第2話 その奨学金停止、命じたのは殿下です
私の名前まで、議事録に残ってしまった。
それは、なかなか困ることだった。
議事録というものは、本来、他人の発言を残すためのものである。そこに自分の名前が入ると、急に紙の向こう側からこちらを見られているような気分になる。
できれば、私は紙のこちら側にいたい。
などと考えている場合ではなかった。
「待て、アデライン」
王子殿下が、低い声で言った。
先ほどまでの断罪する声ではない。
少しだけ、余裕のなくなった声だった。
「階段の件に誤解があったとしても、それで君の罪が消えるわけではない」
階段から突き落とされた時刻は、七時頃で、七時半頃で、八時前だった。
どれも記録とは合わなかった。
けれど王子殿下は、そのあたりをもう見ないことにしたらしい。
人は見たくないものを見る時、目を閉じることがある。
王子殿下の場合は、話題を変えるらしい。
「君はロザベルの奨学金を止めようとした。これは学院評議会の記録にも残っているはずだ」
ロザベル嬢が、王子殿下の後ろで小さく頷いた。
さっきまで青ざめていた顔に、少しだけ色が戻る。
「そうです。アデライン様は、私が奨学金を受けるのが気に入らなかったのです。公爵家のご令嬢だから、平民に近い私が学院に通うことを許せなかったのだと……」
アデライン様は、何も言わなかった。
ただ、私を見た。
見ないでほしい。
いや、見るのは構わない。
けれどその視線には、「ありますね」と書いてあった。
そして、残念ながら、あった。
「恐れながら」
私は手元の帳面を開いた。
「三日前の学院評議会の議事録控えでしたら、ございます」
王子殿下の表情が、わずかに明るくなった。
「ならば読め。アデラインがロザベルの奨学金に口を出した箇所をだ」
「承知しました」
私は紙をめくった。
夜会の記録係には、関連資料の写しが渡される。
招待客名簿。
控え室使用表。
警備配置。
事故報告。
学院評議会の抜粋。
普通は、誰も全部読まない。
けれど私は読んでいた。
読まない書類を持たされると、紙が少しかわいそうだからだ。
「三日前、学院評議会。第六議題、奨学金不正受給疑惑について」
大広間の話し声が、少しずつ遠のいた。
「発言者、アデライン・ロシュフォード嬢」
ロザベル嬢の手巾が、目元から口元へ移動した。
「『ロザベル・ミード嬢の奨学金について、匿名の告発が出ております。ですが、告発文には署名がなく、証拠も添付されておりません。よって、現時点で奨学金の停止を決定するのは不当と考えます』」
私は続けた。
「『調査は必要です。しかし、生活費を含む奨学金である以上、停止は学業継続を不可能にします。本人への聞き取りを行わずに支給を止めることには、反対いたします』」
そこまで読み上げて、私は顔を上げた。
「以上が、アデライン様の発言です」
王子殿下は、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
「そんな発言はしていない」
私は瞬きをした。
困った。
非常に困った。
なぜなら今、私が読み上げたのは、アデライン様の発言である。
王子殿下の発言ではない。
「あの」
「何だ」
「ただいま読み上げたのは、アデライン様の発言です」
近くで、誰かが咳き込んだ。
一度ではなく、二度。
咳というのは便利な音だ。笑いかけた時にも、困った時にも、喉が悪いふりができる。
王子殿下の顔が赤くなった。
「わかっている! 私は、その記録が偽りだと言っているのだ!」
「承知しました」
私は書いた。
王子殿下、三日前の学院評議会記録を偽りと主張。
「記録するな!」
「承知しました。では、王子殿下、偽りとの主張について記録拒否」
「黙れ!」
「はい。黙って記録いたします」
沈黙と記録は、両立できる。
少なくとも、私の場合は。
「ミラさん」
アデライン様が、静かに私の名を呼んだ。
「はい」
「同じ評議会で、ロザベル嬢の奨学金停止を求めた発言者は、どなたでしたか」
私は該当箇所を探した。
探すまでもなかった。
赤い印をつけていたからだ。
赤い印は、重要という意味ではない。
後で確認が必要という意味である。
「発言者、アレクシス王太子殿下」
ロザベル嬢の手巾が落ちた。
「発言内容。『ロザベル・ミード嬢の奨学金については、一度停止すべきである。彼女は私の保護下に入るため、学院の支援は不要となる』」
王子殿下の顔から、色が引いた。
「続きがございます」
私は言った。
「『むしろ、奨学金を受け続ければ、彼女が私に近づいた理由を金と疑われかねない。私の婚約者であるアデラインには、余計な口出しをさせるな』」
ロザベル嬢が、王子殿下を見た。
その目には、涙より先に驚きがあった。
泣く順番としては、少し珍しい。
「違う」
王子殿下が言った。
「そのような意味ではない」
「意味については、記録しておりません」
私は答えた。
「発言を記録しております」
「貴様……!」
「殿下」
アデライン様の声が、王子殿下の怒声を遮った。
大きな声ではなかった。
けれど、よく通った。
「私はその場で反対いたしました。ロザベル嬢の生活を、殿下の都合で左右すべきではないと」
「黙れ!」
「それも記録していただけますか、ミラさん」
「はい」
私は書いた。
王子殿下、アデライン・ロシュフォード嬢に対し、沈黙を命令。
王子殿下の取り巻きの方々は、もう頷いていなかった。
人は頷くのをやめる時、意外と首の置き場に困るらしい。
「ロザベル」
アデライン様は、王子殿下ではなく、ロザベル嬢を見た。
「あなたは先ほど、私が奨学金を取り上げようとしたと証言しましたね」
「わ、私は……」
「ええ。おっしゃいました」
私が小さく補足すると、ロザベル嬢の目がこちらを向いた。
恨まれているのかもしれない。
けれど、私が書いたのは彼女の発言であって、彼女の心ではない。
そこは別の人に担当してほしい。
「ロザベル嬢発言。『アデライン様は、奨学金の審査で私の名を外すように働きかけた』」
読み上げると、ロザベル嬢は唇を噛んだ。
「ち、違うのです。私は、殿下からそう聞いて……」
「ロザベル!」
王子殿下が叫んだ。
その声で、答えはほとんど出てしまった。
私は書いた。
ロザベル嬢、先の証言について、王子殿下から聞いた内容である旨を発言。
王子殿下、ロザベル嬢の発言を遮る。
ペン先が紙をこする音が、やけに大きく聞こえた。
「記録係」
王子殿下が低い声で言った。
「その紙を渡せ」
私は帳面を押さえた。
「原本は宰相府提出用です」
「王子である私が命じている!」
「承知しました。では、『王子殿下、宰相府提出予定の議事録原本の引き渡しを要求』と」
「やめろ!」
「承知しました。では、『王子殿下、先の要求について記録中止を命令』と」
「お前は何なのだ!」
何なのだろう。
私も少し考えた。
下級貴族の娘。
臨時記録係。
字を書くのが少し速い人間。
菓子の粉を袖につけたまま気づかないことがある人間。
候補はいくつかあったが、今この場で必要な答えは一つだけだった。
「記録係です」
私は言った。
王子殿下は、初めて言葉を失った。
その沈黙を、私はすぐには書かなかった。
書くべきかどうか、少し迷ったからだ。
代わりに、手元の紙を見た。
階段から落ちた時刻。
北控え室の入退室。
学院評議会の記録。
奨学金停止を求めた発言者。
ロザベル嬢の証言。
王子殿下の遮り。
どれも、今夜急に生まれた嘘には見えなかった。
たぶん、用意されていた。
誰かが、あらかじめ紙のない場所で用意したのだ。
「ミラさん」
アデライン様が言った。
「その記録、守れますか」
私は顔を上げた。
「守る、ですか」
「ええ」
アデライン様は、王子殿下を見ずに言った。
「今夜の議事録を、消したがる人が出るはずです」
王子殿下の肩が、わずかに動いた。
私はそれを見た。
見たけれど、今は書かなかった。
「原本は宰相府へ提出いたします。控えも作れます」
「何部?」
「最低でも三部」
アデライン様は、ほんの少し笑った。
「十分です」
褒められた。
困る。
でも今回は、少しだけ困り方が違った。
これは、褒め言葉というより、仕事の依頼だった。
仕事なら、受け取りやすい。
「承知しました」
私は言った。
「今夜の記録は、残します」
その言葉を口にした瞬間、私はようやく理解した。
私はもう、ただの壁際の記録係ではない。
誰かが消したがるものを、持ってしまったのだ。
私は、最後に一行だけ書き足した。
今夜の証言および関連記録について、改竄防止のため控え作成を要する。
少し硬い文だった。
けれど、そのくらいでちょうどいい。
柔らかい紙ほど、燃えやすい。




