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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第二章

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第26話 叔父様、その金庫をご存じでしたか

 ロシュフォード公爵家へ戻る頃には、空は薄く暮れ始めていた。


 馬車ではなく、まず木材を積んだ荷車が村へ向かった。


 その後ろに、釘と道具を積んだ小さな荷車。


 さらに、人夫たち。


 まだ橋ではない。


 けれど、紙の上だけにあった橋よりは、ずっと橋に近い。


 私はその出発記録を三枚書いた。


 一枚は代官所へ。

 一枚はリーヴェ村へ。

 一枚はロシュフォード家へ。


 そして、私の控えが一枚。


 四枚書いたところで、アデライン様に言われた。


「五部ではなかったの?」


「……忘れていました」


「珍しいわね」


「橋のことで、少し頭がいっぱいでした」


 アデライン様は責めなかった。


 ただ、小さく頷いた。


「それなら、悪い忘れ方ではないわ」


 そう言われると、少し困る。


 忘れたことが許されると、次に忘れないための理由が弱くなる。


 私は五枚目を書いた。


 今度は、少しだけ字が硬かった。


 屋敷に戻ると、玄関前に灯りが入っていた。


 そして、モーリス様が待っていた。


 いつも通り背筋は伸びている。


 ただ、顔が少し険しい。


「アデライン様。ヴィクター様が、すでに家内評議の招集を求めておられます」


「早いわね」


「代官所より先に、別便が入ったようです」


 別便。


 トレバー代官か、セドリック補佐か。


 あるいは、もっと前から用意していた誰かか。


 私は帳面を抱え直した。


 アデライン様は外套を脱がなかった。


 黒革の靴についた土も、そのままだった。


「では、行きましょう」


「お着替えは」


 モーリス様が尋ねる。


「必要ありません」


 アデライン様は言った。


「領地から戻った服で話すべきことです」


 評議室の扉を開けると、ヴィクター様はすでにいた。


 長机の奥ではない。


 今度は横の席に座っている。


 当主席は空いていた。


 昨日よりは学んだらしい。


「アデライン」


 ヴィクター様は立ち上がった。


「ずいぶん強引なことをしたようだね」


 私は記録官席へ向かった。


 今日は机があった。


 椅子もある。


 インク壺も砂入れもある。


 昨日よりは、かなり進歩している。


「強引なこととは?」


 アデライン様が当主席に座る。


「北部代官所の金庫を封印し、代官を職務停止にしたと聞いた」


「事実です」


「当主でもない君が、そこまでしてよいと?」


「領民への救済金が止まっていました」


「調査中だったのだろう」


「三年も?」


 ヴィクター様は一瞬黙った。


「大きな領地だ。処理には時間がかかる」


「橋が三年待てると思いますか」


「感情論だ」


「いいえ」


 アデライン様は静かに言った。


「川の話です」


 私は書いた。


 ヴィクター・ロシュフォード、北部代官所金庫封印および代官職務停止を「強引」と発言。

 アデライン・ロシュフォード、リーヴェ村仮橋未整備を理由として応答。


 ヴィクター様の視線が、私に向いた。


「また記録か」


「はい」


「その娘は、本当に必要なのか」


 アデライン様が少しだけ首を傾ける。


「昨日、必要だと証明されたばかりだと思いますが」


 ヴィクター様は唇を引き結んだ。


「代官所の件は、行き違いだ。救済金は失われていないと聞いている」


 私はペンを止めた。


 アデライン様も、そこで黙った。


 評議室の空気が細くなる。


「叔父様」


 アデライン様が言った。


「救済金が失われていないと、なぜご存じなのですか」


「報告があった」


「誰から」


「北部からだ」


「北部の誰から」


 ヴィクター様の眉が動いた。


「そこまで今答える必要はない」


「あります」


 アデライン様の声は変わらない。


「代官所の金庫に、残額と記された袋がありました。その事実は、まだ正式報告として屋敷に入っていません」


 私は書く。


 アデライン・ロシュフォード、北部代官所金庫内の残額袋について、正式報告前にヴィクター・ロシュフォードが把握していた可能性を指摘。


 書いている途中で、ヴィクター様が口を開いた。


「金庫に残額があったなら、むしろ問題は小さいだろう。盗まれていないのだから」


 書きながら、私は思った。


 まただ。


 また、言わなくていいことを言った。


 私は発言をそのまま記録した。


 ヴィクター・ロシュフォード、「金庫に残額があったなら、むしろ問題は小さい」と発言。


「叔父様」


 アデライン様は、少しだけ身を乗り出した。


「私は今、金庫の中身について詳しく申し上げましたか」


 ヴィクター様が止まった。


 評議室の誰かが、小さく息を呑む。


「代官所の金庫に、残額と記された袋があったこと。そこまでしか言っていません」


 アデライン様は続けた。


「盗まれていない、という言葉が出るのは、救済金が本来どこへ行くべきだったか、そしてどこに残されていたかを知っている人の言い方です」


「言葉の綾だ」


「便利な綾ですね」


 私は書いた。


 便利な綾。


 これは発言ではなく、感想に近い。


 でも、アデライン様の発言なので記録する。


 モーリス様が一歩前に出た。


「アデライン様。代官所から押収した来客記録の写しが届いております」


 早い。


 モーリス様は、本当に仕事が早い。


 私は少し尊敬している。


 見習いたい。


 ただ、見習うと仕事が増えそうなので、少し怖い。


 モーリス様が一枚の紙を机に置いた。


 来客記録。


 北部代官所。

 半月前。

 訪問者、ヴィクター・ロシュフォード。

 同席者、トレバー・ハル、セドリック・ベルン。

 用件、北部再建費処理確認。


 署名欄には、ヴィクター様の名。


 ただし、妙だった。


 署名の最後の線が、少し短い。


 昨日の評議出席簿の署名と比べると、ロシュフォードのドの跳ねが違う。


「これは私の署名ではない」


 ヴィクター様は即座に言った。


 私は顔を上げた。


 早い。


 本当に早い。


「まだ、署名については何も申し上げておりません」


 私が言うと、ヴィクター様の目が細くなった。


「見ればわかる」


「はい」


 私は頷いた。


「私も、少し違うと思いました」


 評議室が静かになる。


 ヴィクター様が少しだけ息を吐いた。


 勝ったと思ったのかもしれない。


 でも、違う。


 私は来客記録の端を指した。


「ただし、署名が偽造だとしても、問題は残ります」


「何がだ」


「この来客記録の受付印です」


 私は紙を持ち上げた。


「北部代官所の受付印が押されています。先ほど代官所で見たものと同じです。そして、受付担当者の小印もあります」


 モーリス様が頷いた。


「担当者はすでに確認中です」


「さらに」


 私は続けた。


「同じ日の代官所馬丁記録に、分家の馬車二台、黒塗り、銀縁の紋章入り、とあります」


 ヴィクター様の顔から、少しずつ色が引いた。


「分家の馬車など、他にも」


「あります」


 私は言った。


「ですが、銀縁の紋章入りは、ヴィクター様の家が来賓用に使うものだと、モーリス様から聞いています」


 モーリス様が静かに頭を下げた。


「その通りです」


 アデライン様は、来客記録を見た。


「署名が偽造だと言うなら、それも調べます」


 彼女の声は低い。


「ただし、叔父様の馬車が北部代官所へ行き、代官と再建費について会い、その直後に救済金が未処理の負債として評議へ出された。この流れは、記録として残ります」


 私は書いた。


 手が少し疲れてきた。


 でも、止めない。


 止めたら、今の流れが逃げる。


「これは陰謀だ」


 ヴィクター様が言った。


「王宮での騒ぎに続いて、今度は家の中でまで私を貶めるつもりか」


「叔父様」


 アデライン様は、静かに彼を見た。


「私はまだ、あなたを断じていません」


 ヴィクター様が黙る。


「ですが、領民の橋がないことは確認しました。金庫に残額があることも確認しました。代官があなたの名を口にしたことも、来客記録にあなたの名があることも、確認しました」


 アデライン様は、机に手を置いた。


「だから、調べます」


「公爵でもない君が」


「公爵になる者としてです」


 その声は、評議室の端まで届いた。


 誰も動かなかった。


 歴代当主の肖像画も、黙っていた。


 肖像画は発言しない。


 でも、今は少し、見ている気がした。


「本日をもって、ヴィクター・ロシュフォードの家内評議における一時後見提案を保留します」


 アデライン様が言った。


「同時に、北部再建費に関する分家側書類、馬車記録、通信記録を提出してください」


「拒否したら?」


「拒否した事実を記録します」


 私はすぐに書いた。


 アデライン・ロシュフォード、ヴィクター・ロシュフォードに北部再建費関連書類、馬車記録、通信記録の提出を求める。

 ヴィクター・ロシュフォード、「拒否したら?」と発言。


 ヴィクター様は、初めて私を見なかった。


 アデライン様だけを見ていた。


「君は変わったな」


「そうでしょうか」


「王宮にいた頃は、もっと利口だった」


「ええ」


 アデライン様は頷いた。


「利口に待っている間に、橋が消えましたので」


 その一言で、評議室の空気が決まった。


 私は書いた。


 アデライン・ロシュフォード、「利口に待っている間に、橋が消えましたので」と発言。


 これは、残しておきたい言葉だった。


 会議が終わると、ヴィクター様は無言で出ていった。


 誰も追わなかった。


 追う必要はない。


 提出すべき紙がある。


 出さなければ、それも記録になる。


 アデライン様は、椅子に座ったまま目を閉じた。


 ほんの少しだけ。


 疲れているのだと思った。


 当然だ。


 村を見て、代官所を見て、屋敷に戻って、叔父と向き合った。


 それでも、彼女の靴にはまだ土がついている。


 土のついたまま、当主席に座っていた。


 それが少し、よかった。


「ミラさん」


「はい」


「議事録は」


「清書します。写しは」


「五部」


「承知しました」


 私は立ち上がろうとして、少しだけ手元を見た。


 今日の記録は重い。


 橋のない村。

 残額のある金庫。

 名前の出た分家。

 土のついた靴。


 全部、同じ紙の上に並ぶ。


 それがいいことなのかは、まだわからない。


 でも、並べなければ見えないものがある。


 私は帳面を閉じた。


 次に書く見出しは、もう決まっている。


 分家提出書類。


 橋にならなかった金貨は、まだ黙っていない。

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