳であった。
「構えるな。刀も持たぬ行き倒れを斬る趣味はない」
宗厳の言葉に、朔太郎は力なく失笑した。
「……刀は使えんのだ。忍びの郷に生まれながら、術も刀も落第でな。……あるのは、この身と槍の穂先だけよ」
二 対価の指揮
宗厳は朔太郎を密かに館へ連れ帰り、冷えた雑穀粥を与えた。
織田の目が光る大和において、伊賀の一揆勢を匿うのは御家断絶に直結する大罪だ。だが宗厳は、朔太郎の「目」を見ていた。五百の兵を失い、泥をすすりながらも死んでいない、冷徹な指揮官の目を。
その夜、柳生の里の境界に、織田の威光を傘に着た悪質な落ち武者狩りの一党が現れた。数はおよそ二十。
領地を召し上げられ、大っぴらに手勢を出せない柳生家に対し、朔太郎はボロボロの体のまま前に出た。
「……粥の礼だ。柳生の若い門人を数人、俺に貸せ。傷をつけずに追い払ってやる」
朔太郎は夜の竹林の地形、竹の生え方、敵の歩幅を瞬時に計算し、門人たちに的確な配置を命じた。
「前に出るな。竹の間合いを利用し、切り出した長竹を槍に見立てて間隙を突け。敵の先頭が怯んだら、左右から竹を押し倒して進路を塞ぐ」
忍術でも剣技でもない。圧倒的な「陣の理」と「間合いの計算」。朔太郎の冷酷なまでに無駄のない指揮により、柳生の手勢は一人も血を流すことなく、落ち武者狩りを闇の中へと追いはらってみせた。
三 無刀の教え
「見事な陣立てだ。……だが、お主自身の身のこなしには無駄が多い」
翌朝、宗厳は庭前で朔太郎に一本の木刀を投げ渡した。しかし朔太郎はそれを受け取らず、木刀は無造作に地面へ転がった。
「言ったはずだ。俺は刀が使えん。握れば手の内が固まる」
「刀を使えと言っているのではない」
宗厳は静かに木刀を構えた。
「お主は槍の突きの鋭さは天品だが、間合いを詰められた途端に死に体となる。新陰流が伝えるのは、刀の振り方だけではない。『無刀』――敵の刃を殺し、間合いを制し、己の槍の間に引き戻す理合いだ」
それから数日間、朔太郎は柳生庄に潜伏しながら、宗厳から「間合いと見切り」の足さばきを叩き込まれた。
敵を斬るためではない。自分が持つ「長槍」のリーチを絶対に潰させないための、極限の身体操作。
刀の使えぬ朔太郎にとって、その教えはまさに欠けたピースを埋める最後の術であった。
四 旅立ち
「これ以上は置けぬ。筒井の追っ手が迫っている」
数日後、宗厳は朔太郎に頑丈な樫の柄を手渡した。懐の穂先を装着すれば、いつでも一兵卒を薙ぎ払う長槍となる。
「どこへ行く、朔太郎」
「……京へ向かう。食うために、この槍と知恵を売る」
朔太郎は深く一礼し、竹林の霧の中に立ち尽くす柳生庄を後にした。
腰の所持金、四百九十文。
しかし、その身体には「柳生新陰流・無刀の理」という、金では買えぬ新たな武器が宿っていた。
柘植朔太郎の槍は、ただの白兵の槍から、「間合いを支配する無敵の槍」へと変貌を遂げつつあった。




