第29話 叔父様の机には、橋を止めた日付がありました
ヴィクター様の執務室は、分家屋敷の二階にあった。
本家より小さい屋敷だが、廊下には高価そうな絵が並び、窓枠には金色の装飾が施されている。
北部の橋より、こちらの額縁の方がよく直されている気がした。
比べるものではない。
でも、比べたくなる。
「お待ちください」
執務室の前に立ったヴィクター様付きの家令が、両手を広げた。
「こちらはヴィクター様の私的な執務室です。ご本人の許可なくお入りいただくことはできません」
「北部再建費の書類が運び込まれたと証言がありました」
アデライン様が言った。
「それは公爵家の書類です。叔父様の私物ではありません」
「しかし」
「拒否なさいますか」
家令は口を閉じた。
私が帳面を開く。
その動きを見て、家令の視線が私の手元へ落ちた。
「記録官」
アデライン様が言った。
「今のところまで」
「記録しています」
ヴィクター・ロシュフォード付き家令、公爵家書類の確認について執務室への立ち入りを拒もうとする。
そこまで書くと、家令の額に汗が浮かんだ。
「拒否ではございません。ただ、確認のために少々お時間を」
「何を確認するのですか」
「ヴィクター様へ」
「叔父様は本家での事情聴取に備えて待機中です」
アデライン様の声は静かだった。
「この屋敷へ戻る予定はありません」
家令は、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと扉の前を退いた。
「鍵を」
「……はい」
鍵が回る。
扉が開いた。
部屋の中は、分家から提出された書類と同じくらい整っていた。
大きな机。
革張りの椅子。
壁一面の書棚。
銀の燭台。
磨かれた床。
机の上には紙一枚ない。
何もない机は、仕事をしていない机か、何かを隠した机である。
たぶん後者だ。
「分家から提出された箱は、ここで整えられたのですね」
モーリス様が言った。
机の横には、同じ大きさの木箱が二つ置かれていた。
空だった。
底には、新しい紙紐の切れ端が残っている。
「鍵のかかる場所は?」
アデライン様が問う。
家令が答えない。
私は室内を見る。
机の引き出し。
壁際の書類棚。
小さな金庫。
どれも鍵がついている。
「すべてですか」
私が聞くと、家令は苦い顔をした。
「ご主人様の重要書類ですので」
「それは便利ですね」
「何がでしょう」
「重要なものが、どこにあるかわかります」
家令は返事をしなかった。
最初に机の引き出しを開けた。
一段目。
封蝋。
便箋。
名刺。
王宮や他家からの招待状。
二段目。
領地地図。
分家の支出台帳。
北部三村に赤い印がつけられた古い地図。
三段目は、鍵が違った。
家令が持っていた鍵束では開かない。
「鍵は?」
アデライン様が問う。
「ヴィクター様がお持ちです」
「予備は」
「ございません」
モーリス様が鍵穴を見る。
「この型なら、分家管理室に共通鍵があるはずです」
家令の顔がこわばった。
アデライン様は何も言わず、家令を見た。
「……確認してまいります」
家令は部屋を出た。
しばらくして戻った手には、小さな黒い鍵があった。
予備はないと言った直後である。
私は記録した。
ヴィクター付き家令、予備鍵は存在しないと説明した後、分家管理室より共通鍵を持参。
引き出しが開く。
中には、封筒の束が入っていた。
宛先のない封筒。
日付だけが書かれた封筒。
そして、一番下に、古い革紐でまとめられた書類があった。
表題はない。
最初の一枚を開く。
『北部再建費支出報告 写し』
アデライン様へ届くはずだった書類だった。
右上には、家政部の送付番号。
内便簿に残っていた番号と一致している。
「ありました」
私は言った。
アデライン様は、すぐには手を伸ばさなかった。
その紙を見つめている。
三年前、彼女へ届くはずだった紙。
橋が直っていないこと。
倉庫が建っていないこと。
種麦が足りないこと。
それを知らせるはずだった紙。
「叔父様は、保管してくださっていたのね」
アデライン様が言った。
声は穏やかだった。
だからこそ、家令はさらに青ざめた。
「忘れていただけかもしれません」
「三年間?」
「大量の書類がございますので」
「では、忘れた理由も記録しましょう」
私はペンを動かした。
ヴィクター・ロシュフォード執務机施錠引き出し内より、アデライン・ロシュフォード宛て北部再建費支出報告写しを発見。
書類束には、ほかにも北部関連の報告があった。
橋材不足。
人夫未手配。
オルタ村倉庫未着工。
灰谷村種麦未配布。
どれもアデライン様宛。
どれも届いていない。
さらに、別の封筒があった。
差出人はトレバー代官。
『工事開始について、村側より再三の要求あり。現在の予算で仮橋のみ着工可能。許可を求む』
その下に、ヴィクター様の筆跡で短い返答が書かれていた。
『継承問題が決着するまで待て。今着工すれば、誰の功績になるか不明確だ』
私は、一度読んだ。
もう一度読んだ。
誰の功績になるか。
橋を待つ人ではなく、橋を作った名誉を考えている。
「日付は」
アデライン様が問う。
「二年前です」
つまり、少なくとも二年前には、着工できる予算があった。
橋を作ろうとした代官所の声もあった。
それを、ヴィクター様が止めた。
理由は、誰の功績になるかわからないから。
「叔父様は」
アデライン様が静かに言った。
「橋が必要かどうかではなく、橋を誰が架けたことにするかを考えていたのね」
私は記録した。
手が少し震えそうになった。
でも、字は崩さない。
崩したくなかった。
その手紙の次には、さらに新しい指示書があった。
『アデライン帰還後、再建費未処理一覧を提出。負債額を明示し、後見の必要性を強調すること』
宛先、ダリオ・ベルン。
署名、ヴィクター・ロシュフォード。
封蝋も残っている。
筆跡だけではない。
送付控え番号もある。
分家の通信簿と照合できる。
「これで」
モーリス様が低い声で言った。
「未処理一覧が作られた目的まで確認できます」
アデライン様は指示書を見た。
「私に負債を背負わせるため」
「はい」
「そして、叔父様が後見人になるため」
「その可能性が高いかと」
アデライン様は、しばらく黙っていた。
怒りを抑えているのかもしれない。
悲しんでいるのかもしれない。
どちらでもないのかもしれない。
やがて、彼女は書類を机に戻した。
「すべて封印します」
「承知しました」
「写しは五部」
「はい」
「原本は本家金庫へ。分家側にも封印記録を一部残して」
家令が顔を上げた。
「こちらにも?」
「ええ」
アデライン様は彼を見る。
「後から、勝手に持ち出されたと言われては困ります」
私は少しだけ嬉しくなった。
記録の扱いを、アデライン様がよく理解している。
人は成長する。
たぶん、記録の枚数と一緒に。
その時、廊下を走る足音が聞こえた。
分家の使用人ではない。
本家の伝令だった。
「アデライン様!」
伝令は息を切らして部屋へ入った。
「リーヴェ村より急報です」
「何がありました」
「仮橋工事が止められました」
部屋の空気が変わる。
「誰が」
「分家の使者です。ヴィクター様の命令として、正式な公爵位継承が決まるまで、本家名義の支出は無効だと」
私は、机の上の手紙を見た。
『継承問題が決着するまで待て』
二年前と同じ言葉。
同じ理由。
また橋を止めた。
「使者は、工事責任者から資材搬出命令書を取り上げようとしております」
伝令が続ける。
「村人たちも集まり、現場が混乱しています」
アデライン様は、すぐに立ち上がった。
迷いはなかった。
「モーリス。書類の封印を続けて」
「承知しました」
「ミラさん」
「はい」
「行きます」
私は帳面を閉じる。
「リーヴェ村へ?」
「ええ」
「今からですか」
「橋を待っている人に、明日まで待てとは言えません」
アデライン様は外套を取った。
黒に近い青。
その裾が、机の角をかすめる。
「叔父様は、公爵でなければ橋を動かせないと言うでしょう」
「はい」
「なら、誰がこの家を動かしているのか、現地で示します」
声は静かだった。
けれど、さっきまでよりずっと強かった。
私たちは部屋を出た。
背後では、届かなかった書類が封印されていく。
二年前に橋を止めた命令。
今、また橋を止めようとする命令。
同じ人が、同じ理由で、同じ村を待たせている。
私は歩きながら新しい頁を開いた。
見出しを書く。
リーヴェ村仮橋工事停止。
その下に、もう一行。
ヴィクター・ロシュフォード命令と称する使者、現地確認。
アデライン様の黒革の靴音が、分家屋敷の廊下に響いていた。
低く、まっすぐな音。
今度こそ、その音は橋の前まで止まらないと思った。




