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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第一章

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第4話 その署名、三年前から同じ筆跡です

 王立孤児院は、王都の北端にあった。


 門は立派だった。


 門だけは。


 白い石柱には王家の紋章が刻まれていて、鉄柵も磨かれている。王立、という言葉にふさわしい顔をしていた。


 けれど中へ入ると、すぐに違和感があった。


 噴水は水を吐いていない。

 花壇には花より土の方が多い。

 建物の壁には、細いひびが入っている。


 風が吹くと、窓枠がかたかた鳴った。


 帳簿の上では、ここには毎年かなりの修繕費が出ているはずだった。


 帳簿の上では。


「ミラさん」


 アデライン様が馬車を降りながら言った。


「最初に見るべきものは何だと思いますか」


「子どもたちの食事です」


 私は答えた。


 アデライン様が、少しだけ目を細める。


「帳簿ではなく?」


「帳簿は嘘をつけます。空腹は、あまり上手に嘘をつけません」


 言ってから、少し不安になった。


 偉そうだっただろうか。


 私はただ、朝食を抜いた日の弟がたいへん正直な顔をすることを知っているだけである。


「ええ」


 アデライン様は微笑んだ。


「いい答えです」


 褒められた。


 困る。


 公爵家の馬車の前で褒められると、逃げ場が少ない。


 玄関に出てきた院長は、痩せた初老の男性だった。深く礼をしながら、何度も額の汗を拭いている。


「ロシュフォード様。事前のお知らせもなく、このような」


「事前に知らせたら、見たいものが隠されます」


 アデライン様は穏やかに言った。


 穏やかだった。


 穏やかだったので、余計に院長の汗が増えた。


 私たちは食堂へ案内された。


 長い木の机。

 欠けた椅子。

 薄いスープ。

 黒パン。


 食堂には、パンの匂いより、湯気の薄い野菜の匂いが強かった。


 子どもたちは、こちらを見るとすぐに姿勢を正した。


 慣れている。


 そう思った。


 大人が来た時に、どういう顔をすれば怒られにくいのか、覚えている顔だった。


 その中で、一番小さな女の子だけが、パンを両手で隠した。


 取られると思ったのかもしれない。


 私は、その手を見た。


 小さい。


 パンも小さい。


 隠せてしまうくらいには。


 アデライン様は、その子の前で膝を折った。


 深い青の外套が、埃っぽい床に触れる。


 私は少し驚いた。


 公爵令嬢の服は、床に触れないものだと思っていた。


「お名前は?」


「……リナ」


「リナ。今日の朝食は足りましたか」


 女の子は院長を見た。


 それから、首を横に振った。


 院長の顔が白くなった。


 アデライン様は怒らなかった。


 ただ、自分の手袋を外し、リナの手元を見た。


「そのパンを見せてもらってもいい?」


 リナは、少し迷った。


 それから、両手を開いた。


 黒パンは、私の親指と人差し指で輪を作れば収まりそうなほど小さかった。


 端は硬く、割れ目からぽろぽろと粉が落ちている。


「小さいわね」


 アデライン様が言った。


「昨日より大きいです」


 リナが言った。


 その一言で、院長は目を閉じた。


 私は書いた。


 孤児院児童リナ、朝食のパンについて「昨日より大きい」と発言。


 昨日より大きい。


 それは、今日のパンが十分だという意味ではない。


 昨日がもっと小さかったという意味である。


 アデライン様は、リナにパンを返した。


 奪わなかった。


 触っただけで終わらせた。


 それだけのことなのに、リナは少しだけ不思議そうな顔をした。


「リナ」


 アデライン様は言った。


「そのパンは、あなたのものです」


 リナは、目を丸くした。


 当たり前のことを言われたのに、当たり前ではない顔だった。


 私はその顔を記録しなかった。


 顔色は消える。


 でも、今の顔は、少しだけ覚えておきたいと思った。


「院長」


 アデライン様が立ち上がる。


 外套の裾に、床の埃がついていた。


 彼女は払わなかった。


「帳簿を見せてください」


 院長は、逆らわなかった。


     ◇


 孤児院の帳簿は、きれいだった。


 きれいすぎた。


 支給日。

 受領印。

 購入品目。

 修繕費。

 食費。

 医薬品。


 まるで王都の見本帳のように整っている。


 私は、きれいな帳簿が少し苦手だ。


 人が生活している場所の帳簿は、もう少し汚れる。


 粉がつく。

 水の跡が残る。

 急いで書いた数字が傾く。

 子どもが触って、端が折れる。


 ここには、それがなかった。


 食堂には、手のひらに隠れるパンがあった。


 帳簿には、十分な小麦粉があった。


 どちらかが、嘘をついている。


 私は帳簿をめくった。


 三年前の春。

 三年前の夏。

 二年前。

 去年。


 同じ金額。

 同じ品目。

 同じように整った受領印。


 そして、同じ署名。


「アデライン様」


「何かしら」


「この支給承認欄ですが」


 私は帳簿を指した。


「三年前から、すべて同じ筆跡です」


 院長が息を止めた。


 アデライン様は静かに近づいた。


「同じ人物が承認しているのだから、同じ筆跡で当然ではなくて?」


「はい。ですが、同じに見えすぎます」


 私は紙を三枚並べた。


「ここの癖です。王子殿下の署名は、最後の線が少し跳ねます。ここまでは自然です。でも、この三年分は跳ね方の角度が同じです。インクの溜まりも、文字の傾きも、最後の点の位置も」


 私は、一枚目と二枚目を重ねた。


 窓からの光に透かす。


 線が、ほとんど重なった。


「まるで、一度書いた署名を写したようです」


 院長の喉が鳴る。


「い、いえ、私は何も」


「院長」


 アデライン様の声は、低かった。


「あなたを責めるかどうかは、まだ決めていません」


 まだ。


 その一言は優しくなかった。


 けれど、嘘でもなかった。


「ただ、あのパンを見た後で、この帳簿だけを信じることはできません」


 院長は崩れるように椅子へ座った。


「……私も、何度も問い合わせました」


 私は顔を上げた。


「問い合わせた、とは」


「支給が足りないと。帳簿上の額と、届く物資が合わないと。ですが王宮慈善局からは、支給済みだと」


 私は書いた。


 院長、王宮慈善局へ物資不足を複数回問い合わせたと証言。

 慈善局より支給済みとの回答あり。


「誰から帳簿を渡されましたか」


 アデライン様が聞いた。


 院長はしばらく黙っていた。


 それから、机の縁を握った。


「王宮慈善局です」


「担当者は」


「副局長の、バルク卿です」


 私はその名を書いた。


 その時、食堂の方から小さな悲鳴が上がった。


 アデライン様が振り返る。


 廊下の向こうで、使用人が男を止めていた。


 上等な外套。

 急いで来たらしい乱れた髪。

 胸元には、王宮慈善局の徽章。


 男は私たちを見ると、顔色を変えた。


「ロシュフォード様。これは、何かの誤解です」


 まだ何も言っていない。


 誤解と言うには、少し早い。


 私は書いた。


 王宮慈善局副局長バルク卿、到着直後に「これは何かの誤解」と発言。


 バルク卿は私の手元を見て、さらに顔を歪めた。


「また記録係か」


 また。


 初対面のはずなのに、またと言われた。


 人の噂は足が速い。


 たぶん、私より速い。


「その帳簿は王宮管理のものだ。部外者が触れてよいものではない」


「私はロシュフォード公爵家の次期当主として、王立孤児院への支給不備を確認しています」


 アデライン様は言った。


「部外者ではありません。王国貴族としての責務です」


「公爵位は、まだ正式に」


「では、婚約者としての立場で王家に確認しましょうか」


 アデライン様は微笑んだ。


「昨夜、破棄されましたけれど。議事録には残っています」


 バルク卿の口が止まった。


 私は少し感心した。


 同じ事実でも、使う人が違うと剣になる。


 私が持つとペンなのに。


「ミラさん」


「はい」


「今の帳簿の写しを取れますか」


「できます」


「では、お願いします」


「お待ちください!」


 バルク卿が声を荒げた。


「その帳簿は王宮に提出する必要があります。今すぐ私が預かります」


「受領証は?」


 私は聞いた。


 バルク卿が私を睨む。


「何?」


「帳簿を預かる場合、資料名、冊数、時刻、受領者名、目的を記した受領証が必要です」


「小娘が」


「はい。小娘です」


 私は頷いた。


「ですので、書面がないと怖くて渡せません」


 バルク卿の顔が赤くなった。


 昨日から、偉い男性の顔色をよく見ている気がする。


 顔色を見るのは得意ではないが、赤と青くらいならわかる。


 アデライン様が、そっと笑った。


「バルク卿」


 その声で、部屋の温度が変わった気がした。


「帳簿を持ち去る前に、一つだけお聞きします」


「何でしょう」


「三年前から同じ署名が使われている理由を、今ここで説明できますか」


 バルク卿の視線が、帳簿に落ちた。


 落ちた。


 見てはいけないものを見る人の目だった。


 私は書いた。


 バルク卿、署名の件を問われ、帳簿に視線を落とす。


 細かすぎるかもしれない。


 でも、細かいことは後で効く。


「ミラさん」


 アデライン様が言った。


「今の箇所、写しを」


「はい」


 私はペンを取った。


 その瞬間、バルク卿が手を伸ばした。


 帳簿へ。


 速かった。


 けれど、アデライン様の方が先だった。


 彼女は帳簿の上に白い手を置いた。


 手袋を外したままの手だった。


 細くて、綺麗で、逃げ道を塞ぐ手。


「触れないで」


 声は静かだった。


「これは、子どもたちのパンの記録です」


 バルク卿の手が止まった。


 食堂の入口から、リナがこちらを覗いていた。


 アデライン様はその視線に気づくと、ほんの少しだけ目元を和らげた。


 それから、私に言った。


「ミラさん。記録を続けて」


「はい」


 私は紙に向かった。


 バルク卿は、まだ帳簿を見ている。


 院長は震えている。


 子どもたちは黙っている。


 そして私は、ようやく気づいた。


 これは、昨夜の婚約破棄の続きではない。


 もっと前から続いていた何かが、やっと紙の上に出てきただけだ。


 その時、帳簿の最後のページから、小さな紙片が滑り落ちた。


 古い受領書だった。


 私は拾い上げる。


 宛名は、王立孤児院。


 品目は、小麦粉、豆、薬草。


 受領印は三年前。


 そして配送先は。


「……アデライン様」


「何かしら」


「この受領書、孤児院宛てではありません」


 バルク卿の顔が、今度こそ白くなった。


 私は紙片を読み上げた。


「配送先、ミード商会倉庫」


 ロザベル・ミード。


 昨日の夜会で、白い手巾を目元に当てていた令嬢。


 その家名が、ここにあった。


 アデライン様は、静かに息を吐いた。


「つながりましたね」


 私はペンを握り直した。


 どうやら王国の嘘は、昨日よりずっと広いらしい。

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