第10話 消した記録にも跡は残ります
「お前も、書いてしまったのか」
老記録官は、そう言った。
責める声ではなかった。
むしろ、濡れた布をそっと置くような声だった。
私はペンを握ったまま、少しだけ息を止めた。
お前も。
その言い方には、前に同じことをした人だけが持つ重さがあった。
「ハーウェル」
王妃殿下が、優しく名を呼んだ。
「三年前の慈善局移管会議。あなたが記録を担当したのよね」
老記録官、ハーウェル様は、深く頭を下げた。
白い髪。
曲がった背。
震える手。
その人は、王妃殿下ではなく、ずっと私の帳面を見ていた。
「……はい」
私は書いた。
元記録官ハーウェル、三年前の慈善局移管会議の記録担当であったと認める。
「その議事録は、どこへ?」
王妃殿下の声は柔らかい。
柔らかすぎて、逃げ場がない。
ハーウェル様の手が震えた。
「紛失、いたしました」
王子殿下が、ほっとした顔をした。
王妃殿下は悲しそうに目を伏せる。
「そう。残念だわ」
私はペンを止めた。
紛失。
便利な言葉だ。
盗まれたとも、燃やしたとも、隠したとも言わずに済む。
ただ、なくなったことだけを置ける。
「ハーウェル」
国王陛下の声が低くなる。
「王宮議事録を紛失したと、今ここで認めるのだな」
「……はい」
老記録官の背中が、さらに曲がった。
「私の不手際でございます」
そう言った時、ハーウェル様の指が袖口を握った。
強く。
まるで、自分の手まで嘘をつかないよう押さえているみたいだった。
「いつ紛失しましたか」
私の口が、勝手に動いていた。
部屋中の視線がこちらに向く。
困る。
とても困る。
けれど、言ってしまった。
「恐れながら、紛失した日付を確認させてください」
ハーウェル様は、ゆっくりと私を見た。
その目は、疲れていた。
紙をたくさん見てきた人の目だった。
そして、紙を守れなかった人の目だった。
「三年前の、青雨月十七日です」
私は帳面をめくった。
青雨月十七日。
どこかで見た。
紙の束。
孤児院。
受領書。
慈善局。
王宮の廃棄記録。
私は鞄から、写しの束を取り出した。
エドウィン様が、何も言わず机を少し空けてくれた。
助かる。
こういう時、机の広さは優しさである。
「ミラ嬢」
エドウィン様が小さく言った。
「探しているのは?」
「廃棄炉の使用記録です」
王妃殿下の扇が、一度だけ止まった。
私はそれを見た。
見たけれど、まだ書かなかった。
「三年前、青雨月十七日」
私は紙を一枚抜き出した。
「王宮記録局、廃棄炉使用なし」
ハーウェル様の肩が、かすかに揺れた。
王妃殿下の微笑みは変わらない。
「紛失したのなら、廃棄炉は関係ないのではなくて?」
「はい」
私は頷いた。
「ですが、王宮議事録は持ち出しも廃棄も記録が必要です。紛失した場合は、紛失報告書が必要です」
「それも紛失したのでしょう」
王妃殿下は、少し笑った。
甘い声だった。
でも、甘いものを食べすぎると舌が痛くなる。
「恐れながら」
私は別の紙を出した。
「青雨月十七日は、王宮記録局が閉鎖されています」
王子殿下が眉をひそめた。
「閉鎖?」
「前王弟殿下の葬儀に伴い、主要部署は半日閉鎖。記録局も正午以降、鍵の返却記録のみです」
私は続けた。
「三年前の慈善局移管会議の議事録を、その日に通常手続きで紛失するのは、少し難しいかと」
少し。
便利な言葉だ。
本当はかなり難しい。
ハーウェル様の唇が震えた。
王妃殿下は、私を見た。
「あなた、本当に細かいのね」
「よく言われません」
「でしょうね」
なぜか、エドウィン様が横で小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
今は笑う場面ではないと思う。
「ハーウェル」
アデライン様が言った。
声は静かだった。
「あなたは、本当に紛失したのですか」
老記録官は顔を上げられなかった。
「私は」
声がかすれる。
「私は、記録官でした」
「はい」
私は小さく返した。
なぜ返したのか、自分でもよくわからない。
でも、返さなければいけない気がした。
「書くべきことを書きました。あの日も、書きました」
王妃殿下の扇が、ぴたりと止まった。
ハーウェル様は、震える手で胸元を押さえた。
「けれど、提出の前に呼び出されました。記録には、国のために残してはならぬものがあると」
「誰に」
国王陛下の声だった。
部屋の空気が、重く沈む。
ハーウェル様は、王妃殿下を見なかった。
見なかったことが、答えに近かった。
「私は、命じられました」
ハーウェル様は言った。
「議事録を差し替えろと」
王子殿下が立ち上がりかけた。
エドウィン様が一歩動く。
私は書いた。
ハーウェル元記録官、三年前の慈善局移管会議議事録について差し替え命令があったと証言。
「差し替えたのか」
国王陛下が問う。
「……はい」
ハーウェル様の声は、小さかった。
「差し替えました。私は、書いたものを守れなかった」
その言葉だけ、部屋の中で少し長く残った。
書いたものを守れなかった。
私は、自分の帳面を見た。
紙の端。
インクの線。
昨日から増え続けている発言。
もしこれを奪われたら。
もし燃やされたら。
もし、私の字で別のことを書かれたら。
その時、私はこの人と同じ顔をするのだろうか。
「ですが」
ハーウェル様が言った。
ですが。
この言葉の後には、たいてい大事なものが来る。
「原本は、燃やせませんでした」
王妃殿下の微笑みが、初めて消えた。
ほんの一瞬。
けれど、消えた。
私は書いた。
王妃殿下、一瞬沈黙。
書いてから、少し迷った。
でも、消さなかった。
「どこにある」
国王陛下が言った。
ハーウェル様は、曲がった背で、ゆっくりと私を見た。
「記録係のお嬢さん」
「はい」
「記録を隠すなら、どこに隠す」
急に聞かれた。
とても困る。
隠したことはない。
隠す必要があった時は、写しを増やす。
私は少し考えた。
「誰も読まない書類の中です」
ハーウェル様は、泣きそうな顔で笑った。
「そうだ」
私は、息を呑んだ。
この人も、紙がかわいそうな人なのかもしれない。
「差し替え後の議事録の表紙裏に、薄紙で貼りました」
ハーウェル様は言った。
「表紙の厚みが、少しだけ変わります」
私は、思わず立ち上がりそうになった。
表紙裏。
薄紙。
厚み。
それは、見ればわかる。
触れば、もっとわかる。
「その差し替え後の議事録は」
エドウィン様が言った。
「現在、どこに?」
ハーウェル様は、今度こそ王妃殿下を見た。
「王妃殿下の私的書庫に」
部屋が、静かになった。
誰も咳をしなかった。
誰も扇を鳴らさなかった。
王妃殿下は、ゆっくりと微笑みを戻した。
「年を取ると、記憶が混ざるものね」
優しい声だった。
優しい声で、ハーウェル様の年月を少しずつ削ろうとしていた。
「三年前のことですもの。あなたも、ずいぶん苦労したでしょう」
ハーウェル様の背中が震えた。
私は、ペンを握る指に力を込めた。
その言い方が嫌だった。
老いたから間違えたのだと。
苦労したから記憶が混ざったのだと。
書いた人の言葉を、年齢で薄めようとしている。
「恐れながら」
私は口を開いた。
王妃殿下がこちらを見る。
「ハーウェル様の証言が正しいかどうかは、確認すればわかります」
「そうね」
王妃殿下は笑った。
「確認できれば、ね」
「できます」
私は言った。
思ったより、強い声が出た。
「紙の厚みは、年を取りません」
アデライン様が、ほんの少しだけ目を見開いた。
エドウィン様は、私の手元に新しい紙を置いた。
書け、ということらしい。
私は書いた。
ミラ・ノートン、差し替え後議事録表紙裏の確認を提案。
「では、確認しましょう」
アデライン様が言った。
その声には、少しも迷いがなかった。
「陛下。王妃殿下の私的書庫の確認許可を」
国王陛下は、王妃殿下を見た。
王妃殿下は微笑んでいる。
でも、目は笑っていない。
「許可する」
国王陛下が言った。
「今すぐだ」
私はペンを握り直した。
エドウィン様が、私の鞄を持ち上げる。
「行きましょう、ミラ嬢」
「はい」
「足元に気をつけて」
小さな声だった。
記録には残さない声だった。
なのに、少しだけ心に残った。
王妃殿下の私的書庫。
誰も読まない書類。
表紙裏の薄紙。
私は、帳面を閉じた。
ハーウェル様は、まだ私を見ていた。
その目は悲しかった。
でも、さっきより少しだけ、息をしているように見えた。
記録を消した人は、たぶん知らない。
紙は、とても薄い。
けれど、思ったよりしぶとい。




