第30話 橋の前で、女公爵様は署名した
リーヴェ村へ戻る頃には、空が赤くなり始めていた。
川辺には、人が集まっている。
村人。
人夫。
代官所から来た役人。
分家の紋章をつけた使者たち。
橋材を積んだ荷車は、道の途中で止められていた。
木材はある。
釘もある。
人夫もいる。
それなのに、橋はまだない。
紙一枚で止められていた。
「アデライン様です!」
誰かが声を上げた。
村人たちが道を開ける。
アデライン様はアルジャンから降りた。
黒革の靴が土を踏む。
朝より泥が増えていた。
けれど、彼女は一度も足元を見なかった。
私はリュカから降りた。
今度は、きちんと両足で立てた。
少しだけ嬉しい。
ただ、喜んでいる場合ではなかった。
川辺の中央に、分家の使者が立っていた。
濃い緑の上着。
胸元に、ヴィクター様の家紋。
手には、一枚の命令書。
「アデライン様」
使者は深く礼をした。
「お越しになるとは存じませんでした」
「止めた橋を見に来ました」
アデライン様が答える。
使者の口元が少し引きつった。
「工事を止めたのではございません。正式な権限が確認されるまで、着工を保留しただけです」
保留。
便利な言葉だ。
止めた、と書くより柔らかい。
けれど、橋が架からないことには変わりない。
私は帳面を開いた。
リーヴェ村仮橋工事現場。
橋材、人夫、釘、運搬馬車、現地到着済み。
分家使者、ヴィクター・ロシュフォードの命令として工事保留を要求。
「命令書を」
アデライン様が手を出した。
使者が紙を差し出す。
私は横から内容を確認した。
『ロシュフォード公爵位継承が正式に完了するまで、当主権限を要する新規支出および工事命令を停止する』
署名、ヴィクター・ロシュフォード。
分家の封蝋。
日付は今日。
「叔父様は、いつから公爵家の支出停止を命じられる立場になったのですか」
アデライン様が問う。
「ヴィクター様は、分家筆頭として家の混乱を避ける責任がございます」
「責任と権限は別です」
「ですが、アデライン様もまだ正式な公爵では」
「ええ」
アデライン様は、あっさり認めた。
村人たちの間に、小さなざわめきが走る。
使者の表情が少し明るくなった。
勝ったと思ったのかもしれない。
「ですから、本家会計室の承認を受けています」
アデライン様が続けた。
使者の顔が止まった。
「モーリス」
「こちらに」
モーリス様が一枚の書類を出す。
北部救済金緊急支出承認書。
本家会計室の確認印。
法務顧問の署名。
家内評議決議番号。
そして、国王陛下より与えられた共同監査権の写し。
「北部救済金は、新規支出ではありません」
アデライン様は言った。
「三年前に承認され、支給済みと記録された金です。今回行うのは、新しい工事ではなく、履行されなかった救済の実行です」
私は記録した。
アデライン・ロシュフォード、リーヴェ村仮橋工事は新規支出ではなく、既承認救済の履行であると説明。
使者は命令書を握り直した。
「しかし、分家側では異議が」
「異議を出す権利はあります」
アデライン様は頷く。
「その異議を、橋が架かるまで村人に待たせる権利はありません」
村長のオーウェン様が、少し顔を上げた。
少年もいる。
橋が本当にできるのか、と私に聞いた少年。
泥のついた靴で、木材のそばに立っている。
「工事責任者は」
アデライン様が問う。
人夫たちの中から、太い腕の男性が前へ出た。
「石工頭のバロウです」
「必要な資材はそろっていますか」
「仮橋を架ける分は。ですが、先ほど命令書を取り上げられ、動けば処罰すると」
「誰が処罰するのですか」
アデライン様が使者を見る。
「ヴィクター様には、分家に属する者への監督権が」
「バロウは本家会計室が雇用した職人です」
モーリス様が言った。
「分家の管理下にはございません」
使者の額に汗が浮かんだ。
「現場が混乱することを避けるために」
「混乱させたのは誰ですか」
アデライン様の声が少し低くなった。
使者は答えなかった。
私は書いた。
分家使者、工事停止に伴う処罰権限の根拠について説明せず。
「命令書を返してください」
工事責任者のバロウが言った。
使者は紙を持ったまま動かない。
「これは証拠として預かる」
「預かる権限は?」
私が聞いた。
使者がこちらを見る。
「私は分家筆頭の正式な使者だ」
「それは役職です」
私は答えた。
「工事命令書を回収できる根拠ではありません」
「下級貴族の娘が、私に口を挟むのか」
村人たちの視線が、私に集まった。
少し困る。
私は人に見られるより、紙を見る方が得意だ。
「記録官として確認しています」
「記録官」
使者は鼻で笑った。
「紙に書けば、権限が生まれるとでも?」
私は少し考えた。
生まれることもある。
生まれないこともある。
「権限のない命令を書いても、権限は生まれません」
私は言った。
「ですが、権限がないのに止めた事実は残ります」
使者の笑みが消えた。
アデライン様が手を差し出す。
「工事命令書を」
使者は動かなかった。
「渡さないなら、正式に接収妨害として記録します」
私はペンを構えた。
使者は、ようやく工事命令書を返した。
バロウが両手で受け取る。
紙の端が、少し折れていた。
命令書は弱い。
人に握られると、すぐ傷む。
「これで工事を再開できますか」
アデライン様が問う。
バロウは一度、命令書を見た。
「できます」
「いつから?」
「今からでも。ただ、日が暮れます。基礎の確認と資材配置までになります」
「では、そこまで進めて」
「はい」
人夫たちが動き始めた。
止まっていた荷車が進む。
木材が降ろされる。
釘の袋が運ばれる。
まだ橋ではない。
でも、橋になるための音がした。
木が土に置かれる音。
縄が引かれる音。
人が指示を飛ばす声。
紙の音とは違う。
私は、その音も記録できればいいと思った。
「待ってください」
分家の使者が声を上げた。
「正式な公爵でもない方が、独断で家の財産を動かせば、後に責任を問われます」
「問えばいいでしょう」
アデライン様は言った。
あまりにも迷いがなくて、使者だけでなく村人まで静かになった。
「私は記録を残します。使った金額も、資材も、人夫も、完成した橋も」
アデライン様は川を見た。
「正しく使った救済金の責任なら、私が負います」
その横顔は、静かだった。
美しい。
でも、花のようではない。
磨かれた刃に近い。
「叔父様にもお伝えください」
アデライン様が使者を見る。
「橋を止めた責任を問うなら、まず自分が二年間止めた理由を説明するように、と」
使者の顔色が変わった。
分家執務室で見つかった指示書のことを、まだ知らなかったのかもしれない。
私は書いた。
アデライン・ロシュフォード、救済金適正支出に関する責任を自ら負うと発言。
その下に、
ヴィクター・ロシュフォードに対し、二年前に仮橋工事を停止した理由の説明を要求。
分家の使者は何も言わず、命令書を折りたたんだ。
帰ろうとする。
「お名前を」
私が呼び止めた。
使者が振り返る。
「何?」
「本日の使者としての氏名を、まだ伺っていません」
「必要ない」
「必要です」
私は言った。
「命令書を提示し、工事を止め、原本を回収しようとした方の氏名です」
使者の顔が歪んだ。
「ガルド・メイアだ」
メイア。
地下書庫で証言したローデン様と同じ姓。
「ローデン・メイア様とのご関係は」
「父だ」
私は記録した。
分家使者、ガルド・メイア。ローデン・メイアの子。
ガルド様は、今度こそ帰っていった。
父は分家の命令で写しを止めた。
息子は分家の命令で橋を止めた。
同じ家が、同じ場所で、別の紙を止めている。
忠誠と言えば綺麗だ。
でも、綺麗な言葉で橋は架からない。
「ミラさん」
アデライン様が呼んだ。
「はい」
「追加の命令書を作ります」
「何の命令書でしょう」
「工事停止命令に対する無効確認。それから、仮橋工事に関する現場責任者への権限委任」
私は少しだけ驚いた。
「バロウ様に?」
「ええ」
アデライン様は石工頭を見る。
「私が屋敷へ戻るたびに、別の使者が来て止めるかもしれません」
たしかに。
橋を止めるために、毎回アデライン様が来なければならないのは困る。
「現場で必要な判断を、現場の責任者に任せます。ただし、支出と進行は毎日記録して本家へ送ること」
バロウが目を見開いた。
「私に、そこまで任せていただけるのですか」
「あなたは橋を架けられるのでしょう?」
「はい」
「私は架けられません」
アデライン様は、あっさり言った。
村人たちが少し驚いた顔をする。
「だから、架けられる人に任せます。私の仕事は、必要な金と権限を渡し、その使い道を記録させることです」
万能ではないと認める。
でも、何を任せるかは決める。
それが、当主の仕事なのかもしれない。
「ミラさん」
「書きます」
私は近くの木箱を机代わりにした。
白紙を広げる。
リーヴェ村仮橋工事権限委任書。
工事責任者、バロウ・ケイン。
対象、仮橋の基礎、木材配置、組立、通行確認。
権限、現場判断、必要人員配置、資材使用。
義務、日次進行記録、資材数確認、追加支出時の報告。
最後に日付。
アデライン様が署名する。
川の前で。
村人たちの前で。
橋のない場所で。
アデライン・ロシュフォード。
迷いのない字だった。
「これで」
アデライン様がバロウへ紙を渡す。
「私が不在でも、止める権限のない者に止められないようにします」
バロウは命令書を両手で受け取った。
「必ず架けます」
「お願いします」
アデライン様は頭を下げた。
ほんの少し。
でも、誰かに媚びる角度ではなかった。
仕事を託す人への礼だった。
村長のオーウェン様が前へ出た。
「今度こそ、お礼を」
「まだです」
アデライン様は言った。
「橋は、まだ架かっていません」
「ですが」
「渡れるようになった時に、受け取ります」
村長は、ゆっくり頷いた。
「では、その時まで取っておきます」
「ええ」
日が沈み始める。
川面が赤く光った。
人夫たちは資材を並べ、古い杭を調べている。
少年も少し離れたところから見ていた。
私と目が合う。
「今日は橋、できますか」
少年が聞いた。
「今日はまだです」
私は答えた。
「でも、今日は橋を止める紙が効かなくなりました」
少年はよくわからない顔をした。
当然だと思う。
私も少し変な説明だと思う。
「明日は?」
「今日より、橋に近いです」
少年は、それならわかるという顔で頷いた。
私は帳面に最後の一行を書く。
リーヴェ村仮橋工事、再開。
橋は、まだない。
けれど、木材は川辺にあり、人夫は動き、責任者の手には正式な命令書がある。
紙の上だけだった橋が、少しずつ川へ降りてきている。
アデライン様は、工事が再開したのを見届けてからアルジャンの方へ歩いた。
黒革の靴には、泥と木屑がついていた。
もう、舞踏会には履いていけないかもしれない。
でも、今のアデライン様には、その方が似合っていた。
「戻りましょう」
「はい」
「叔父様に、橋を止めた日付について伺います」
私は帳面を閉じる。
二年前の工事停止命令。
今日の工事停止命令。
そして、橋の前で署名された再開命令。
三枚の紙が、同じ川の前に並んだ。
どの紙が人を動かすのか。
もうすぐ、家内評議で決めることになる。
私はリュカの鞍に手をかけた。
明日、橋がどこまで架かるかはわからない。
でも、アデライン様がどこまで進むかは、少しわかってきた。
この人は、止められた場所まで自分で来る。
そして、止めた者の名前を残してから、もう一度動かす。
それが、女公爵になる人の仕事なのだと思った。




