第31話 領民の声も、家の記録です
家内評議は、いつもの評議室では開かれなかった。
場所は、ロシュフォード公爵家の家門広間。
歴代当主の肖像画。
公爵家の紋章。
二階まで届く高い窓。
普段は大きな式典に使われる場所だ。
今日は、その中央に長机が置かれていた。
分家。
本家家臣。
会計室。
法務顧問。
北部代官所関係者。
そして、リーヴェ村から村長のオーウェン様も来ている。
私は記録官席に座った。
今度は、最初から机があった。
少し嬉しい。
ただし、机の上にはすでに書類が積まれている。
届かなかった写し。
二年前の工事停止指示。
代官所金庫の封印記録。
ヴィクター様執務室から見つかった未処理一覧作成指示。
今日、橋を止めようとした分家使者の命令書。
かなり重い机だった。
紙そのものは軽い。
中身が重い。
「始めましょう」
当主席に座ったアデライン様が言った。
黒に近い青の衣装。
背筋はまっすぐ。
靴は、昨日まで履いていた黒革のものではなかった。
けれど、歩き方は同じだった。
静かで、迷いがない。
向かいにはヴィクター様が座っている。
いつもより顔色が悪い。
それでも、笑みは崩していなかった。
「まず」
アデライン様が言った。
「叔父様から説明をお願いします」
「何についてかな」
「全部です」
広間が静かになる。
ヴィクター様の笑みが少しだけ薄くなった。
「北部再建費を未処理として提出したこと。私宛の報告書を分家管理室で止めたこと。二年前、仮橋工事を延期させたこと。そして昨日、再開した工事を再び止めようとしたこと」
アデライン様は、一つずつ言った。
「説明してください」
ヴィクター様は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「よろしい」
声には、まだ余裕があった。
「私からも、はっきり申し上げよう」
私はペンを構える。
「私は、この家を守ろうとした」
ヴィクター様は言った。
「それだけだ」
家臣たちの何人かが顔を上げる。
「アデライン。君は王太子妃になる予定だった。王家に入り、ロシュフォードを離れる人間だった」
アデライン様は何も言わない。
「その君に、洪水被害、財政難、再建費不足といった領地の問題を逐一伝える必要があったのか?」
「父は、伝えるよう指示していました」
「兄上は甘かった」
ヴィクター様は即答した。
広間の空気が少し動く。
「娘だからと何でも知らせればよいものではない。王家へ嫁ぐ者には王家へ嫁ぐ者の役目がある。領地は、残る者が守るべきだった」
残る者。
つまり、自分。
私は書いた。
ヴィクター・ロシュフォード、アデライン・ロシュフォードは王家へ嫁ぐ予定だったため、領地問題を逐一知らせる必要はなかったと主張。
「では」
アデライン様が言った。
「橋を止めた理由も、家を守るためですか」
「そうだ」
ヴィクター様は堂々と答えた。
「中途半端な工事を始め、資金が尽きればどうなる。私は再建費を一度集約し、領地全体で優先順位をつけようとした」
「誰の許可で?」
「分家筆頭としての責任で」
「権限ではなく?」
「責任には、時に判断が伴う」
上手い。
私は少しだけ思った。
昨日までのヴィクター様とは違う。
今日は、失言をしない。
家を守る。
全体を見る。
責任を取る。
どれも、聞こえはいい。
「金庫の残額については?」
アデライン様が問う。
「使わず保管した。横領ではない」
「代官所床修繕、銀器購入、分家滞在費への振り替え記録があります」
「会計上の一時移動だ」
「灰谷村の種麦は」
「支援地域の再調整だ」
「リーヴェ村の橋は」
「優先順位の見直しだ」
ヴィクター様は、すべて答えた。
全部、違う名前にした。
止めたではなく、見直した。
奪ったではなく、再調整した。
使ったではなく、一時移動した。
言葉は本当に便利だ。
「トレバー・ハルを」
法務顧問が言った。
北部代官だったトレバー様が、警備に付き添われて前へ出る。
以前より小さく見えた。
「確認します」
法務顧問が問う。
「あなたは先日、北部再建費について『ヴィクター様のご指示で』と発言しましたね」
トレバー様は俯いた。
「……言いました」
私はその返事を記録する。
「その意味を説明してください」
少し間があった。
トレバー様は顔を上げる。
「私は、誤解しておりました」
ペン先が止まりそうになる。
誤解。
来た。
「誤解?」
「ヴィクター様からは、再建費を慎重に管理するよう言われていました。それを私は、工事を止めろという意味だと思ってしまった」
広間がざわつく。
ヴィクター様は動かない。
「では」
アデライン様が言った。
「二年前の書面は?」
モーリス様が証拠を出す。
『継承問題が決着するまで待て。今着工すれば、誰の功績になるか不明確だ』
ヴィクター様自身の筆跡。
署名もある。
ヴィクター様は、その紙を見た。
「文脈が抜けている」
「どの文脈でしょう」
「北部全体の再建計画をまとめていた。リーヴェ村だけ先に進めれば、他村との公平性が失われる」
「『誰の功績になるか不明確』とは?」
「分家と本家の責任区分の話だ」
返す。
全部返してくる。
私は少しだけ嫌な汗をかいた。
証拠はある。
でも、意味をずらされる。
第一章で見た嘘とは違う。
これは、事実そのものを消す嘘ではない。
事実に別の意味を被せる嘘だ。
「未処理一覧作成指示について」
アデライン様が次の紙を出した。
『アデライン帰還後、再建費未処理一覧を提出。負債額を明示し、後見の必要性を強調すること』
「これも家を守るためですか」
「もちろんだ」
ヴィクター様は答えた。
「君は王宮騒動から戻ったばかりだった。領地運営の経験も不足している。負債を正確に見せ、後見を置く必要性を説明する。それの何が悪い」
「支給済みの金を、未処理負債として?」
「再建が完了していないなら、実質的には未処理だ」
理屈としては通る。
少しだけ。
だから厄介だ。
家臣の何人かが、互いに小さく話している。
ヴィクター様は、それを見た。
そして、静かに言った。
「皆にも考えてほしい」
視線を広間へ向ける。
「アデラインは、王宮で王太子殿下と争い、王妃殿下の周辺を調査し、今度は家へ戻るなり代官を止め、分家の執務室を調べ、私を疑っている」
言葉だけ並べると、かなり物騒だった。
「それが当主としての安定か?」
広間が静まり返る。
「強さと独断は違う。決断と暴走も違う」
ヴィクター様は言った。
「私は、若い姪を追い落としたいのではない。ただ、家を壊してほしくないだけだ」
上手い。
本当に上手い。
私は初めて、ヴィクター様を少し怖いと思った。
アデライン様は、何も言わなかった。
すぐに反論しない。
長机の向こうで、ヴィクター様を見る。
「終わりですか」
やがて言った。
「何?」
「叔父様のご説明です」
「……ああ」
「では、私から一つだけ確認します」
アデライン様は立ち上がった。
手元の書類には触れなかった。
「オーウェン村長」
村長が驚いた顔をする。
「はい」
「前へ来ていただけますか」
オーウェン様は、ゆっくりと歩いてきた。
右手の指は曲がったまま。
服も、この広間では少し質素に見える。
ヴィクター様が眉をひそめた。
「家内評議に領民を入れるのか」
「はい」
「前例がない」
「では、今日作ります」
私は顔を上げた。
アデライン様は、村長のために用意された小さな席を示した。
「座ってください」
「わ、私は立ったままで」
「長くなります」
村長は、戸惑いながら座った。
アデライン様は問う。
「三年前、洪水の後、何を求めましたか」
「橋です」
「なぜ?」
「向こう岸に畑があり、学校もあります。橋がなければ、子どもも老人も渡れません」
「仮橋は完成しましたか」
「いいえ」
「工事を待つ間、何度嘆願書を出しましたか」
「正確には……」
村長が困った顔をした。
私は手元の記録を見る。
「七通です」
私が補足した。
「本家宛五通。代官所宛二通」
村長は、深く頷いた。
「全部、返事が来ませんでした」
アデライン様がヴィクター様を見る。
「叔父様」
「何だ」
「これは、全体の優先順位の問題ですか」
「そうだ」
「三年間、七通の嘆願書に一度も答えないことが?」
ヴィクター様が黙る。
「公平性のためですか」
「現場の処理に不備が」
「先ほどトレバー代官は、あなたの指示を誤解したと言いました」
トレバー様が顔を伏せる。
「でも、村人には何も伝わっていません」
アデライン様は続けた。
「工事を止めるなら、理由を伝えるべきでした。再配分するなら、いつまで待つのか知らせるべきでした。金を動かすなら、どこへ動かしたか残すべきでした」
広間が静かになる。
「それをせず、三年待たせた」
アデライン様の声は大きくない。
けれど、よく通る。
「それを家を守ったとは、私は呼びません」
ヴィクター様の表情が初めて崩れた。
「領民の感情で、家政を決めるのか」
「違います」
アデライン様は即答した。
「領民の生活も、家政です」
私はペンを走らせた。
アデライン・ロシュフォード、「領民の生活も、家政です」と発言。
残したい言葉だった。
「それに」
アデライン様が私を見る。
「ミラさん」
「はい」
「村から届いた嘆願書を」
私は写しを出した。
七通。
受付印。
処理済印。
確認者名なし。
アデライン様が一通を持ち上げる。
「これは感情ではありません」
「文書です」
私は答えた。
「公爵家が受領した正式な嘆願です」
アデライン様は頷いた。
「領民の声も、家の記録です」
広間の誰かが息を呑んだ。
ヴィクター様は何も言わない。
「今後」
アデライン様は家臣たちを見た。
「家内評議には、重大な領地案件について、対象地域の嘆願書と現地報告を必ず添付します」
モーリス様が頭を下げる。
「承知しました」
「当主や分家が何を考えたかだけでは足りません。決定された側に何が起きたかも残します」
私は記録した。
新しい決まり。
また一つ、紙の流れが変わる。
ヴィクター様が低い声で言った。
「綺麗事だ」
アデライン様は彼を見る。
「そうかもしれません」
否定しなかった。
「でも、叔父様の現実的な判断で、橋は三年間ありませんでした」
その一言で、ヴィクター様は黙った。
強い。
大声ではない。
侮辱もしない。
結果だけを置いた。
「本日は、ここまで」
アデライン様が言った。
「明日、北部再建費に関する最終決議を行います」
「最終?」
ヴィクター様の眉が動く。
「はい」
アデライン様は答えた。
「叔父様の後見提案、分家の家政関与、北部再建費の不足分補填、すべて決めます」
「一日で?」
「三年待ちました」
アデライン様の声は冷たかった。
「十分です」
私は最後の行を書いた。
北部再建費に関する最終決議、翌日実施。
広間の外へ出る人々の声は低かった。
誰も大声では話さない。
でも、来た時とは空気が違う。
家臣たちはヴィクター様だけを見ていなかった。
アデライン様も見ている。
村長も見ている。
机の上の七通の嘆願書も見ている。
それでいいのだと思う。
誰か一人の言葉だけで決めない。
全部並べる。
そのための記録だ。
「ミラさん」
アデライン様が、広間を出る前に私を呼んだ。
「はい」
「明日の記録、長くなります」
「覚悟しています」
「五部では足りないかもしれないわ」
私は少し考えた。
「七部にしますか」
「ええ」
アデライン様は、ほんの少しだけ笑った。
「七部にしましょう」
私は帳面を閉じた。
明日、決まる。
叔父様が本当に家を守ろうとしたのか。
それとも、家を守るという言葉で、家を握ろうとしたのか。
証拠は、もう十分にある。
足りないのは、最後にそれをどう呼ぶかだけだった。




