第3話 王宮記録局は朝から来た
翌朝、我が家の食卓は静かだった。
パンを切る音だけが、やけに大きい。
父は新聞を広げたまま固まっていた。母は紅茶に砂糖を入れ忘れている。弟は私を見て、少しだけ尊敬した顔をしたあと、小声で言った。
「姉上、王子を倒したなら小遣いは増えますか」
「増えません」
「では、倒し損ですね」
「倒していません」
私はパン屑を皿の端に寄せた。
王子殿下は倒していない。
発言を残しただけである。
ただ、世間ではその区別があまり大事にされていないらしい。
新聞の見出しには、こうあった。
王宮夜会にて婚約破棄騒動。
記録係の議事録により証言に疑義。
疑義。
便利な言葉だ。
嘘と書くより柔らかい。
でも、椅子の脚を一本抜くくらいの力はある。
「ミラ」
父が、ようやく新聞の向こうから顔を出した。
「お前、今日、本当にロシュフォード公爵家へ行くのか」
「はい」
「断ることは」
「できます」
父の顔が明るくなった。
「でも、断ったことも記録には残ります」
父の顔が暗くなった。
忙しい顔だった。
「お前は昔から、そういうところがある」
「どういうところでしょうか」
「逃げ道を見つける前に、逃げ道の番号を控えるところだ」
よくわからなかったが、褒め言葉ではなさそうだった。
玄関のベルが鳴ったのは、その時だった。
朝にしては、強い音だった。
母が椅子から立ちかける。
使用人が応対に出るより早く、玄関の方から硬い声が聞こえた。
「王宮記録局より参りました。ミラ・ノートン嬢に確認したいことがございます」
父の手から新聞が落ちた。
弟が「小遣いどころではないですね」と呟いた。
私は椅子から立った。
「ミラ」
母が青ざめた顔で私の袖を掴む。
「大丈夫です」
大丈夫かどうかは、まだわからない。
ただ、今そう言わないと、母が紅茶に砂糖の壺ごと入れそうだった。
玄関に出ると、灰色の上着を着た文官が二人立っていた。
片方は細い顔。
もう片方は太い指。
太い指の方が、革の筒を抱えている。
書類筒だ。
あまり良い予感はしなかった。
「ミラ・ノートン嬢ですね」
「はい」
「昨夜の議事録について、王宮より訂正命令が出ています」
「訂正命令」
私は繰り返した。
「どの箇所でしょうか」
「全体です」
細い顔の文官は、当たり前のように言った。
「昨夜の記録は、王宮夜会における混乱の中で作成されたものです。よって正式記録としては採用されません。原本、下書き、控え、符号表、関連資料をすべて提出してください」
父が後ろで息を呑んだ。
私は文官を見た。
「提出先はどちらでしょうか」
「王宮記録局です」
「宰相府ではなく?」
文官の眉が少し動いた。
「王宮内のことは、まず王宮で処理します」
「なるほど」
私は頷いた。
「では、受領証をお願いいたします」
「何?」
「原本、下書き、控え、符号表、関連資料を提出する場合、資料名と枚数、受領者名、時刻、目的を記載した受領証が必要です」
文官の口元が歪んだ。
「必要ありません」
「では、提出できません」
「王宮命令ですよ」
「命令書はございますか」
文官は革の筒から一枚の紙を出した。
私は受け取らず、少し距離を取って見た。
「拝見しても?」
「もちろんです」
私は紙面を読んだ。
王宮記録局。
夜会記録の回収。
混乱防止。
速やかに提出。
文言は整っている。
けれど、署名欄が空いていた。
「署名がございません」
「急ぎの命令です」
「封蝋もございません」
「急ぎだと言っているでしょう」
「宛名もございません」
文官の頬が、ぴくりと動いた。
「細かいことを」
「記録は細かいものです」
私は言った。
太い指の文官が、一歩前に出た。
「いいから出しなさい。あなたのような下級貴族の娘が持っていていいものではない」
私は瞬きをした。
「今のご発言も、記録対象でしょうか」
二人の文官の顔が、同時に変わった。
少しだけ、昨夜の王子殿下に似ていた。
「何を」
「王宮記録局を名乗る方が、下級貴族の娘に対し、正式記録の提出を強要。命令書には署名、封蝋、宛名なし。受領証発行を拒否。加えて、『持っていていいものではない』と発言」
「やめなさい」
「承知しました。では、記録中止要求も」
「お前は!」
その時、屋敷の前に馬車が止まった。
黒塗りの馬車だった。
扉に、銀の百合と剣の紋章。
ロシュフォード公爵家。
空気が、そこで変わった。
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、アデライン様だった。
朝の光の中でも、背筋は少しも曲がっていない。昨日の紺ではなく、今日は黒に近い青の外套を羽織っていた。
泣き腫らした令嬢には見えない。
これから誰かを泣かせに行く人に見えた。
「ミラさん」
アデライン様は、私を見て微笑んだ。
「迎えに来ました」
「おはようございます」
私は礼をした。
膝の角度が正しかったかは、あまり自信がない。
文官たちは慌てて頭を下げた。
「ア、アデライン様。これは王宮記録局の手続きで」
「手続き」
アデライン様は、文官の持つ紙を見た。
「署名も封蝋もない紙で?」
「急ぎの」
「誰の急ぎですか」
文官が黙った。
アデライン様は私に視線を戻した。
「ミラさん。昨夜の議事録は?」
「原本は手元にございます。下書き、符号表、関連資料の控えもございます」
「写しは?」
「三部作りました」
文官二人が、同時に私を見た。
私は少しだけ肩をすくめた。
「原本だけでは、紙が不安そうでしたので」
父が後ろで小さく呻いた。
アデライン様は、ほんの少しだけ笑った。
「三部の所在は?」
「一部は封をして父に預けました。一部は昨夜、王宮を出る前に宰相府の夜間受付へ。もう一部は」
私は言いかけて、止まった。
そこまで言う必要はない。
控えの所在は、全部言うと控えの意味が薄くなる。
「安全な場所にございます」
アデライン様の笑みが深くなった。
「十分です」
それから彼女は、文官二人を見た。
「昨夜の議事録を消すには、少し遅かったようですね」
「消すなどと、そのような」
「では、正式な手続きで申し入れなさい。署名と封蝋を揃え、宰相府を通して」
アデライン様の声は静かだった。
静かなのに、逃げ道を一本ずつ塞いでいく声だった。
「ミラさん」
「はい」
「行きましょう。あなたに見せたいものがあります」
「見せたいもの、ですか」
「ええ」
アデライン様は馬車の方へ歩き出した。
「王国で最も嘘が多く、最も記録が少ない場所です」
私は、玄関先に立ったまま少し考えた。
行きたくない。
とても行きたくない。
けれど、記録が少ない場所と言われると、少しだけ気になる。
少しだけだ。
私は父と母に礼をし、鞄を持った。
その時、太い指の文官がぼそりと言った。
「こんな娘一人で、何が変わる」
私は足を止めた。
振り返る。
「恐れ入ります」
文官の顔が引きつった。
「今のご発言、お名前つきで残しますか。匿名にしますか」
文官は黙った。
私は少し迷ってから、帳面を開いた。
「では、保留にしておきます」
保留。
便利な言葉だ。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、今はまだ、書く場所を決めていないだけである。
馬車に乗り込むと、アデライン様が向かいに座っていた。
「ミラさん」
「はい」
「あなた、怖い人ね」
「よく言われません」
「でしょうね」
馬車が動き出す。
窓の外で、王宮記録局の文官たちが小さくなっていく。
私は鞄を膝に置き、帳面の角をそろえた。
「アデライン様」
「何かしら」
「これから向かう場所は、どちらでしょうか」
アデライン様は、静かに答えた。
「王立孤児院です」
私は瞬きをした。
昨日の婚約破棄。
王子殿下。
ロザベル嬢。
奨学金。
記録削除命令。
そのどれとも、すぐには結びつかない場所だった。
けれどアデライン様は、迷いなく続けた。
「三年前から、孤児院の予算が消えています」
私は、膝の上で指を止めた。
「消えている、とは」
「帳簿上は支給済み。現場には届いていない」
アデライン様は窓の外を見た。
「そして、その支給承認欄には、王子殿下の署名があります」
私はペンを握った。
昨日より、少しだけ強く。
どうやら私の名前は、議事録に残るだけでは済まないらしい。




