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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第一章

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8/23

第8話 陛下のお言葉も記録対象です

 国王陛下の執務室は、思っていたより明るかった。


 もっと暗くて、重くて、椅子に座るだけで膝が反省するような部屋を想像していた。


 けれど実際には、大きな窓から午後の光が入り、机の上には書類が整然と積まれている。


 整然と。


 私は少しだけ警戒した。


 机の上が整っている人は、たいてい怖い。


 国王陛下は、窓際に立っていた。


 白髪混じりの金髪。

 深い青の上着。

 王冠はない。


 それでも、この人が国で一番偉い人なのだと、部屋に入った瞬間わかった。


 王子殿下は、少しだけ安心した顔をした。


 父親の前だからだろう。


 私は父の前でも、あまり安心できない。


 昨日から、安心というものは思ったより薄い布だと知った。


「アデライン・ロシュフォード」


「はい、陛下」


 アデライン様は、深く礼をした。


 綺麗だった。


 膝を折る角度まで、誰かに媚びていない。


「エドウィン・クレイ」


「御前に」


 エドウィン様も礼をする。


 私は慌てて続いた。


 少し遅れた。


 礼にも発言順があるなら、私は三番目だ。


「ミラ・ノートン」


 名前を呼ばれた。


 私は背筋を伸ばした。


「はい」


「昨夜の記録係だな」


「はい」


「今も記録するつもりか」


 王子殿下が、ほんの少し笑った。


 私は帳面を抱えたまま考えた。


 ここで「いいえ」と答えれば、たぶん少し楽になる。


 でも、後で「言っていない」と言われた時、とても困る。


 困ることは、だいたい最初に潰した方がいい。


「恐れながら」


 私は言った。


「陛下のお言葉も、記録対象でしょうか」


 王子殿下の笑みが広がった。


「無礼だぞ」


「よい」


 国王陛下が言った。


 短い一言だった。


 王子殿下の笑みが止まった。


 国王陛下は、私を見ていた。


「記録せよ」


 私は一礼した。


「承知しました」


 手が少し震えた。


 国王陛下のお言葉を書いている。


 普通の下級貴族の娘が、昼食後にする仕事ではない。


 でも、字はいつも通りに書いた。


 そこだけは、自分を褒めてもいい気がした。


「さて」


 国王陛下は、机の上から一通の封書を取った。


「アレクシス」


「はい、父上」


「昨夜、婚約破棄を宣言したのは事実か」


「それは、誤解が」


「事実か」


 王子殿下は黙った。


 私は書いた。


 国王陛下、王太子殿下へ婚約破棄宣言の事実を確認。

 王太子殿下、即答せず。


「……事実です」


「記録削除を命じたのは」


「混乱を防ぐためで」


「命じたのか」


「……命じました」


 私は書いた。


 王太子殿下、記録削除命令を認める。


 王子殿下の肩が、少しずつ小さくなっていく。


 昨日の大広間では、あんなに大きく見えたのに。


 人の大きさは、場所と発言で変わるらしい。


「ロザベル・ミード嬢の奨学金停止を求めたのは」


「それは、彼女を守るために」


「求めたのか」


「……はい」


 アデライン様は、何も言わなかった。


 何も言わないのに、その沈黙には背筋があった。


「孤児院予算の署名については」


 王子殿下が顔を上げた。


「それは違います! 私は署名など」


「していないのか」


「していません」


 私はペンを止めた。


 国王陛下も、少しだけ目を細めた。


「では、三年前からの支給承認書にあるお前の署名は、偽造ということだな」


 王子殿下の顔が変わった。


 今、間違えた。


 たぶん、本人も気づいた。


「いえ、その、確認が必要です」


「今、していないと言った」


 国王陛下は言った。


「ミラ・ノートン」


「はい」


「今の発言は」


「記録いたしました」


「よろしい」


 よろしい。


 国王陛下に言われると、なかなか重い言葉だった。


 紙の上で、少し沈んだ気がする。


「父上、これは罠です」


 王子殿下が言った。


「アデラインが、私を陥れようとしているのです」


「殿下」


 アデライン様が初めて口を開いた。


「私は昨夜、婚約を破棄されました。今朝は孤児院に行き、昼には倉庫で物資を確認しました。陥れるには、少し忙しすぎます」


 エドウィン様が横で小さく息を吐いた。


 笑ったのかもしれない。


 私は笑わなかった。


 笑うと字が乱れる。


「アデライン」


 国王陛下が言った。


「お前は何を求める」


 王子殿下が、はっと顔を上げた。


 たぶん、ここで金や爵位や復縁条件が出ると思ったのだろう。


 私も少し思った。


 でも、アデライン様は違った。


「王立孤児院に、本来の予算と物資を戻すこと」


 即答だった。


「学院評議会の記録調査。王宮慈善局の監査。昨夜の断罪に関与した者への聞き取り。そして、ロザベル・ミード嬢への保護です」


 王子殿下が目を見開いた。


「ロザベルを?」


 私も少し驚いた。


 アデライン様は、静かに頷いた。


「彼女は嘘をつきました。ですが、ミード商会と慈善局の不正をどこまで知っていたかは未確認です。証人として守るべきです」


 私は書いた。


 アデライン・ロシュフォード嬢、ロザベル・ミード嬢の保護を求める。


 ペンが少しゆっくり動いた。


 強い人は、敵を踏むだけではないらしい。


 逃げられない場所に立たせて、それでも壊さない。


 難しいことをする人だ。


「お前は」


 国王陛下が言った。


「王太子妃になるより、公爵に向いているな」


 アデライン様は、少しだけ目を伏せた。


「恐れ入ります」


 王子殿下が、唇を噛んだ。


 その顔を見て、私は思った。


 昨日、彼はアデライン様を捨てたつもりだった。


 でも実際には、王子殿下の方が、彼女の横に立つ資格を失ったのかもしれない。


 もちろん、これは記録しない。


 私の感想だからだ。


「エドウィン」


「はい」


「宰相府にて、王宮慈善局の予備監査を始めよ。ロシュフォード家からはアデラインを立会人として認める」


「承知しました」


「ミラ・ノートン」


 また名前を呼ばれた。


 今日はよく呼ばれる。


 私の名前は、そんなに丈夫ではない。


「はい」


「お前には、その記録補助を命じる」


「私に、ですか」


「不服か」


「いえ」


 不服ではない。


 ただ、胃が少し遠くへ行った。


「恐れながら、私はまだ正式な記録官ではございません」


「ならば、今から臨時任命する」


 国王陛下は机の上の紙に署名した。


 早い。


 あまりにも早い。


 私は思わずアデライン様を見た。


 アデライン様は微笑んでいた。


 まさか。


 知っていた顔だった。


 エドウィン様も、少しだけ目を逸らした。


 こちらも怪しい。


「ミラさん」


 アデライン様が言った。


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 言葉は出た。


 でも、心は追いついていなかった。


 下級貴族の娘。

 臨時記録係。

 昨日、王子殿下の嘘を記録した女。


 今日、国王陛下に臨時記録官へ任命される。


 急に階段を三段飛ばしで上がらされた気分だった。


 落ちたら痛い。


「ただし」


 国王陛下の声が低くなった。


「この件には、王妃の名も出ている」


 部屋の空気が変わった。


 王子殿下の顔が、さっきより白くなった。


 アデライン様の表情も、わずかに硬くなる。


「王妃殿下の、名」


 私は繰り返した。


「三年前、慈善局の管轄を王妃主導に移した記録がある」


 国王陛下は言った。


「だが、その議事録が見つからぬ」


 見つからない議事録。


 私は帳面を握った。


 記録がない。


 それは、発言がなかったという意味ではない。


 誰かが、残さなかったという意味かもしれない。


「ミラ・ノートン」


「はい」


「記録がない時、お前ならどうする」


 私は少し考えた。


 記録がない。


 紙がない。


 発言が残っていない。


 それでも、人は動く。

 物は運ばれる。

 金は減る。

 誰かが空腹になる。


「記録がないなら」


 私は答えた。


「記録以外に残ったものを探します」


 国王陛下は、しばらく私を見ていた。


 それから、かすかに笑った。


「よろしい」


 その一言で、私は少しだけ背筋が冷えた。


 褒められた気がしなかった。


 試されたうえで、次の部屋へ通された気がした。


 その時、扉が叩かれた。


 侍従が入ってくる。


「陛下」


 声が少し硬い。


「王妃殿下がお越しです」


 王子殿下が、息を呑んだ。


 アデライン様は姿勢を正した。


 エドウィン様が、私の机の上に新しい紙を置いてくれた。


 私はペン先を整えた。


 王妃殿下。


 議事録の見つからない人。


 国王陛下は、しばらく扉を見ていた。


「通せ」


 短い命令だった。


 扉が開く。


 淡い金のドレス。

 白い首飾り。

 甘い香り。


 王妃殿下は、部屋に入るなり、微笑んだ。


「まあ」


 その声は、砂糖菓子のように柔らかかった。


「記録係までいるのね」


 私は書いた。


 王妃殿下、入室直後、記録係の存在を確認。


 王妃殿下の視線が、私のペン先に止まった。


 微笑みは、そのままだった。


 でも、目だけが笑っていなかった。

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