第1話 削除命令も記録対象です、王子殿下
※短編版から再構成した連載版です。
短編未読でも読めます。
「君なら黙って記録するだろう」
王子殿下は、そうおっしゃった。
だから私は、黙って記録した。
王宮の夜会は、記録係にはあまり向いていない場所だった。香水と蜜酒と磨かれた銀器の匂いが混ざり、人の声は高く跳ね、床は光りすぎている。
誰かが泣くと、周囲の人間が一斉に同じ顔をする。
同情している顔。
驚いている顔。
驚いているふりをしている顔。
私には、その区別があまりつかない。
その代わり、発言の順番と、提出された書類の番号だけは見失わないようにしている。
顔色は消える。
噂は形を変える。
けれど発言は残る。
少なくとも、私の紙の上では。
「アデライン・ロシュフォード。君の冷酷な振る舞いには、もう耐えられない」
大広間の中央で、王子殿下はそう宣言なさった。
婚約者であるアデライン様は、背筋を伸ばして立っている。断罪されている令嬢にしては、あまりにも静かだった。
私は壁際の小卓で、羽根ペンを走らせた。
王子殿下発言。
アデライン・ロシュフォード嬢に対し、冷酷な振る舞いがあったと主張。
「アデライン様は、私を階段から突き落としました」
王子殿下の斜め後ろで、ロザベル嬢が白い手巾を目元に当てながら言った。
私は書いた。
ロザベル・ミード嬢、アデライン・ロシュフォード嬢に階段から突き落とされたと証言。
「それだけではありません。学院でも私を孤立させ、奨学金の件にも口を挟んだのです」
奨学金。
私は、その言葉の横に小さく印をつけた。
後で確認が必要な言葉である。
「記録係」
王子殿下がこちらを見た。
「余計な反論は書かなくていい。今夜は、私が婚約を破棄した事実と、その理由だけを残せ」
私は手を止めた。
「恐れ入ります」
「なんだ」
「削除のご指示も、発言として記録対象でしょうか」
近くの老伯爵が、眉を上げた。
王子殿下は眉をひそめる。
「……何を言っている」
「ただいま、殿下は『余計な反論は書かなくていい』とおっしゃいました。記録内容へのご指示ですので、後日の確認のため、指示があった旨を残す必要があるかと」
「消せと言っている!」
「承知しました。では、『王子殿下、削除を命令』と記録いたします」
誰かが息を呑んだ。
私は、黙って書いた。
王子殿下、記録係に対し、記録内容の削除を命令。
黙っていることと、都合よく書くことは違う。
「続けなさい、ミラさん」
静かな声がした。
アデライン様だった。
「あなたは、今夜の記録係です。どうか、正確に」
「はい」
声が少し震えたのは、インク壺の位置が遠かったせいだ。
そういうことにした。
「アデライン!」
王子殿下が声を荒げた。
「君はまだ反省しないのか。ロザベルは階段から落とされ、今も恐怖で震えているのだぞ」
「恐れながら、殿下」
私は口を開いた。
「確認が必要です」
「何の確認だ」
「ロザベル嬢が階段から落ちた時刻です」
ロザベル嬢の手巾が、ほんの少し下がった。
「ロザベル様。階段から落とされたのは、何時頃でしょうか」
「……七時頃、です」
私は控えを開いた。
夜会記録係には、招待客名簿、控え室使用表、警備配置、事故報告の写しが渡される。
普通は、誰も細かく読まない。
けれど私は読んでいた。
読まない書類を持たされると、紙が少しかわいそうだからだ。
「七時の鐘が鳴った時点で、アデライン様は北控え室にいらっしゃいました。六時四十七分入室、七時十八分退出。立会人の署名もございます」
ロザベル嬢の手巾が、口元へ移動した。
「ち、違います。私、混乱していて……七時半頃だったかもしれません」
「七時半頃」
私は書いた。
「ロザベル嬢、階段から落とされた時刻について、七時頃から七時半頃へ証言を訂正」
「訂正なんて」
「訂正ではありませんか?」
「……訂正です」
「承知しました」
柔らかい言葉にしても、意味が消えるわけではない。
「七時半頃ですと、アデライン様は東廊下にいらっしゃいます。ただし、東廊下には階段がございません。王妃殿下、宰相閣下、学院長も同時刻に通行なさっています」
「で、では、八時前です!」
ロザベル嬢が叫んだ。
私は事故報告の写しを確認した。
「八時前ですと、ロザベル嬢はすでに医務室にいらっしゃいます。七時四十二分、医務室到着。右足首を軽く捻ったとの記録がございます」
近くの誰かが笑いかけて、慌てて咳に変えた。
咳に変えた音も、それなりに目立つ。
私は書いた。
ロザベル嬢、階段から落とされた時刻について、七時頃、七時半頃、八時前と複数回訂正。
「記録係!」
王子殿下が怒鳴った。
「誰の味方だ!」
私はペンを止めた。
少しだけ難しい質問だった。
父の味方。
家の味方。
自分の将来の味方。
そう答えられたら、きっと楽だった。
でも、私は記録係としてここにいる。
「議事録は味方を選びません」
私は言った。
「発言を残すだけです」
王子殿下の顔が赤くなった。
ロザベル嬢は青ざめていた。
色としては、二人で釣り合いが取れている。
でも、それも記録しない。
「ミラさん」
アデライン様が、私の名を呼んだ。
「はい」
「その議事録、控えは取れますか」
「はい。清書前の下書きと、発言順の符号表がございます。原本の改竄防止のため、後ほど照合できます」
「素晴らしい」
褒められた。
困る。
褒められると、私は自分の手をどこに置けばいいのかわからなくなる。
ただ、今はペンを持っていたので助かった。
「アデライン、貴様、何をするつもりだ」
王子殿下が言った。
アデライン様は、そこで初めて、王子殿下をまっすぐ見た。
「殿下。先ほど、殿下は私との婚約を破棄するとおっしゃいました」
「それがどうした」
「議事録にも残っております」
王子殿下の表情が止まった。
「したがって、私はもう、殿下の婚約者として沈黙する必要がございません」
数人の貴族が、無言で姿勢を正した。
誰が力を持っているのか。
誰の旗が折れ、誰の旗が上がったのか。
そういうことに敏い方々は、扇を閉じるのも早い。
「ミラ・ノートンさん」
アデライン様が言った。
「今夜の議事録を、最後まで正確に残してください。そのうえで、明朝、ロシュフォード公爵家へいらっしゃい」
私はペンを持ったまま固まった。
「私が、ですか」
「ええ。あなたです」
「恐れながら、私はただの臨時記録係で」
「いいえ」
アデライン様は微笑んだ。
社交界で飾られるための笑みではなかった。
「あなたは今夜、この大広間で一番正確に事実を見ていた人です」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
困る。
期待されると、インク壺の位置を直したくなる。
けれど今、インク壺はちょうどいい位置にあった。
仕方がないので、私は紙の端をそろえた。
「明朝、ですか」
「ええ」
アデライン様は、刃物を布で包んだような、綺麗で少し怖い笑みを浮かべた。
「私、公爵位を継ぐことにしましたの」
その瞬間、私は初めて、記録する前にペンを落としかけた。
「最初の仕事は、王国中の嘘を記録に戻すことです」
私は、震える指でペンを持ち直した。
そして、黙って記録した。
削除命令も。
証言の訂正も。
公爵家の次期当主が、王国の嘘を記録に戻すと宣言したことも。
ただ、最後の一文だけは、少し手が震えた。
アデライン・ロシュフォード嬢、記録係ミラ・ノートンに対し、翌朝ロシュフォード公爵家への同行を求める。
そこまで書いて、私はようやく気づいた。
私の名前まで、議事録に残ってしまった。
ここから連載版として続きます。
ミラはこのあと、未来の女公爵アデラインの記録官として、王国のあちこちの嘘を記録に戻していくことになります。
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たぶん本人は、まだそこまで大事になると思っていません。




