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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第一章

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第9話 王妃殿下、その言葉は撤回されますか

 王妃殿下は、甘い香りのする方だった。


 花の香り。

 砂糖菓子の香り。

 柔らかい布に包まれた、細い針のような香り。


「あなたが、ミラ・ノートンさんね」


 王妃殿下は微笑んだ。


「はい」


「昨夜から、お名前はよく聞いているわ」


 それはあまり嬉しくない。


 私の名前は、静かな紙の上に小さくあるくらいがちょうどいい。


「ずいぶん正直な記録を取るそうね」


「恐れ入ります」


「褒めているのよ」


 王妃殿下は、ゆっくりと私の前まで歩いてきた。


 近くで見ると、ますます綺麗だった。


 若い令嬢の華やかさとは違う。花ではなく、磨かれた銀器に近い。光るけれど、触れると冷たい。


「でもね、正直な記録は、人を傷つけることもあるの」


 私はペンを止めなかった。


 王妃殿下、記録の正直さが人を傷つける可能性について言及。


「ミラさん」


 王妃殿下は、少しだけ首を傾げた。


「あなたは、自分の書いたものが誰かの人生を壊すかもしれないと、考えたことはある?」


 あります。


 そう答えそうになった。


 昨夜から、ずっと考えている。


 王子殿下の立場。

 ロザベル嬢の嘘。

 バルク卿の顔色。

 ミード商会。

 孤児院のパン。


 紙の上に線を引くだけで、誰かの椅子が崩れることはある。


 でも。


「恐れながら」


 私は言った。


「私が書かなくても、発言はなかったことにはなりません」


 王妃殿下の微笑みは崩れなかった。


「賢い子ね」


 賢い。


 その言葉は、褒め言葉の形をしていた。


 でも、頭を撫でるためではなく、首輪の大きさを測るための言葉に聞こえた。


「だからこそ心配なの。あなたは、利用されているのではなくて?」


 王妃殿下の視線が、アデライン様へ移る。


「ロシュフォードの令嬢は強いわ。美しく、賢く、正しい。けれど、正しい人ほど、自分の正しさのために他人を危険な場所へ連れていくことがある」


 部屋が静かになった。


 アデライン様は何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ指先を握った。


 私は、それを見てしまった。


 アデライン様にも、痛いところはあるのだと思った。


 私を危険な場所へ連れてきた。


 それは、たぶん事実だ。


「ミラ・ノートン」


 国王陛下が言った。


「記録を続けよ」


「はい」


 私は書いた。


 王妃殿下、記録係ミラ・ノートンがアデライン・ロシュフォード嬢に利用されている可能性を示唆。


 字が少し細くなった。


 すると、横からそっと新しい紙が差し出された。


 エドウィン様だった。


 書きやすい紙だった。


 にじみにくい。


 たぶん、彼は私の字が細くなったことに気づいた。


 困る。


 気づかれると、余計に手元が気になる。


「王妃殿下」


 アデライン様が口を開いた。


「私は、ミラさんを危険な場所へ連れてきました。その責任は取ります」


「責任」


 王妃殿下は優しく笑った。


「綺麗な言葉ね。けれど、責任で失った名誉は戻らないわ」


「名誉を失わせるのは、記録ではありません」


 アデライン様は言った。


「記録に残って困る行いです」


 私は、思わず顔を上げた。


 王妃殿下の目が、ほんの少し細くなる。


「強い子ね、アデライン」


「弱くいるには、殿下の婚約者は少し忙しすぎました」


 国王陛下が、わずかに目を伏せた。


 王子殿下は、何も言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。


「では、孤児院の話をしましょう」


 王妃殿下は椅子に腰を下ろした。


「王立孤児院への支給に、一部遅れが出ていたことは認めます」


 私はペンを走らせた。


 王妃殿下、王立孤児院への支給に一部遅れがあったことを認める。


 一部。


 遅れ。


 柔らかい言葉だった。


 でも、リナのパンは小さかった。


「遅れ、ですか」


 エドウィン様が言った。


「帳簿上は三年分、支給済みです」


「実務上の調整です」


「調整」


 私は小さく繰り返した。


 王妃殿下がこちらを見た。


「ええ。国の支出には優先順位があります。戦費、道路、学院、外交。すべてを同時には救えません」


 声は優しい。


 内容は、冷たかった。


「孤児院の子どもたちは」


 アデライン様が言った。


「後回しにしてよい存在ですか」


「言葉を選びなさい、アデライン」


「選んでおります」


 アデライン様は、まっすぐ王妃殿下を見ていた。


「では、別の言葉にします。子どもたちのパンを削ってまで、何を優先なさったのですか」


 王妃殿下は、しばらく沈黙した。


 私はその沈黙を書かなかった。


 書くには、少し重すぎた。


「王家の安定です」


 王妃殿下は言った。


 私は、書いた。


「王家が揺らげば、孤児院どころではありません。数十人の食事を守るために、国全体を危険に晒すことはできないわ」


 ペン先が止まった。


 止めてはいけない。


 止めてはいけないのに、指が一瞬だけ動かなかった。


 数十人の食事。


 リナの小さな手。


 昨日より大きいです、と言った声。


 それは、国全体より軽いものなのだろうか。


 私は、ゆっくり書いた。


 王妃殿下、王家の安定を理由に、王立孤児院への支給調整を正当化。

 孤児院児童の食事について「数十人の食事」と表現。


「ミラ嬢」


 エドウィン様の声がした。


「大丈夫ですか」


「はい」


 大丈夫ではなかった。


 でも、書ける。


 なら今は大丈夫ということにした。


「王妃」


 国王陛下の声が低くなった。


「今の言葉は、撤回するか」


 王妃殿下は、少しだけ微笑みを深くした。


「陛下。私は国を守るために申し上げています」


「撤回するかと聞いた」


 王妃殿下の指が、扇の骨をなぞった。


「……言葉が過ぎました」


 私は書いた。


 王妃殿下、先の発言について「言葉が過ぎました」と発言。


 撤回、ではない。


 私はその違いを、少し濃く書いた。


「記録係」


 王妃殿下が私を見た。


「あなた、本当に細かいのね」


「はい」


「怖くないの?」


 怖い。


 とても怖い。


 国王陛下の前で、王妃殿下の発言を書いている。


 昨夜の私に言ったら、たぶん熱を出す。


 でも。


「怖いです」


 私は言った。


「ですが、怖いことと、書かないことは別です」


 王妃殿下の微笑みが、初めて少し薄くなった。


 アデライン様が、静かに息を吐く。


 エドウィン様は、私の横で替えのインク壺を開けてくれた。


 その音が、小さくて、頼もしかった。


「よろしい」


 国王陛下が言った。


「王妃。慈善局の議事録が見つからぬ件について、説明せよ」


「説明も何も」


 王妃殿下は首を傾げた。


「記録係が紛失したのではありませんか」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 私はペンを止めた。


 記録係。


 紛失。


 それは、誰の話だろう。


「三年前の慈善局移管会議。その記録を担当した者は、まだ王宮におります」


 王妃殿下は、私を見ていなかった。


 けれど、なぜか私の胸のあたりが冷えた。


「その者に聞けばよろしいでしょう」


 国王陛下が侍従に視線を向けた。


「呼べ」


 扉が開く。


 しばらくして、一人の老いた記録官が入ってきた。


 白い髪。

 曲がった背。

 震える手。


 その人は、部屋に入るなり、私の帳面を見た。


 そして、ひどく悲しそうな顔をした。


「お前も」


 老記録官は、かすれた声で言った。


「書いてしまったのか」


 私は、指先に力を込めた。


 王妃殿下は、静かに微笑んでいた。

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