第34話 王都から、名前のない手紙が届いた
橋が完成してから、五日が経った。
私の机には、紙が増えた。
かなり増えた。
リーヴェ村本橋建設計画。
オルタ村共同倉庫再建案。
灰谷村種麦追加支給名簿。
北部道路補修優先順位表。
それから、公爵位継承に関する書類。
橋が一本完成すると、仕事が四つ増えるらしい。
知らなかった。
「ミラさん」
「はい」
「顔が死んでいるわ」
「紙が多いので」
「嬉しいでしょう?」
「紙にも適量があります」
向かいの机で、アデライン様が書類から顔を上げた。
「初めて聞いたわ」
「私も最近知りました」
アデライン様が少し笑う。
私は次の書類を取った。
公爵位継承に関する家内評議決議書。
署名。
印章。
添付書類。
問題なし。
これで王都へ送れる。
「こちら、確認できました」
「ありがとう」
アデライン様が受け取る。
公爵位の正式な継承には、まだ王家側の確認が残っている。
ただ、家内評議でヴィクター様の後見案が否決された以上、ロシュフォード家内部で大きく争う者はいなくなった。
少なくとも。
表向きは。
「王都からの返答は、どれくらいかかりますか」
「通常なら十日ほどね」
「通常なら」
「今の王宮が通常だと思う?」
「思いません」
「私もよ」
婚約破棄。
奨学金停止。
慈善事業。
孤児院への物資。
王妃付き侍女。
記録局。
いろいろあった。
思い返すと、王都にいた頃の私はよく働いていたと思う。
できれば、しばらく近づきたくない。
私はロシュフォード領が好きになり始めていた。
静かだ。
空気もいい。
紙もある。
馬は少し怖い。
でもリュカなら、だいぶ慣れた。
ここで記録官として働く。
悪くない。
そう思っていた。
扉が叩かれた。
「失礼いたします」
モーリス様が入ってくる。
手に、一通の封筒を持っていた。
「王都より、急使です」
嫌な予感がした。
アデライン様も同じだったらしい。
「どこから?」
「それが」
モーリス様が封筒を見る。
「差出人がありません」
私は立ち上がった。
◇
封筒は、白かった。
上質ではある。
でも、王家の紋章はない。
官庁の印もない。
貴族家の封蝋もない。
宛名だけ。
ロシュフォード公爵家 アデライン・ロシュフォード嬢
筆跡に見覚えはない。
「開けますか」
モーリス様が聞いた。
「その前に記録を」
アデライン様が私を見る。
「はい」
受領時刻。
受領者。
急使の所属。
「使者は?」
「王都の民間飛脚です」
「依頼主は」
「知らされていないそうです。料金は前払い」
「受領場所は?」
「王都西区の郵便取次所」
書く。
封筒の寸法。
紙質。
封の状態。
封蝋なし。
糊付け。
「開封前記録、終わりました」
「では」
アデライン様が封を切った。
中には一枚だけ。
文字は少ない。
アデライン様が読む。
そして。
止まった。
「何と?」
モーリス様が聞く。
アデライン様は答えず、紙を私へ差し出した。
私は受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『王立記録局地下第二保管庫。
慈善局関係文書の移送が始まっています。
七日後には、残りません。
記録官殿へ。
あなたなら、何が消えるか分かるはずです。』
それだけだった。
署名はない。
私は二度読んだ。
三度目は読まなかった。
「ミラさん」
「はい」
「どう思う?」
「嫌です」
「感想ではなく」
「かなり嫌です」
アデライン様が私を見る。
「……それで?」
私は手紙を机に置いた。
「本物かどうか分かりません」
「ええ」
「罠の可能性もあります」
「ええ」
「そもそも地下第二保管庫に何があるのか、私は全部把握していません」
「そうでしょうね」
「でも」
私は最後の二行を見る。
記録官殿へ。
あなたなら、何が消えるか分かるはずです。
「私宛です」
「封筒は私宛よ」
「中身は私宛です」
「そうね」
気持ち悪い。
私がアデライン様の記録官になったことを知っている。
私が王立記録局の保管体系を多少知っていることも。
そして。
私なら、この文面を無視しにくいことも。
「地下第二保管庫」
私は記憶を探った。
王立記録局。
一階は現行文書。
二階は議事録。
地下第一は保存期限の長い行政記録。
地下第二は――。
「一時保管です」
「一時?」
「所属部署が廃止されたり、調査中だったりして、正式な移管先が決まっていない文書を置く場所です」
アデライン様の目が細くなる。
「慈善局」
「はい」
王妃の慈善事業を調べた後、関連部署の一部は機能停止になった。
指示書。
会計資料。
各施設との往復書簡。
正式な証拠として押収されたものは別に保管されている。
でも。
全部ではない。
「調査対象にならなかった文書」
私は呟いた。
「何?」
「以前の調査で、直接必要と判断されなかったものです」
例えば。
慈善晩餐会の招待者名簿。
各地方への案内。
寄付者一覧。
下級職員の業務日誌。
馬車の使用記録。
物品の注文書。
それだけ見れば、事件とは関係ない。
だから正式な証拠庫には移されない。
「消えて困る?」
アデライン様が聞いた。
「分かりません」
私は答えた。
「見ていないので」
これが、一番嫌だった。
何があるか分からない。
だから重要かどうかも分からない。
でも、なくなった後では永遠に分からない。
「移送と書いてあります」
モーリス様が言う。
「廃棄とは書いていない」
「はい」
「単なる保管場所の変更では?」
「その可能性もあります」
「なら、まず王都へ照会を」
「待って」
アデライン様が止めた。
「正式に照会した場合、誰へ届く?」
「記録局長です」
私は答えた。
そして、少し考える。
前任のビリル局長は更迭された。
現在は代理。
ただし、地下保管庫の実務を動かすのは保存管理課。
「少なくとも数人は、この手紙について知ることになります」
「もし本当に誰かが記録を消そうとしているなら?」
「こちらが気づいたことを知らせます」
「そうね」
部屋が静かになった。
モーリス様が言う。
「では、どうされます」
アデライン様は私を見た。
「ミラさん」
「はい」
「あなたはどうしたい?」
困る質問だった。
命令してほしい。
行けと言われれば行く。
無視しろと言われれば、たぶん気になるけれど従う。
「私が決めるんですか」
「あなたに来た手紙でしょう」
「封筒はアデライン様宛です」
「中身はあなた宛なのでしょう?」
さっき自分で言った。
言わなければよかった。
私は手紙を見る。
七日後。
残りません。
もし嘘なら、王都まで行って無駄足になる。
もし罠なら、もっと悪い。
もし本当なら。
七日後には、確かめることさえできない。
「確認したいです」
口から出た。
アデライン様は何も言わない。
「何があるのか」
「危険でも?」
「危険かどうかも確認したいです」
「そう」
「ただ」
私は付け加えた。
「一人では行きたくありません」
「賢明ね」
即答だった。
「モーリス」
「はい」
「王都まで最短で?」
「馬車なら二日半。騎馬を交代すれば二日弱ですが」
私は首を振った。
「馬車でお願いします」
アデライン様が私を見る。
「急ぐのでは?」
「急ぎます。でも、二日間ずっと馬に乗った後、私はまともな字を書ける自信がありません」
沈黙。
モーリス様が口元を押さえた。
アデライン様は普通に頷いた。
「重要ね」
「重要です」
「では馬車で」
決まってしまった。
「アデライン様も?」
「行くわ」
「公爵位の手続きは」
「ちょうど王都へ提出する書類があります」
机の上を見る。
さっき確認したばかりの書類。
「それに」
アデライン様は匿名の手紙を指で押さえた。
「私の記録官を名指しする人が王都にいるのよ」
声が少し冷たくなる。
「顔くらい見ておきたいわ」
たぶん、相手は顔を見せないと思う。
でも言わなかった。
◇
その日の夕方。
王都行きの準備が始まった。
必要な書類。
旅費。
護衛。
宿泊先。
私は自分の机で、持っていく帳面を選んでいた。
三冊。
いや、四冊。
念のため五冊。
「多くないですか」
声がした。
振り返る。
エドウィン・クレイ様だった。
「いつ来たんですか」
「今です」
「王都にいたのでは?」
「昨日まで」
相変わらず説明が短い。
エドウィン様は宰相府とロシュフォード家の連絡役として、王都とこちらを行き来している。
最近は会う回数が減っていた。
「ちょうどよかったです」
「何がです?」
「王都へ戻ります」
「明後日ですが」
「私たちは明朝出ます」
エドウィン様が止まった。
「何かありましたか」
私はアデライン様を見る。
アデライン様が頷いた。
手紙を見せる。
エドウィン様は読んだ。
表情は変わらない。
もう一度読む。
今度は裏も見る。
「誰からです」
「分かりません」
「記録局へは?」
「まだ照会していません」
「正解です」
早かった。
「何か知っていますか」
「慈善局関係の文書整理が行われることは知っています」
私は立ち上がった。
「本当に?」
「はい」
「いつから?」
「三日前に宰相府へ通知が来ました」
「内容は?」
「旧慈善局関連の未分類文書について、保管場所を再編する、と」
「廃棄は?」
「書かれていません」
「移送先は?」
「それも」
嫌な感じが増えた。
「その通知、見せてもらえますか」
「王都に戻れば」
「写しは?」
「持っていません」
「覚えている範囲で」
「今?」
「今です」
エドウィン様が私を見る。
それから、小さく息を吐いた。
「変わりませんね」
「何がですか」
「いえ」
彼は椅子を引いた。
「紙を」
私は一枚渡した。
エドウィン様が記憶している通知内容を書き始める。
私はその手元を見た。
以前より少しだけ疲れている。
王都も忙しいらしい。
「そういえば」
エドウィン様が書きながら言った。
「銀のペンは?」
「あります」
「使っていますか」
「大事な記録に」
「普段も使えばいいのに」
「減ります」
「インクは補充できます」
「そういう問題ではありません」
エドウィン様が私を見る。
「どういう問題です?」
答えに困った。
大事だから。
たぶん、それだけ。
「……なくしたくないので」
「使わなければ、なくさない?」
「たぶん」
「持ち歩いている時点で同じでは」
正しい。
少し腹が立つ。
「書けました」
紙を渡された。
「ありがとうございます」
受け取る。
その時。
エドウィン様が私の机を見る。
「五冊?」
「はい」
「三冊で十分です」
「何が起こるか分かりません」
「五冊全部使う事態なら、帳面より先に逃げてください」
私は少し考えた。
「四冊にします」
「そうしてください」
譲歩した。
かなり。
◇
翌朝。
門前に馬車が二台並んだ。
一台は私たち。
もう一台は護衛と荷物。
アルジャンとリュカも連れていく。
今回は乗らない。
リュカが私を見ている。
「何ですか」
鼻を鳴らされた。
「馬車の方が字が綺麗に書けるんです」
また鼻を鳴らす。
納得していないらしい。
「ミラさん」
馬車からアデライン様が呼ぶ。
「はい」
乗り込む。
扉が閉まった。
ロシュフォード公爵家の屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。
橋は架かった。
救済金は戻る。
公爵位の手続きも進む。
領地でやるべきことは、まだ山ほどある。
でも。
私たちは王都へ戻る。
私は鞄から、例の手紙を出した。
もう一度だけ読む。
『七日後には、残りません』
今日は、その二日目。
あと五日。
「アデライン様」
「何?」
「もし、本当にただの移送だったらどうします?」
「帰りましょう」
「それだけですか」
「あなたは?」
私は考えた。
「移送先と、誰が決めたかと、なぜ差出人が匿名だったのかだけ確認します」
「それだけ?」
「あと、移送対象の一覧も」
「増えたわね」
「少しだけです」
アデライン様が窓の外を見る。
「ミラさん」
「はい」
「橋の時とは違うわ」
私は顔を上げた。
「今回は、何が問題なのかさえ分かっていない」
「はい」
「誰が味方かも」
「はい」
「私たちを呼んだ人間が味方とも限らない」
「分かっています」
「ならいいわ」
馬車が領都の門を抜ける。
私は新しい帳面を開いた。
最初の頁。
まだ何も書かれていない。
少し迷ってから、日付を入れる。
その下に。
王立記録局地下第二保管庫 匿名通知に関する確認記録。
そこまで書いて、手を止めた。
事件とは書かなかった。
不正とも書かなかった。
まだ、何も分かっていないから。
ただ一つだけ分かっている。
記録が消えるという手紙が届いた。
そして私は、それを見なかったことにはできなかった。




