第6話 寄付品でしたら、返せますね
「それは、私の寄付品です」
ロザベル・ミード嬢は、そう言った。
倉庫の中で。
王立孤児院宛ての古い荷札が残った小麦粉の袋を前にして。
私は書いた。
ロザベル・ミード嬢、王立孤児院宛て物資について「私の寄付品」と発言。
ペン先が少しだけ引っかかった。
紙にも、困ることがあるらしい。
「寄付品」
アデライン様は、ゆっくりと繰り返した。
「ええ」
ロザベル嬢は胸元に手を当てた。
昨日と同じ仕草だった。
けれど、昨日の白い手巾はない。
「私は孤児院の子どもたちのために、ミード商会から物資を寄付しようとしていました。それを盗品のように扱われるなんて、あんまりです」
バルク卿が、かすかに息を吐いた。
助かった、という顔だった。
助かっていないと思う。
たぶん。
「そう」
アデライン様は微笑んだ。
優しい笑みだった。
優しいので、私は少しだけ嫌な予感がした。
「寄付品なのですね」
「はい」
「王立孤児院の子どもたちへの」
「もちろんです」
「では、今すぐ届けましょう」
ロザベル嬢の表情が止まった。
バルク卿も止まった。
倉庫番は、止まる前から動いていなかった。
「え?」
「寄付品なのでしょう?」
アデライン様は言った。
「王立孤児院の子どもたちのために用意した小麦粉、豆、薬草、毛布。ならば、今すぐ孤児院へ届けても問題ありませんね」
「そ、それは」
「問題がありますか」
ロザベル嬢は口を開いた。
閉じた。
もう一度開いた。
言葉が出てこない。
言葉というものは、出る時は勝手に出るのに、必要な時ほど詰まるらしい。
「アデライン様」
私は小さく言った。
「寄付品として届ける場合も、数量と品目、荷札の貼り替え履歴、元の宛名を記録しておく必要があります」
「ええ。お願いします」
「あと、寄付者名も」
ロザベル嬢が私を見た。
「寄付者名?」
「はい」
私は帳面を見下ろした。
「ロザベル様の寄付品として届けるのであれば、王立孤児院の記録には、ロザベル・ミード嬢より寄付と残ります」
「そ、それは困ります」
「困るのですか」
アデライン様が聞いた。
ロザベル嬢は唇を噛んだ。
「いえ、困るというか、その、私は目立ちたくなくて」
「昨日の夜会では、ずいぶん目立っていらしたけれど」
アデライン様の声は、柔らかかった。
柔らかい刃物というものがあるなら、たぶんこういう声だと思う。
「寄付者名を伏せることもできます」
私は言った。
ロザベル嬢の顔が、少し明るくなる。
「ただし、その場合は匿名寄付として記録されます。元の荷札が王立孤児院宛てであったこと、ミード商会倉庫に保管されていたこと、寄付者名を伏せる希望があったことも、併記します」
明るくなった顔が、また暗くなった。
忙しい顔だった。
「あなた、わざとやっているでしょう」
ロザベル嬢が言った。
「いいえ」
私は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「記録係として必要な確認をしています」
ロザベル嬢は泣きそうな顔をした。
泣きそうなのか、泣きそうに見せているのかは、私にはわからない。
ただ、昨日より少し下手だった。
「ミラさん」
アデライン様が言った。
「物資は孤児院へ。帳簿と受領書は写しを取り、原本は封をして宰相府へ提出します」
「承知しました」
「異議のある方は?」
誰も答えなかった。
沈黙。
これは記録しなくてもいい沈黙だろうか。
少し迷って、私は書いた。
関係者一同、異議なし。
すると、倉庫の入口から声がした。
「その封印、宰相府で引き受けましょう」
若い男性だった。
濃い茶の髪を後ろに流し、飾り気の少ない上着をきっちり着ている。目つきは柔らかいが、手にしている書類の角は一枚も乱れていなかった。
こういう人は、たいてい怖い。
机の上が整っている人と同じ種類の怖さである。
「エドウィン補佐官」
アデライン様が名を呼んだ。
「早かったですね」
「ロシュフォード家の馬車が王立孤児院へ向かったと聞きましたので」
エドウィン様は軽く礼をした。
「その後、王宮慈善局の馬車が慌てて南へ走った。追う理由としては十分です」
バルク卿が、わかりやすく目を逸らした。
私は書いた。
バルク卿、エドウィン補佐官の発言後、視線を逸らす。
「……細かいですね」
エドウィン様が私の手元を見て言った。
「申し訳ありません」
「謝ることではありません」
彼は、ほんの少し笑った。
「その細かさで、子どもたちのパンが戻る」
私は返事に困った。
褒め言葉だった。
たぶん。
褒め言葉は、いつも少し扱いにくい。
「ミラ・ノートン嬢ですね」
「はい」
「昨夜の議事録、宰相府で拝見しました」
私は背筋を伸ばした。
「不備がありましたでしょうか」
「いいえ」
エドウィン様は言った。
「不備がなさすぎて、何人かが眠れなかったようです」
それは褒め言葉なのだろうか。
だとしたら、少し物騒である。
アデライン様が、小さく笑った。
「エドウィン補佐官。封印を」
「承知しました」
宰相府の係官たちが倉庫へ入ってくる。
麻袋に封をする者。
木箱の数を数える者。
受領書を写す者。
私はその横で、数量を書き続けた。
小麦粉、十二袋。
豆、八袋。
薬草、三箱。
毛布、二十枚。
文字にすると、ただの品目になる。
でも、リナの手の中にあった小さなパンを思い出すと、ただの品目ではなかった。
「ミラさん」
アデライン様が隣に立った。
「はい」
「孤児院へ戻す物資の一覧、あなたの字で一枚作ってくださる?」
「孤児院用ですか」
「ええ。子どもたちが、自分たちのものだとわかるように」
私は一瞬、手を止めた。
子どもたちが、自分たちのものだとわかるように。
その言葉は、なぜか胸の奥に残った。
「承知しました」
私は新しい紙を出した。
王立孤児院返還物資一覧。
そう書いた。
返還。
寄付ではない。
もともと届くはずだったものが、帰るだけである。
ロザベル嬢が、その文字を見て顔を伏せた。
「私は……」
小さな声だった。
「私は、知らなかったのです」
アデライン様は彼女を見た。
「何を?」
「お父様が、孤児院のものを……そんなことをしていたなんて」
その声が本当かどうかは、私には判断できない。
でも、昨日の夜会で彼女が証言を変えたことは記録にある。
今日、寄付品だと言ったことも記録にある。
人の涙は乾く。
記録は乾いたあとに残る。
「ロザベルさん」
アデライン様は静かに言った。
「知らなかったことは、罪ではありません」
ロザベル嬢が顔を上げた。
「ですが、知らなかったことにして逃げるのは、別の罪です」
ロザベル嬢の肩が震えた。
「あなたが本当に知らなかったのなら、今ここで選びなさい。ミード商会を守るのか、孤児院へ返すのか」
倉庫の中に、冷たい朝の光が差し込んでいた。
ロザベル嬢は、長い沈黙のあと、かすれた声で言った。
「……返します」
私は書いた。
ロザベル・ミード嬢、王立孤児院宛て物資の返還に同意。
「声が小さいですね」
エドウィン様が言った。
ロザベル嬢はびくりとした。
「返します。孤児院へ、返してください」
私はもう一度書いた。
今度は少しだけ、字が濃くなった。
「では、運びます」
アデライン様が言った。
その横顔は綺麗だった。
けれど、飾られている綺麗さではない。
荷車の泥も、倉庫の埃も、誰かの嘘も、まとめて踏んで進む人の顔だった。
エドウィン様が、私の紙を覗き込む。
「良い字ですね」
「ありがとうございます」
「少し怒っている字です」
私は手元を見た。
「字に出ていますか」
「出ています」
「それは困ります」
「困らなくていい」
エドウィン様は、静かに言った。
「怒るべきところで怒れる記録官は、信用できます」
また、返事に困ることを言われた。
私は紙の端をそろえた。
紙の端は、いつも私より落ち着いている。
その時、倉庫の外から馬のいななきが聞こえた。
次の瞬間、護衛が駆け込んでくる。
「アデライン様。王宮から使者です」
アデライン様は、眉一つ動かさなかった。
「誰から?」
「王太子殿下より」
バルク卿が、わずかに顔を上げた。
ロザベル嬢は息を呑んだ。
私はペンを持ち直した。
昨日から、王子殿下のお名前はよく出る。
本人がいない時ほど、よく出る。
護衛が差し出した封書には、王家の紋章が押されていた。
今度は、署名も封蝋もある。
アデライン様が封を切る。
読み終えた彼女は、私に手紙を渡した。
「ミラさん。読み上げて」
「よろしいのですか」
「ええ。記録に残すべき内容です」
私は手紙を受け取った。
王太子殿下の署名。
整った文字。
昨日より、少し乱れた筆跡。
私は読み上げた。
「アデライン・ロシュフォード。昨夜の件について、内密に話し合いたい。記録係は連れてくるな」
倉庫の中の視線が、私に集まった。
私は手紙を見下ろした。
記録係は連れてくるな。
なるほど。
そこだけは、とてもわかりやすかった。
アデライン様が微笑んだ。
「ミラさん」
「はい」
「行きましょう」
「私もですか」
「もちろん」
彼女は、王家の封書を私の帳面の上に置いた。
「連れてくるなと言われた相手ほど、連れていく価値があります」
私は少しだけ考えた。
そして、書いた。
王太子殿下、内密の話し合いを求める。
ただし、記録係の同席を拒否。
最後の一文は、自然と濃くなった。
たぶん、少し怒っている字だった。




