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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第二章

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第25話 代官所の金庫は、空ではありませんでした

 北部代官所は、リーヴェ村から少し離れた丘の上にあった。


 白い石壁。

 赤い屋根。

 整えられた庭木。


 橋のない村から来ると、やけに綺麗に見えた。


 綺麗な建物が悪いわけではない。


 けれど、村には橋がない。


 その事実と並べると、代官所の磨かれた玄関石まで少し腹立たしく見えた。


 私はリュカから降り、鞄の中の帳面を確かめた。


 落ちていない。

 破れていない。

 インクも無事。


 今日の私は、まだ大きな失敗をしていない。


 今のところは。


「アデライン様」


 玄関前に並んでいた役人の中央から、腹の出た中年の男が進み出た。


「北部代官、トレバー・ハルにございます。このような場所まで直々にお越しいただき、恐れ入ります」


 声は滑らかだった。


 上着も上質だった。


 しかし額には、もう汗が浮かんでいた。


 アデライン様は黒革の手袋を外しながら言った。


「リーヴェ村の橋を見てきました」


 トレバー代官の笑みが、少しだけ止まった。


「それは……春の増水で再び傷んだのでしょう」


「橋はありませんでした」


 短い言葉だった。


 代官所の前にいた役人たちが、互いに目を合わせる。


 私は帳面を開いた。


 北部代官所。

 代官、トレバー・ハル。

 確認事項、リーヴェ村仮橋修繕費および北部救済金の支出先。


「まず帳簿を見せて」


 アデライン様が言った。


「すぐにご覧いただけるよう、整えさせます」


「整える前のものを見ます」


 トレバー代官は、また笑った。


 さっきより少し薄い笑みだった。


「……かしこまりました」


 案内された執務室には、帳簿棚があった。


 背表紙は綺麗にそろっている。


 そろいすぎている。


 使われている帳簿には、もっと癖が出る。


 角が潰れる。

 背が浮く。

 指の跡が残る。


 ここにある帳簿は、誰かに見られるために並んでいる顔をしていた。


「リーヴェ村仮橋の支出記録を」


 アデライン様が言うと、代官補佐のセドリック・ベルンが一冊の台帳を出した。


 支出済。

 確認済。

 完了済。


 済、という字が多い。


 紙の上だけなら、この北部はとてもよく救われている。


「木材、人夫、釘、運搬費、すべて支出済みです」


 トレバー代官は台帳を指した。


「完成確認書もございます」


「村長の署名は本人のものではありません」


 私が言うと、トレバー代官がこちらを見た。


「記録官殿は、筆跡鑑定もなさるのですか」


「いいえ」


 私は答えた。


「村長は五年前から拇印を使っています。完了確認書には筆記署名があり、代筆者名がありません。さらに名前の綴りも違います」


「小さな誤記でしょう」


「人の名前です」


 私は言った。


「小さくありません」


 部屋が静かになった。


 アデライン様は、淡々と続けた。


「完成確認書の作成者を」


「古い書類ですので、すぐには」


「三年前は古すぎるの?」


「確認いたします」


 私は棚を見た。


 一冊だけ、背表紙の革が少し浮いている帳簿があった。


 村税台帳、と書かれている。


 だが、他の帳簿より手前に出ている。


 慌てて戻したものは、棚の中で少しだけ落ち着かない。


「アデライン様」


「何かしら」


「あの帳簿を見てもよろしいでしょうか」


 トレバー代官がすぐに言った。


「それは村税台帳です。橋とは関係ありません」


 関係ない。


 その言葉は、たいてい関係がある。


「確認します」


 アデライン様が言った。


 モーリス様が帳簿を取る。


 トレバー代官は止めなかった。


 止められなかったのだと思う。


 台帳を開くと、最初の数ページはたしかに村税の記録だった。


 だが途中に、細い紙片が挟まっていた。


 貼り込まれてはいない。


 隠すというより、急いで差し込んだ感じだった。


 私はそれを広げた。


『橋材分 上納済』

『倉庫修繕名目へ移動』

『銀器分 別帳』

『V様確認』


 文字は短い。


 けれど、短いほど困ることもある。


 余計な言い訳がないからだ。


「V様」


 アデライン様が静かに言った。


 トレバー代官の汗が増えた。


「誰のことでしょう」


「さあ。私にも」


「では、なぜ汗を?」


 私は少しだけ視線を下げた。


 笑ってはいけない。


 今は笑う場面ではない。


 紙片の裏には、数字が並んでいた。


 木材費。

 人夫費。

 釘代。

 運搬費。


 その横に、別の名目。


 代官所床修繕。

 来賓用銀器。

 分家滞在費。

 礼金。


 橋の金は、床と銀器と誰かの滞在費になっていた。


 だから床が綺麗なのか。


 腹が立つ理由が、少し正確になった。


「金庫を開けて」


 アデライン様が言った。


「金庫でございますか」


「ええ」


「通常の現金と書類しか」


「開けて」


 短い命令だった。


 トレバー代官は鍵束を取り出した。


 手が震えている。


 金庫は執務机の奥にあった。


 古い鉄製の箱。


 鍵穴が二つ。


 一つ目をトレバー代官が開け、二つ目をセドリック補佐が開けた。


 中には、布袋が三つ入っていた。


 封蝋には、ロシュフォード公爵家の紋。


 ただし、紐は結び直されている。


 袋の表には、それぞれ文字が書かれていた。


『リーヴェ村仮橋 残額』

『オルタ村冬倉庫 残額』

『灰谷村種麦 残額』


 残額。


 嘘の中では、かなり正直な言葉だ。


「空ではないのね」


 アデライン様が言った。


 トレバー代官は青ざめていた。


「これは再支給のために保管していたもので」


「再支給する予定なら、なぜ村には橋がないの」


「手配が」


「なぜ嘆願書は処理済みになっていたの」


「確認の行き違いが」


「なぜ金庫に残額があるのに、評議では未処理の負債として出されたの」


 トレバー代官は答えなかった。


 私は書いた。


 北部代官所金庫内より、リーヴェ村仮橋、オルタ村冬倉庫、灰谷村種麦の残額と記された布袋を確認。


 金貨は残っていた。


 でも、橋にはなっていなかった。


 倉庫にも、種麦にもなっていなかった。


 残っていたから安心、ではない。


 届くべきものが届いていない。


 それだけで十分だった。


「モーリス」


 アデライン様が言った。


「金庫の封印を」


「承知しました」


「トレバー・ハル、セドリック・ベルン両名の職務を停止。帳簿、金庫、通信記録、来客記録をすべて押さえて」


「はい」


 トレバー代官が慌てて一歩出た。


「お待ちください、アデライン様。これはヴィクター様のご指示で」


 言ってから、彼は止まった。


 止まるのが遅い。


 私は書いた。


 トレバー・ハル、「これはヴィクター様のご指示で」と発言。


 部屋が静まり返った。


 アデライン様は、ゆっくりと彼を見る。


「続けて」


「いえ、今のは」


「続けて」


 トレバー代官の喉が動いた。


「……北部の再建費は、一度すべて代官所で管理し、必要に応じて再配分するようにと」


「誰が」


「ヴィクター様が」


「書面は」


「口頭で」


「では、口頭の命令で領民の橋を止めたの」


 トレバー代官は答えなかった。


 アデライン様の顔には、怒りがなかった。


 だから、余計に怖かった。


「記録官」


「はい」


「今の発言を写し五部に」


「承知しました」


「それから、リーヴェ村への即日資材搬出命令を作成して」


「はい」


「私が署名します」


 私は代官所の机を借り、命令書を書いた。


 木材。

 釘。

 人夫。

 運搬馬車。

 仮橋修繕の開始日。


 代官所の役人たちが、何人か近づいてくる。


 一人が小さく言った。


「……本当に、今日出すのですか」


 私はペンを止めずに答えた。


「今日の日付で書いています」


「いえ、そうではなく」


 彼は言葉を探した。


「今までは、確認してから、上へ通して、それから」


「橋がないそうです」


 私は言った。


「なので、まず橋を作ります」


 役人は黙った。


 アデライン様が命令書に署名する。


 その字は、迷わなかった。


 命令書が一枚。

 写しが三枚。

 封印記録が二枚。


 代官所の一室で、紙が次々と生まれていく。


 今度の紙は、嘘を隠すためではない。


 橋を作るための紙だ。


 こういう紙なら、悪くない。


 代官所を出る頃には、空が少し傾いていた。


 庭では、木材を積むための馬車が用意され始めている。


 リーヴェ村へ向かう木材。


 釘。


 人夫。


 まだ橋ではない。


 けれど、紙の上だけの橋よりは、ずっと橋に近い。


 アデライン様は玄関石の上に立っていた。


 黒革の靴に、土がついている。


 それを気にする様子はなかった。


「ミラさん」


「はい」


「疲れた?」


「少し」


「戻ったら清書ね」


「かなり疲れました」


 アデライン様は小さく笑った。


 私は鞄の中の帳面を確かめた。


 金庫は空ではなかった。


 でも、村は空のままだった。


 空の橋。

 空の倉庫。

 空の畑。


 それを埋めるには、まだ紙がいる。


 ただし、今度は違う。


 嘘を積むための紙ではない。


 届かなかったものを、届かせるための紙だ。


 次に書く見出しは、もう決まっている。


 ヴィクター・ロシュフォード。


 橋にならなかった金貨の先には、分家の名があった。

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