第33話 今度は、橋があった
翌日の午後。
リーヴェ村へ向かう道は、よく晴れていた。
雨はない。
風も弱い。
馬の蹄が、乾き始めた土を叩いている。
私はリュカの上で、前を行くアデライン様の背中を見ていた。
銀灰色のアルジャン。
黒に近い青の外套。
いつものように、背筋はまっすぐだった。
昨日、公爵位継承の最終手続きへ進むことが決まった人には見えない。
もう少し嬉しそうでもいいと思う。
少なくとも私は、昨日の記録を七部書き終えた時、かなり嬉しかった。
「アデライン様」
「何?」
「昨日のことですが」
「ええ」
「嬉しくないんですか」
アデライン様が振り返った。
「何が?」
「公爵位のことです」
「まだ公爵ではないわ」
「最終手続きには入りました」
「手続きに入っただけでしょう」
やっぱり、この人はそういう人だった。
「ミラさん」
「はい」
「あなた、昨日の記録に『公爵位継承完了』とは書いていないでしょうね」
「書いていません」
「なら結構です」
私は少しだけ胸を張った。
記録官として信用されている。
たぶん。
道の先から、川の音が聞こえてきた。
そして。
私は目を細めた。
「あ」
見えた。
木だった。
川の上に、木がある。
一本ではない。
対岸まで続いている。
まだ欄干は簡素だった。
木材の色も揃っていない。
立派な石橋とは、とても呼べない。
でも。
橋だった。
本当に。
橋があった。
「できてる……」
思わず声が出た。
アデライン様は答えなかった。
ただ、アルジャンの歩みが少しだけ速くなった。
◇
川辺には、大勢の人が集まっていた。
「アデライン様!」
「お待ちしておりました!」
村長のオーウェン様がこちらへ歩いてくる。
その後ろには石工頭のバロウ様。
人夫たち。
村人たち。
それから、あの少年もいた。
「完成しました」
バロウ様が言った。
顔は疲れていた。
でも、少し誇らしそうだった。
「午前中に最後の固定を終えました。荷重確認も済ませています」
「記録は?」
アデライン様が聞く。
「こちらに」
バロウ様が書類を差し出した。
完成した橋を見るより先に書類を見る。
少しくらい橋を見てもいいのでは、と思った。
でも私も受け取ってしまった。
似てきたのかもしれない。
少し嫌だ。
工事日報。
使用木材。
釘の本数。
人夫の人数。
追加支出。
作業時間。
荷重確認の結果。
全部ある。
「問題ありません」
私が言った。
「そう」
アデライン様はようやく橋を見た。
川幅はそれほど広くない。
歩けば、ほんの少しで向こう岸へ着くだろう。
それなのに。
三年かかった。
「渡れますか」
アデライン様が聞く。
「はい」
バロウ様が頷く。
「ただ、最初の通行確認がまだです」
「荷重確認は?」
「済んでいます。ですが、正式に人を渡らせるのは、アデライン様がお越しになってからと思いまして」
村人たちがこちらを見る。
私は少し期待した。
たぶん、みんな同じことを考えた。
アデライン様が最初に渡る。
そうすれば絵になる。
未来の女公爵が、自分の命令で架け直した橋を最初に渡る。
とても綺麗だ。
「では」
アデライン様が言った。
「最初に渡る人を決めましょう」
やっぱり。
「誰が向こう岸へ行く必要がありますか」
違った。
村人たちが顔を見合わせる。
「必要?」
バロウ様が聞き返す。
「橋は飾りではないでしょう」
「それは、もちろん」
「なら、最初に必要な人が使ってください」
少し間があった。
その時。
「あの」
小さな声がした。
少年だった。
「学校」
みんなが少年を見る。
「向こう岸なんです」
少年が言った。
「今日は休みだけど」
アデライン様は少し考えた。
「忘れ物でもしたの?」
「してないです」
「なら、今日は行く必要がないわね」
「はい……」
少年がしょんぼりする。
私は笑いそうになった。
そこまで実用性を求めなくてもいいと思う。
「薬草を届ける予定があります」
後ろから女性の声がした。
籠を持った年配の女性だった。
「向こう岸のエダ婆さんのところへ。いつもは下流の渡しまで回っています」
「では、お願いします」
アデライン様が言った。
「え」
女性が固まる。
「私が最初ですか」
「向こうへ行く必要があるのでしょう?」
「それは、そうですが」
女性は橋を見る。
アデライン様を見る。
また橋を見る。
「……本当に?」
「もちろん」
女性は恐る恐る橋へ足をかけた。
一歩。
木が小さく鳴る。
二歩。
三歩。
橋は揺れない。
女性は途中で一度、足を止めた。
川を見る。
それから、また歩く。
私は気づけば息を止めていた。
十歩。
二十歩。
そして。
向こう岸へ着いた。
女性が振り返る。
「渡れました!」
声が響いた。
川辺から歓声が上がった。
大きかった。
人夫たちが笑う。
村人が手を叩く。
少年が飛び跳ねている。
バロウ様は腕を組んだまま、顔だけ笑っていた。
私は帳面を開いた。
日付。
時刻。
リーヴェ村仮橋。
通行確認。
最初の通行者――。
「お名前は?」
川の向こうへ聞く。
「マーサ・ベル!」
返事が来た。
私は書いた。
マーサ・ベル。
薬草籠を携行し、徒歩にて通行。
対岸到着。
異常なし。
地味な文章だった。
でも、かなり好きだった。
◇
それから、橋を渡る人が増えた。
少年も渡った。
結局、学校へ行く必要はなかったはずなのに、三往復くらいしている。
「走らない!」
母親らしい女性に怒られていた。
老人が渡る。
荷車を引いた男性が渡る。
人夫たちが最後の確認をする。
三年間。
紙の上では終わっていた仕事が、目の前で使われている。
「アデライン様」
オーウェン村長が言った。
「今度こそ、お礼を申し上げてもよろしいでしょうか」
アデライン様は橋を見た。
「ええ」
村長は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
長い言葉ではなかった。
アデライン様も、すぐには答えなかった。
「遅くなりました」
やがて言った。
「三年です」
「アデライン様の責任では」
「ロシュフォードの責任です」
村長が顔を上げる。
「私が継ぐなら、それも継ぎます」
私はその言葉を記録しようとして、やめた。
今はいい気がした。
全部を書かなくても、忘れない。
たぶん。
「ただし」
アデライン様がモーリス様を見る。
「これは仮橋です」
「はい」
「本橋の設計は?」
モーリス様が一瞬止まった。
「現在、技師に」
「いつ出ますか」
「……十日以内には」
「七日で」
「七日ですか」
「三年待たせています」
「承知しました」
やっぱり始まった。
「それから、オルタ村の倉庫」
「再建費の再査定中です」
「灰谷村の種麦は?」
「不足分を確認しています」
「確認だけで終わらせないで」
「もちろんです」
「冬になる前に、北部全体の道路も見直します。橋だけ直して、運搬路が使えなければ意味がないでしょう」
モーリス様が手帳を開く。
私も帳面を開く。
バロウ様まで何かを書き始めた。
村長だけが少し笑っていた。
「何か?」
アデライン様が聞く。
「いえ」
村長が首を振る。
「橋が完成したばかりなのに、もう次のお話をされているので」
「問題がありますか」
「ありません」
村長は笑った。
「むしろ、安心しました」
アデライン様は少し不思議そうな顔をした。
たぶん褒められたことに気づいていない。
◇
帰る前に、私も橋を渡った。
リュカは村の厩に預けている。
だから歩いて。
木の板を踏む。
こつ。
こつ。
靴音がする。
下には川が流れている。
怖くはなかった。
真ん中で立ち止まった。
「ミラさん」
後ろから声がした。
アデライン様だった。
「どうしたの?」
「少し見ていました」
「何を?」
「橋を」
「見ればわかるでしょう」
「はい」
わかる。
それが嬉しかった。
「三年前は、これが『処理済み』だったんですよね」
「そうね」
「でも、なかった」
「ええ」
アデライン様は私の隣に立った。
川を見る。
「記録って、何なんでしょう」
自分でも、ずいぶん大きな質問をしたと思った。
アデライン様は少し考えた。
「あなたが私に聞くの?」
「たまには」
「困ったわね」
本当に少し困った顔をした。
珍しい。
「私は」
アデライン様が言った。
「記録は、現実の代わりではないと思っているわ」
私は彼女を見る。
「橋と書いても、橋は架からない。救済と書いても、人は救われない」
「はい」
「でも、誰が橋を架けるはずだったのか。誰が救済する責任を負ったのか。それを忘れないためには必要でしょう」
風が吹いた。
川面が揺れる。
「約束を、なかったことにさせないためのもの」
アデライン様は言った。
私は少し考えた。
「それ、書いていいですか」
「今?」
「忘れそうなので」
「あなたが?」
「念のためです」
アデライン様が笑った。
小さく。
「好きにしなさい」
私は橋の上で帳面を開いた。
少し書きにくい。
風で紙が動く。
でも、書いた。
記録は、約束をなかったことにさせないためのもの。
「できました」
「では、戻りましょう」
「はい」
橋を渡り切る。
向こう岸から振り返った。
木の橋。
立派ではない。
王都の大橋と比べれば、小さい。
歴史書に残るようなものでもない。
でも、村人たちは渡っている。
薬草が運ばれる。
荷車が通る。
子どもが向こう岸へ走っていく。
それで十分だった。
◇
その日の夜。
公爵家の執務室で、私は北部再建記録を開いた。
三年前の頁。
『リーヴェ村仮橋建設――処理済み』
その文字を見つける。
誰が書いたのか。
今となっては、どうでもよかった。
線を引いて消すことはしない。
間違っていた記録も、残しておく。
その下に、新しい日付を書く。
使用資材。
工事責任者。
支出額。
完成確認。
初回通行者。
全部書いた。
最後に一行。
私は少しだけ手を止めた。
窓の外は暗い。
リーヴェ村はここから見えない。
当然、橋も見えない。
でも、今日は知っている。
書類にそう書いてあるからではない。
私はあの橋を渡った。
マーサさんも渡った。
少年も渡った。
村長も、人夫も、荷車も渡った。
だから書ける。
私はペンを置いた。
リーヴェ村仮橋――完成。
三年前、この橋は紙の上で「処理済み」だった。
けれど、川には何もなかった。
今日、私は同じ仕事について、もう一度記録した。
今度は。
顔を上げれば、橋があった。




