第11話 王妃殿下の私的書庫
王妃殿下の私的書庫は、王宮の奥にあった。
白い壁。
淡い金の装飾。
花の香り。
そして、題名のそろった革表紙の書類。
綺麗だった。
綺麗すぎた。
人が使った書類は、もう少し乱れる。
よく開く本は背が柔らかくなるし、よく触る帳簿は端が丸くなる。
けれど、この部屋の書類は、人に見られるためだけに並んでいるみたいだった。
「ここが、私的書庫です」
王妃殿下は、静かに言った。
「慈善事業に関する資料も、一部こちらで保管しております。もちろん、王家の許可なく外へ出すことはありません」
外へ出すことはない。
外へ出したくないものがある人の言い方にも聞こえた。
私は書いた。
王妃殿下、私的書庫にて慈善事業関連資料の一部保管を認める。
アデライン様は少し前に立っている。
エドウィン様は私の横。
近衛隊長と王宮監査官が二人。
そして、ハーウェル様。
老記録官は、杖をつきながら書庫の入口に立っていた。
「ハーウェル。あなたは控え室で休んでいてもよいのですよ」
王妃殿下が優しく言った。
「無理をしては、記憶も乱れます」
優しい声だった。
でも、その優しさはまた、ハーウェル様の証言を薄くしようとしている。
「見届けます」
ハーウェル様は、かすれた声で言った。
アデライン様が静かに微笑む。
「ハーウェル元記録官は証言者です。控えさせるかどうかを決めるのは、証言者本人です」
「もちろんです。私は心配しただけよ」
「ええ。心配として記録しておきましょう」
王妃殿下のまつげが、わずかに動いた。
私は書いた。
王妃殿下、ハーウェル元記録官の体調を心配する旨を述べる。
刺しているのに、包帯の形をしている。
アデライン様の言葉は、ときどき便利すぎる。
「探すのは、三年前の慈善局移管会議に関する議事録です」
エドウィン様が監査官へ告げた。
「差し替え後の議事録。その表紙裏に、薄紙が貼られている可能性があります」
「可能性、ね」
王妃殿下は微笑んだ。
「そのような不確かな話で、私的書庫を開けることになるとは思いませんでした」
「不確かな話かどうかは、紙が教えてくれます」
私が言うと、王妃殿下がこちらを見た。
「あなたは、本当に紙を信じているのね」
「人よりは」
言ってから、失礼だったかもしれないと思った。
エドウィン様が横で小さく咳をした。
たぶん、笑いを隠した。
今は笑う場面ではない。
「では、紙に聞いてみましょう」
監査官が棚へ向かう。
ハーウェル様が、震える手で奥の棚を指した。
「三段目。右から四冊目」
監査官が一冊を抜き取る。
濃い緑の革表紙。
表題は、
『慈善局管轄移管会議 記録写し』
写し。
私はその二文字を見て、少しだけ眉を動かした。
「確認を」
アデライン様が言う。
監査官が表紙を開こうとした。
「お待ちください」
私は言った。
「先に、表紙を横から見せてください」
「横?」
「はい」
監査官が本を傾ける。
私は近づいた。
革表紙の厚み。
角の処理。
背と表紙の接着。
紙束の沈み方。
その表紙は、内側だけがわずかに浮いていた。
ほんの少し。
けれど、ある。
「……ありそうです」
ハーウェル様が息を吸った。
王妃殿下は何も言わない。
「開きます」
監査官が表紙を開いた。
白い見返し紙。
何も書かれていない。
綺麗な白。
綺麗すぎる白。
「触れてもよろしいでしょうか」
私は手袋を借りた。
指先が少し余る。
紙を触るには不便だ。
でも、素手よりはいい。
見返し紙の端を、指の腹でなぞる。
端。
糊。
浮き。
段差。
あった。
「ここです」
私は言った。
「表紙裏に、別の紙が貼られています」
監査官が慎重に端を浮かせる。
糊が古いのか、紙は思ったより素直に剥がれた。
白い見返し紙の下から、少し黄ばんだ薄紙が出てくる。
文字が、透けていた。
「……私の字です」
ハーウェル様の声は、ほとんど息だった。
誰もすぐには話さなかった。
三年間、誰にも読まれなかった記録が、ようやく空気に触れていた。
「読んで」
アデライン様が言った。
監査官が薄紙を広げる。
私は、もう一度記録するためにペンを構えた。
「三年前、青雨月十二日。慈善局管轄移管会議。出席者、王妃殿下、王太子殿下、慈善局長、慈善局副局長バルク、ミード商会主……」
ミード商会主。
アデライン様の目が細くなる。
「議題。王立孤児院および関連救貧施設への支給物資の一元管理について」
監査官の声が、少し低くなった。
「王妃殿下、発言。慈善は王家の顔であり、支給経路を慈善局経由に改め、外部商会の協力を得ることを提案」
王妃殿下は微笑んだまま。
でも、扇を持つ指が白くなっていた。
「王太子殿下、発言。公爵家および地方貴族からの独自寄付は、慈善局による確認を経るべき」
私はペンを走らせた。
孤児院のパンが小さくなる前に、もう線は引かれていたのだ。
「ミード商会主、発言。配送、保管、再分配については当商会が請け負う用意あり」
ミード商会。
孤児院の荷札。
倉庫。
寄付品。
点が、線になっていく。
「慈善局副局長バルク、発言。各施設への直接支給を減らすことで、管理上の余剰を作ることが可能と説明」
余剰。
便利な言葉だ。
パンを小さくしても、余剰と呼べば綺麗に見える。
「王妃殿下、発言。余剰は王家慈善茶会および対外寄付の費用として再配分する。王家の名誉を保つことは、結果として救貧事業全体を守ることになる」
王家の名誉。
救貧事業全体。
綺麗な言葉だった。
綺麗な言葉ほど、ときどきパンの匂いがしない。
「王太子殿下、同意。なお、学院奨学金の一部についても、慈善局の審査対象へ含めるべきと発言」
私のペンが止まりかけた。
奨学金。
あの夜、突然出た話ではなかった。
三年前から、準備されていた。
「続けてください」
アデライン様が言った。
「以上の内容について、外部公開用議事録では、配送経路および余剰再配分の詳細を削除すること。王妃殿下、指示。王太子殿下、同意」
削除。
また、削除。
あの夜と同じ言葉。
王子殿下は、急に削除を命じたのではない。
削除する家で育ったのだ。
「以上です」
監査官が読み終えた。
ハーウェル様は、薄紙を見つめていた。
「……残っていた」
「残っていました」
私は答えた。
ハーウェル様の目の奥に、ほんの少しだけ光が戻る。
「すまなかった」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
国王陛下か。
孤児院の子どもたちか。
過去の自分か。
あるいは、紙か。
「王妃殿下」
アデライン様が向き直る。
「この議事録について、ご説明を」
王妃殿下は、ゆっくりと微笑んだ。
「三年前の記録ね。確かに、そういう議論はありました。ですが、慈善事業は複雑です。管理のために一時的な再配分を行うことは、珍しくありません」
「子どものパンが小さくなるほどですか」
「あなたは感情で話しているわ、アデライン」
「はい」
アデライン様は、あっさり認めた。
「子どもの食事については、感情を含めて話すべきだと思っております」
私は書いた。
削りたくない言葉だった。
議事録としては少し長い。
でも、削りたくなかった。
エドウィン様が一歩前へ出た。
「この薄紙は、正式記録として国王陛下へ提出されます。併せて、慈善局の支給記録、配送記録、商会保管記録の保全が必要です」
「若い方は、書類を見つけるとすぐ正義を見つけた気になるのね」
「正義までは見つけておりません」
エドウィン様は淡々と言った。
「現時点で見つかったのは、削除指示と、隠された議事録と、孤児院に届かなかった物資の配送経路です」
逃げ道が、少しずつ狭くなっていく。
「監査官」
アデライン様が言った。
「陛下へ報告を。慈善局副局長バルク、ミード商会主、ならびに王立孤児院支給記録の保全を求めます」
「承知しました」
「それと」
アデライン様は、王妃殿下を見た。
「この件が確認されるまで、王妃殿下主催の慈善茶会、および慈善局への新規指示は停止していただくべきです」
王妃殿下の微笑みが、少しだけ硬くなった。
「あなたに、その権限はありません」
「私にはありません。ですが、陛下に進言することはできます」
王妃殿下は黙った。
完全な沈黙ではない。
まだ余裕はある。
でも、さっきまでとは違う。
薄紙一枚で、部屋の色が少し変わった。
「ミラさん」
アデライン様が私を呼ぶ。
「はい」
「ハーウェル元記録官が三年間、この記録を残していたことも書いて」
ハーウェル様が驚いた顔をした。
「私のことは」
「残します」
アデライン様は遮った。
「あなたが差し替えたことも、守れなかったことも、守ろうとしたことも」
私は、ゆっくり書いた。
ハーウェル元記録官、差し替え命令に従った後、原本を燃やさず、差し替え後議事録の表紙裏に薄紙として保存していた。
長い文章になった。
でも、短くしたくなかった。
人間の失敗と抵抗は、一行で済ませるには少し複雑だ。
その時、書庫の外が騒がしくなった。
近衛の一人が扉を開ける。
「失礼いたします。ミード商会主が、王宮を出ようとしております。同行者に、ロザベル・ミード令嬢」
王妃殿下の目が、わずかに動いた。
アデライン様は即座に振り返る。
「止めて」
「すでに門で足止めを」
「ロザベル様は?」
「商会主と言い争っているとのことです」
ロザベル様。
あの夜の彼女を思い出した。
泣いていた。
震えていた。
嘘をついていた。
そして、誰かに作られた言葉を、一生懸命自分の声で話していた。
「内容は?」
エドウィン様が聞く。
「ロザベル嬢が、『私はもう証言しない人形ではありません』と」
書庫の中が、また静かになった。
私は急いで書いた。
ロザベル・ミード令嬢、門前にて「私はもう証言しない人形ではありません」と発言したとの報告あり。
字が少し跳ねた。
これは、次の記録になる。
アデライン様が歩き出す。
「行きましょう」
「はい」
私は帳面を閉じた。
薄い紙。
古い糊。
三年前の文字。
消されたはずの記録は、王妃殿下の私的書庫の真ん中に広げられている。
誰も読まない書類の中に隠れていたものが、ようやく誰かに読まれた。
花の香りの奥で、古い紙の匂いがした。
私は、その匂いの方が少し好きだと思った。




