第十話 十倍の激浪
第十話 十倍の激浪
天正十一年、夏。
丹波・丹後の二ヶ国を電撃的に手中に収めた柘植朔太郎は、勢いそのままに京と近江を繋ぐ要衝・逢坂山の関所跡を電撃的に奪取し、陣を構えた。
琵琶湖から京都へと通じる狭隘な山道。
そこへ、天下人・豊臣秀吉が放った先鋒部隊が、地鳴りのような行軍音とともに押し寄せていた。
一 十倍の圧迫
山肌を埋め尽くす水色と黄色の旗印。
豊臣軍の総大将として前線に立ったのは、秀吉の知恵袋・黒田官兵衛。率いる兵力は、実に一万。
対する朔太郎の丹波軍は、各地から駆けつけた旧・伊賀の残党と精鋭の足軽を合わせ、ちょうど「一千」。
十倍という絶望的な兵力差であった。
「朔太郎様……! 敵は一万! このままでは押しつぶされます!」
見張り櫓の上で、配下の忍びが息を呑みながら報告する。
だが、長槍を握り締めた朔太郎の表情には、焦りも恐れも一切なかった。
「慌てるな」
朔太郎の声は、氷のように冷たかった。
「一万と言えど、この狭い谷間に入れば、一度になだれ込めるのはせいぜい数百だ。敵の物量は関係ない。入ってきた奴らから順に仕留める」
二 官兵衛の策、朔太郎の理
陣頭に立つ黒田官兵衛は、逢坂山の地形を冷ややかに見据えていた。
「なるほど、狭隘な地形を利用して我が軍の数を無効化する気か。……ならば山を制するまで」
官兵衛は即座に命令を下した。正面からの牽制と見せかけ、左右の山林から迂回部隊を投入し、朔太郎の陣を包囲・分断しようと試みたのだ。
しかし――。
「左の山腹に気配あり! 敵の迂回部隊です!」
「……知っている」
朔太郎の配下である伊賀の忍びたちが、すでに山林の中に竹槍の罠と煙薬を仕掛け、密かに潜伏していた。
山中へ足を踏み入れた豊臣の迂回部隊は、暗闇からの不意打ちと煙幕によって大混乱に陥り、身動きが取れなくなる。
「山での隠密戦で、伊賀者に勝てると思うな」
三 狭間の槍衾
「正面、来ますッ!」
迂回策を阻まれた豊臣軍の先鋒が、痺れを切らして狭い谷間へとなだれ込んできた。
「押しつぶせーッ! たかが一千の落ち武者どもだッ!」
押し寄せる黒鉄の波。
だが、朔太郎は手振りの旗一つで、一千の足軽隊を寸分の狂いもなく操作した。
「一番隊、突け! 二番隊、控えよ! 横に広がるな、間合いを揃えろ!」
ガァンッ! ガガァンッ!
谷間に響き渡る凄まじい金属音。
朔太郎自身も長槍を手に先頭に立ち、柳生で盗んだ『無刀の理』で敵の攻撃を最小限の動きでかわしながら、確実に向こうの喉元を突き穿っていく。
狭い谷間という隘路において、朔太郎の一千は完璧な「鉄の防波堤」と化していた。
豊臣軍は一万の物量を何一つ活かせず、先頭の兵たちが次々と血の海に倒れていく。
四 激突のゆくえ
「ぬう……! 一万の軍勢が、たった一千に押し止められているだと!?」
本陣で報告を受けた黒田官兵衛の顔から、余裕の色が消えた。
「指揮が凄まじすぎる……。一切の無駄がなく、兵の動揺が皆無だ。あの男、将棋の盤面を詰めるように戦を計算しておる……!」
陽が傾き始め、逢坂山の谷間は豊臣兵の死体と返り血で赤く染まっていた。
一万の怒涛を前にしながら、朔太郎の一千の陣は、何一つ崩れていない。
槍の柄に付いた返り血を拭いながら、朔太郎は冷ややかな眼光で豊臣の本陣を睨みつけた。
懐の「たった五百文」から始まった男の生存劇。
その槍と頭脳は、いまや天下人・豊臣秀吉の一万の大軍すらも、一歩も通さぬ絶対の壁となっていた。
「秀吉……これが俺の陣だ。突き破れるものなら、突いてみろ」
近江国境の狭間で、一千対一万の歴史に残る死闘が、本格的に燃え上がろうとしていた。




