第十一話 暗黒の盤面
第十一話 暗夜の盤面
逢坂山の谷間を染めた昼の死闘は、丹波軍の凄惨な勝利で一時幕を閉じた。
狭隘な地形と整然とした槍衾により、朔太郎は千の豊臣兵を返り討ちにし、谷底を屍の山に変えたのだ。
だが、その代償も軽くはなかった。
丹波軍の損害、討ち死に・重傷合わせて約「百」。
「……百か」
返り血を拭いながら、朔太郎は冷ややかに数を確かめた。
一千のうちの百。決して小さくない痛みだが、朔太郎の瞳に動揺はない。
「相手に一千の犠牲を強いた。十分すぎる釣戦だ。……今夜、仕掛ける」
一 火なき夜食
戌の刻(午後八時頃)。闇に包まれた逢坂山の陣営。
丹波軍の陣からは、かまどの煙が一切立ち上っていなかった。
「火は焚くな。敵の物見に位置を割られる」
朔太郎の命により、一千の兵たちは暗闇の中で静まり返っていた。
竹筒の冷水で硬い糒をふやかし、塩引きの干し魚を黙々と噛み締める。温かい粥も、暖をとる焚き火もない。ただ、生き残るためだけに胃袋へ食料を押し込む冷酷な夜食。
「朔太郎様……味方は昼の激戦で疲弊しております。今夜の夜襲は、いくらなんでも危険では……」
配下の足軽頭が不安げに囁く。朔太郎は糒を飲み込み、静かに首を振った。
「敵の総大将は黒田官兵衛だ。日にちを置けば、明朝には物量を活かした別の迂回路や包囲陣を完成させられる。相手が昼の敗北で動揺し、陣を立て直している今夜しか、奴らの本陣を突く隙はない」
情や感傷を捨てた、徹底的な利害の計算。
兵たちは塩魚を噛み締めながら、この冷酷な頭領の指図に命を預ける覚悟を固めた。
二 暗闇の奇襲
子ノ刻(午前零時)。月が雲に隠れた漆黒の闇の中、動き出したのは伊賀の忍びたちであった。
足音を消し、豊臣軍の前衛陣地へと忍び寄る。
見張り兵の喉を瞬時に突き穿ち、陣幕に油を注いで一気に火を放った。
「火事だーッ! 夜襲だーッ!」
絶叫と炎が豊臣軍の陣営を包み込む。
すかさず、朔太郎率いる残り九百の長槍隊が、暗闇の中から怒涛の勢いで押し寄せた。
「敵本陣へ向かって突き進め! 官兵衛の首を上げるぞ!」
朔太郎の長槍が闇を切り裂く。
柳生仕込みの見切りで翻弄し、うろたえる豊臣の兵たちを次々と叩き伏せていく。丹波軍の夜襲は、完璧に成功したかに見えた。
三 官兵衛の罠
だが――本陣へ肉薄した朔太郎の前に広がっていたのは、異様な光景であった。
燃え上がる陣幕の奥。
本陣幕の前にぽつんと置かれた床机に、一人の男が静かに腰掛けていた。
黒田官兵衛である。
周囲には足軽の一人もおらず、官兵衛はただ手にした軍配を扇ぎながら、不敵な笑みを浮かべて朔太郎を見つめていた。
「……待っていたぞ、柘植朔太郎」
朔太郎の足が、ピタリと止まった。
「昼の戦いで我が軍の一千を破り、その勢いのまま今夜仕掛けてくる……。フッ、忍びの教えを引くまでもなく、兵法の常道よな」
官兵衛が静かに軍配を振り下ろした瞬間、漆黒の闇の中から、ジャリ……と凄まじい数の金属音が鳴り響いた。
周囲の山林から一斉に松明が掲げられ、昼を欺くほどの明かりが朔太郎たちを照らし出す。
そこには、完璧な二重の包囲陣を敷いた五千の豊臣軍が、ズラリと鉄砲の筒先を向けて立ち塞がっていた。
「な……裏をかかれていたのか!?」
配下の忍びたちが悲鳴を上げた。
四 怪物同士の対峙
自らが仕掛けた夜襲が、官兵衛の完璧な「誘い受けの罠」であったことを、朔太郎は瞬時に理解した。
五千の兵と鉄砲隊に完全に包囲された、九百の丹波軍。
絶体絶命の陥穽。
しかし、包囲のただ中に立たされた朔太郎の顔に、恐怖の色は微塵もなかった。
手にした長槍を強く握り直し、朔太郎は冷ややかに鼻で笑った。
「……さすがは黒田官兵衛。こちらの読みなど、すべてお見通しというわけか」
対する官兵衛も、眼光を鋭く光らせた。
「ほう……包囲されてなお、目の色が死んでおらんか。落ちこぼれの忍びと聞いていたが、とんだ怪物だな」
夜の逢坂山。
炎の明かりが照らす包囲網の中心で、天才軍師・黒田官兵衛と、冷徹な叩き上げ・柘植朔太郎。
二人の怪物の本当の知恵比べが、いま火花を散らそうとしていた。




