第24話 橋のない場所に、完成印がありました
北へ向かう道は、思っていたより揺れた。
馬車ではなく馬で進む意味は、すぐにわかった。
途中から道が細くなり、車輪の跡が消えた。
雨が降ればぬかるみ、晴れれば土埃になる道だ。
私はリュカの背で、できるだけ揺れない努力をした。
努力はしている。
成功しているかは別である。
アデライン様は少し前を進んでいた。
銀灰色の馬、アルジャンは、まるで道の悪さを気にしていない。
アデライン様も同じだった。
黒革の手袋で手綱を取り、背筋を崩さず、ただ前を見る。
あの人は、馬に乗っていても椅子に座っていても、あまり形が変わらない。
私は少しだけ羨ましかった。
私の字は、今この場で書けば確実に変わる。
「大丈夫?」
アデライン様が振り返った。
「落ちてはいません」
「それは大丈夫の中でも、かなり低い基準ね」
「今はその基準でお願いします」
アデライン様は少し笑った。
笑われたが、落ちていないのでよい。
リーヴェ村が見えたのは、昼前だった。
小さな村だった。
丘の下に家が集まり、その向こうに川が流れている。
春の水量はまだ多く、川幅も広い。
遠くからでも、水音が聞こえた。
そして、橋はなかった。
私はリュカの手綱を握り直した。
ない。
本当にない。
木の杭が何本か、川岸に残っているだけだった。
向こう岸へ渡るには、細い渡し板を組んだだけの簡単な足場を使うしかない。
それも途中で切れている。
子どもなら、渡れない。
老人なら、もっと無理だ。
「……これが仮修復済みの橋ですか」
私が言うと、案内役の若い村人が苦く笑った。
「台帳には、そう書かれているそうで」
台帳には。
嫌な言い方だった。
彼自身は、信じていない顔をしていた。
村の広場には、村長と数人の村人が集まっていた。
村長は痩せた老人だった。
名前はオーウェン・ラッド。
右手の指が二本、うまく曲がらない。
古い怪我だという。
「ロシュフォードのお嬢様が、直々に来てくださるとは」
村長は深く頭を下げた。
「遅くなりました」
アデライン様は馬から降り、村長と同じ目線に立った。
土の上に黒革の靴が降りる。
飾りの少ない靴だった。
けれど、その場にいる誰よりも、まっすぐに見えた。
「橋を見せてください」
「はい」
村長が川辺へ案内する。
私はリュカから降りる時に、少しだけよろけた。
リュカは何も言わなかった。
言わないだけで、たぶん見ていた。
少し悔しい。
川辺には、流された橋の跡があった。
古い杭。
腐りかけた板。
苔のついた縄。
新しい修繕の跡は、ほとんどない。
少なくとも、金貨二千枚の顔はしていない。
「橋材は届きましたか」
アデライン様が聞く。
「少しだけ」
村長は答えた。
「最初の年に板材が十数枚。釘が二袋。あとは、代官所から『順次手配中』との返事ばかりで」
「作業人夫は」
「来ておりません」
「完成確認は」
村長は首を振った。
「橋がないものを、完成とは言えません」
正しい。
とても正しい。
私は帳面を開いた。
地面に膝をつく。
馬上で書かなくていいのは本当にありがたい。
リーヴェ村長オーウェン・ラッド、仮橋について「完成していない」と証言。
そう書いたところで、後ろから声がした。
「お待ちください」
振り返ると、身なりのよい男性が数人の従者を連れて近づいてきていた。
年は三十前後。
綺麗な上着。
汚れていない靴。
村の土を踏むには、少し綺麗すぎる格好だった。
「代官補佐のセドリック・ベルンです」
男性は礼をした。
ベルン。
評議室で職務停止になったダリオ管理官と同じ姓だ。
偶然かもしれない。
ただ、偶然はたいてい一度目だけだ。
「トレバー代官は」
アデライン様が問う。
「北部の別村へ巡察中でございます。急なご来訪でしたので、私が対応いたします」
「急な来訪に対応できるのなら、三年分の嘆願書にも対応してほしかったわ」
セドリック様の笑みが少し固まった。
「その件については、記録の行き違いがあったかと」
記録の行き違い。
便利な言葉がまた出た。
記録は自分で歩かない。
行き違う時は、だいたい誰かが動かしている。
「こちらに完了確認書がございます」
セドリック様は従者から書類を受け取り、広げた。
「リーヴェ村仮橋は、三年前の冬に仮修復を完了しております。村長の署名もあります」
村人たちがざわついた。
村長の顔色が変わる。
「わしは、そのようなものに署名しておりません」
「記憶違いでは?」
セドリック様は柔らかく言った。
「ご高齢ですし」
私はペンを止めた。
ご高齢ですし。
王宮でも似たような言葉を聞いたことがある。
人の記憶を古く扱えば、紙の嘘が新しく見える。
「拝見します」
私は手を出した。
セドリック様は一瞬ためらった。
「これは代官所の保管書類です」
「今、あなたが証拠として提示されました」
私は言った。
「提示された証拠は、確認対象です」
アデライン様が頷く。
「渡して」
セドリック様は、しぶしぶ書類を渡した。
完了確認書。
リーヴェ村仮橋修繕。
木材搬入、作業完了、村側確認済。
署名、オーウェン・ラッド。
私は署名欄を見た。
滑らかな字だった。
筆圧も強い。
迷いがない。
それから、村長の右手を見た。
曲がらない指。
古い傷。
「村長」
「はい」
「普段、署名はされますか」
「昔はしておりました。今は、この手ですので」
村長は右手を見せた。
「村では、拇印を使っております」
「この三年ほど?」
「五年ほど前からです」
私は嘆願書の写しを取り出した。
村から屋敷へ送られていた嘆願書。
そこには、村長の名の横に、黒い拇印が押されている。
筆跡はない。
「アデライン様」
私は二枚の紙を並べた。
「嘆願書では、村長は拇印を使っています。ですが、完了確認書には筆記署名があります」
セドリック様がすぐに口を挟む。
「その時だけ代筆を頼んだのでしょう」
「代筆なら、代筆者名が必要です」
私は言った。
「ありません」
セドリック様は黙った。
私はさらに紙を見た。
「それと、村長の名前が違います」
村長が顔を上げる。
「違う?」
「はい」
私は完了確認書を指した。
「ここには、オーウェン・ラドとあります。嘆願書では、オーウェン・ラッド。村長ご本人の名も、村の名簿も、ラッドです」
小さな促音。
たった一文字。
でも、人の名前では大きい。
「村長は、ご自分の名前を書き間違えますか」
「いいえ」
村長の声は震えていた。
怒りか、悔しさか、たぶん両方だ。
「わしの父も祖父も、ラッドです」
アデライン様が、完了確認書を見下ろした。
「橋はなく、署名も違い、代筆者名もない」
静かな声だった。
「この書類で、金貨二千枚分の支出を完了扱いにしたのですか」
セドリック様の額に汗が浮かぶ。
「私は代官補佐にすぎません。詳細はトレバー代官が」
「では、トレバー代官に確認します」
アデライン様は即答した。
「今すぐ呼び戻して」
「それは」
「できない理由を述べて」
セドリック様は口を閉じた。
私は記録した。
代官補佐セドリック・ベルン、完了確認書の署名不一致および代筆者名不記載について説明できず。
村人たちのざわめきが広がる。
その中で、一人の少年が手を挙げた。
十歳くらいだろうか。
細い腕。
泥のついた靴。
「お嬢様」
アデライン様がしゃがむ。
「何かしら」
「あの板、橋の板じゃないです」
少年は川岸の小屋を指した。
「あっちにあります。代官所の人が来る時だけ、橋の近くに並べろって言われました」
セドリック様が振り返る。
「余計なことを」
その声は、小さかった。
でも、聞こえた。
私は書いた。
セドリック・ベルン、少年の証言に対し「余計なことを」と発言。
アデライン様の目が、冷たくなった。
「案内して」
少年は頷いた。
川岸の小屋の裏に、板材が積まれていた。
古い板ではない。
最近運び込まれたものだ。
しかも、数が少ない。
橋を作るには足りない。
板には白い墨で番号が振られている。
私はその番号を見た。
台帳にあった搬入番号と合わない。
「この板、救済金の資材番号ではありません」
私は言った。
「別の資材です」
モーリス様が険しい顔で確認する。
「これは、代官所倉庫の修繕用資材の番号です」
セドリック様の顔色が、はっきり変わった。
村に橋材として見せるために、別の倉庫から板を持ってきた。
たぶん、視察の時だけ並べるために。
橋は、紙の上と、見せかけの板の上にだけあった。
「記録官」
アデライン様が言った。
「今見たものを」
「記録しています」
「板材の番号も」
「控えました」
「少年の証言も」
「記録済みです」
アデライン様は頷いた。
そして、村人たちの方を向いた。
「リーヴェ村の橋は、ロシュフォード公爵家の名で、改めて修繕します」
村人たちが静まった。
「ただし、約束だけでは足りません。今日の記録を残します。必要な資材数、現在の不足、過去の支給先、すべて確認します」
村長が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、橋が架かってから受け取ります」
アデライン様は言った。
「今はまだ、何も渡せていませんから」
その言葉で、村長の肩が震えた。
私は少しだけ視線を下げた。
こういう時、何を書けばいいのか迷う。
感謝。
沈黙。
悔しさ。
安堵。
全部を書くには、紙は少し薄い。
でも、書けるものから書くしかない。
「セドリック・ベルン」
アデライン様が振り返る。
「あなたには、この場で代官所への同行を命じます」
「私には職務が」
「あります。だから同行してもらいます」
セドリック様は何も言えなかった。
モーリス様が警備に合図する。
セドリック様の従者たちは、動かなかった。
動けなかったのだと思う。
アデライン様は、川を見た。
流れは速い。
橋はない。
でも、紙の上では完成していた。
「ミラさん」
「はい」
「次は代官所です」
「承知しました」
私は帳面を閉じた。
いや、閉じようとして、やめた。
まだ書くことがある。
リーヴェ村仮橋、現地に存在せず。
完了確認書、村長署名と不一致。
橋材とされた板材、代官所倉庫修繕用資材番号と一致。
そこまで書いて、最後に一行足した。
金貨二千枚は、橋になっていなかった。
これは議事録ではない。
けれど、残しておくべきことだと思った。
帰り際、少年が私を見上げた。
「本当に橋、できますか」
私はすぐには答えられなかった。
できる、と言いたかった。
でも、私が橋を架けるわけではない。
だから、答えを少し変えた。
「橋がないことは、今日、記録しました」
少年は首を傾げた。
「それで、橋できますか」
「記録だけではできません」
私は言った。
「でも、橋がないことをなかったことには、させにくくなります」
少年は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
お願いされた。
かなり重い。
金貨二千枚より重いかもしれない。
私は鞄の中のペンを確かめた。
落としていない。
紙もある。
自分も、まだ落ちていない。
アデライン様はアルジャンの手綱を取っていた。
銀灰色の馬が、静かに鼻を鳴らす。
リュカも私を見ている。
たぶん、早く乗れと言っている。
私は少しだけ深呼吸した。
馬に乗るのはまだ怖い。
でも、代官所まで行かなければならない。
橋のない川を見た後では、机の上だけに戻る方が、もっと怖かった。
私はリュカの鞍に手をかけた。
次に書く見出しは、もう決まっている。
北部代官所。
橋にならなかった金貨の行き先を、そろそろ聞きに行く時間だった。




