第十二話 決死の退き口
第十二話 決死の退き口
天正十一年、夏。逢坂山の暗夜。
黒田官兵衛の完璧な罠により、五千の鉄砲と長槍の包囲網のただ中に立たされた九百の丹波軍。
「……後方や左右に逃げれば、乱戦となって全滅だ」
松明の明かりに照らされた闇の中で、朔太郎は冷ややかに地形と敵の配置を頭の中で弾き出した。
周囲を囲む兵たちは、死の恐怖に身を震わせている。
「朔太郎様……! どこから逃げますか!?」
「逃げん。……正面だ」
朔太郎の指し示した先は、黒田官兵衛の本陣――最も敵の層が厚い正面であった。
「一番厚い壁を突く。官兵衛の喉元へ一撃を叩き込み、敵の指揮を乱した隙に丹波へ抜ける。……死にたくない奴は、俺の槍の後に続けッ!」
一 鉄と血の突撃
「全軍――突き進めぇッ!」
朔太郎の咆哮とともに、九百の丹波軍が一斉に官兵衛の本陣へ向かって突撃を開始した。
「なに……!? 正面から突いてくるか!」
官兵衛の顔に、初めて驚愕の色が走った。
放たれる鉄砲の斉射。鉛玉が闇を切り裂き、丹波軍の前列を一瞬で削り取っていく。
肉が弾け、悲鳴が上がり、血飛沫が舞う。
しかし、朔太郎の指図は微塵も揺るがない。
「足を止めるな! 倒れた者の槍を拾い、間合いを揃えて突き進め!」
朔太郎自身が長槍を振り回し、先陣を切って躍り出た。
柳生仕込みの見切りで放たれる弾丸と槍先を間一髪でかわし、立ち塞がる豊臣の武者を次々と突きのけていく。
二 官兵衛本陣の激震
凄まじい肉弾戦の末、朔太郎の長槍が官兵衛の本陣幕を破り、その喉元一歩手前まで肉薄した。
「官兵衛ぇッ!」
「くっ……!」
官兵衛の護衛兵たちが悲鳴を上げて群がり、命がけで朔太郎の槍を受け止める。
本陣が大混乱に陥り、豊臣軍の包囲網にほんの数分間の「指揮の空白」が生じた。
朔太郎の狙いは、まさにこれであった。
「……今だ! 左へ舵を切れ! 丹波街道へ脱出するぞ!」
官兵衛を討ち取ることには執着せず、朔太郎は瞬時に部隊を反転させた。
敵の指揮が乱れたその数分間の隙を突いて、丹波軍は怒涛の勢いで包囲網の割れ目へと雪崩れ込んでいった。
三 死地からの帰還
逢坂山から丹波国境への撤退戦は、まさに血で血を洗う地獄絵図であった。
追撃してくる豊臣の騎馬兵に対し、朔太郎は配下の足軽たちに交代で殿を務めさせ、寸分の狂いもなく陣形を維持させた。
崩れ立てば一気に全滅する極限状態の中、かつて伊賀で敗走した男の冷徹な指揮は、兵たちに恐怖を忘れさせ、精密な機械のように防衛戦術を実行せしめたのだ。
丹波の国境砦へと辿り着いたとき、東の空が白み始めていた。
無事に生還した兵たちの数――約「六百」。
九百のうち、実に「三百人」が逢坂山の闇の中に散っていた。
砦の地面に倒れ込み、肩で息をする兵たち。
槍の柄を杖代わりに立ち尽くす朔太郎の着物からは、三百の味方とそれ以上の敵の血が滴り落ちていた。
「……三割を失ったか」
朔太郎は返り血のついた顔を拭いもせず、冷ややかに呟いた。
だが、その瞳には失意ではない、確固たる生への執念が宿っていた。
「だが……全滅はさせなかった。俺たちは生き残ったぞ。……丹波へ帰る」
四 官兵衛の戦慄
一方、静まり返った逢坂山の戦場。
散らばる死体の山を見つめながら、黒田官兵衛は手にした軍配を握り締め、背筋に冷や汗を伝わせていた。
「……我が方の損害、一千余り。敵の損害、三百……」
戦としては、敵を追い散らして退けた豊臣方の勝利である。
しかし、官兵衛の心に勝利の歓喜は微塵もなかった。
「完璧な包囲陣を破られ、自軍の三割を失いながらも、陣形を一切崩さずに退却してみせた……。なんという統率だ。なんという恐ろしい男だ」
官兵衛は遠く霞む丹波の山並みを見つめ、静かに吐き捨てた。
「……秀吉様。あの柘植朔太郎という男……ただの兵や罠で殺せる男ではありません。……あれは丹波に巣食う、絶対の怪物にございます」




