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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第二章

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第23話 救済金は、橋になっていませんでした

 私の机は、半日で机ではなくなった。


 書類置き場である。


 左に北部救済金の報告書。

 右に古い収支台帳。

 手前に領地からの嘆願書。

 奥にインク壺と砂入れ。


 私が文字を書く場所は、だんだん肘一つ分になっていた。


 記録官室。


 そう札には書いてある。


 でも今のところ、紙に占領された小部屋と言った方が正確だった。


「申し訳ございません」


 モーリス様が、さらに書類束を持って入ってきた。


「北部関連の控えが、もう一箱ございました」


 もう一箱。


 よい響きではない。


 箱は好きだ。


 紙が入っている箱も嫌いではない。


 ただ、仕事が増える箱は少し怖い。


「置けますか」


 モーリス様が聞いた。


 私は机を見る。


 置ける場所はない。


 床を見る。


 置ける場所はある。


 負けた気がする。


「床にお願いします。右から古い順に」


「承知しました」


 モーリス様は、書類箱を丁寧に置いた。


 アデライン様は窓際に立っている。


 黒に近い青の外套は脱いでいたが、黒革の靴はそのままだった。


 屋敷の中でも、その靴は少し低い音を立てる。


 歩くための靴。


 命じるための靴。


 そして、たぶん、止まらないための靴。


「ミラさん」


「はい」


「見えそう?」


「見たくないものが、かなり見えそうです」


 アデライン様は静かに頷いた。


「それなら、正解ね」


 正解。


 できれば、もう少し嬉しい正解がよかった。


 私は古い台帳を開いた。


 北部救済金。


 三年前の洪水被害に対して、前公爵様の名で支給が承認されている。


 対象は北部三村。


 リーヴェ村。

 オルタ村。

 灰谷村。


 被害内容は、橋の流失、畑の浸水、冬用倉庫の倒壊。


 救済金の総額は、金貨二千枚。


 評議室で出た額と同じだった。


 ただし、こちらの台帳にはこう書かれている。


『支給済』


 私はペンを止めた。


 支給済。


 未処理ではない。


 では、評議室で出された未処理一覧は何なのか。


 嘘には種類がある。


 なかったことにする嘘。

 あったことにする嘘。

 少しだけ時期をずらす嘘。


 今回は、支給済を未処理にした嘘らしい。


「アデライン様」


「何か見つけた?」


「救済金は、台帳上では支給済です」


 私は台帳を差し出した。


 アデライン様が近づき、ページを見る。


「受領者は」


「北部管理代官、トレバー・ハル」


 モーリス様の眉が動いた。


「トレバーは、ヴィクター様に近い代官です」


「現在も?」


「はい。北部管理を任されています」


 私は書いた。


 北部救済金、旧台帳上では支給済。受領者、北部管理代官トレバー・ハル。


「支給済なら、未処理一覧が出るのはおかしいわね」


「はい」


 私は別の書類を開いた。


 領地報告。

 橋梁修繕計画。

 冬季備蓄報告。


 どれも、綺麗な文章だった。


 橋は仮修復済み。

 冬用倉庫は再建済み。

 被災農家には種麦支給済み。


 済み。

 済み。

 済み。


 便利な語尾だ。


 何も終わっていなくても、紙の上では終わったことにできる。


「この報告書も同じ代官です」


 私は言った。


「トレバー・ハル。確認印はダリオ管理官」


 アデライン様の目が細くなる。


「評議で職務停止にした管理官ね」


「はい」


 私は、箱の底にあった古い封筒を取った。


 封筒の端が擦り切れている。


 封蝋は割れていた。


 表には、震えた字でこう書かれている。


『ロシュフォード公爵家御当主様へ』


 御当主様。


 名前ではない。


 たぶん、誰に届くかわからなかったのだ。


「開封済みです」


 モーリス様が言った。


「古い陳情書かと」


 私は封筒から紙を出した。


 中には、三通の嘆願書が入っていた。


 一通目。


『リーヴェ村仮橋、春の増水で再び流失。子ども二名が川を渡れず、冬学校を休む』


 二通目。


『オルタ村の冬用倉庫、修繕なし。備蓄の麦、半分を湿気で失う』


 三通目。


『灰谷村、種麦届かず。翌年の作付けを減らすほかなし』


 私は、しばらく黙った。


 橋。

 倉庫。

 種麦。


 台帳では、全部済んでいたもの。


 でも、紙のこちら側では、まだ終わっていなかった。


「日付は」


 アデライン様が聞く。


「昨年です」


 私は答えた。


「三年前の洪水ではなく、その後も被害が続いています」


 アデライン様の表情が変わった。


 怒りではない。


 怒りより、もっと冷たいものだった。


「なぜ私のところへ届いていなかったの」


 モーリス様が頭を下げる。


「申し訳ございません。家政部で処理済み扱いになっていた可能性が」


「処理済み」


 アデライン様が静かに繰り返した。


 その声で、部屋の温度が少し下がった。


 私は嘆願書の裏を見る。


 そこには受付印が押されていた。


 ロシュフォード家家政部。


 日付は昨年。


 その横に、赤い小さな印。


『確認済』


 私は息を止めた。


 確認済。


 これもまた便利な言葉だ。


 誰が何を確認したのかを書かずに済む。


「確認者名がありません」


 私が言うと、モーリス様が顔を上げた。


「本来、受付印の横には担当者の署名が必要です」


「はい」


 私は頷いた。


「ですが、ここにはありません」


 アデライン様は、嘆願書を一枚ずつ見た。


 長い沈黙だった。


 私は書かなかった。


 この沈黙は、紙よりアデライン様の中に残る気がした。


「ミラさん」


「はい」


「救済金は、橋になっていないのね」


「はい」


 私は答えた。


「台帳上では橋になっています。ですが、嘆願書上では、まだ川のままです」


 自分で言って、少し嫌になった。


 川のまま。


 それは、誰かが毎日渡れないということだ。


 誰かが遠回りするということだ。


 誰かが諦めるということだ。


 金貨二千枚は、どこかへ行った。


 でも、橋にはなっていない。


「現地確認が必要ね」


 アデライン様が言った。


「はい」


「モーリス。北部三村へ先触れを」


「承知しました。ただ、馬車では道が悪く、リーヴェ村までは時間がかかります」


「馬で行きます」


 アデライン様は即答した。


 私はペンを止めた。


 馬。


 馬車ではなく、馬。


 その違いは大きい。


 馬車は座っていれば進む。


 馬は、乗らないと進まない。


「ミラさん」


 アデライン様が私を見る。


「馬には乗れますか」


「落ちたことならあります」


 アデライン様は、一度だけ瞬きをした。


「それは、乗れるとは言いません」


「私もそう思います」


 モーリス様が少し咳をした。


 笑ったのかもしれない。


 今は笑う場面ではない。


「馬車では入れない道にも、記録は必要です」


 アデライン様は言った。


「覚えましょう」


「今からでしょうか」


「今からです」


 即答だった。


 ロシュフォード家の人は、即答が多い。


 よいことでもある。


 困ることでもある。


 私は机の上を見た。


 北部救済金。

 嘆願書。

 支給済台帳。

 確認者名のない受付印。


 このまま机で読んでいても、わかることはある。


 でも、橋が本当にないかどうかは、橋の場所へ行かないとわからない。


 記録は紙の上にある。


 けれど、記録すべきものは、紙の外にもある。


「承知しました」


 私は言った。


「ただし、馬上で字を書くのは難しいと思います」


「書くのは降りてからでいいわ」


「安心しました」


 本当に安心した。


 馬の上で記録を取ったら、字が大変なことになる。


 字が壊れるのは困る。


 私より先に、文字が落馬する。


 その日の夕方、私はロシュフォード家の厩舎へ連れて行かれた。


 厩舎は、思っていたより清潔だった。


 干し草の匂い。

 革の匂い。

 馬の温かい息。


 紙とはまったく違う匂いだ。


 私は少し身構えた。


 馬は大きい。


 とても大きい。


 こちらが帳面を持っていても、たぶん読んでくれない。


「アルジャンを」


 アデライン様が厩番に言った。


 厩番はすぐに頷いた。


 説明はいらないらしい。


 この屋敷で、その名は命令に近いのだと思った。


 連れてこられたのは、銀灰色の牝馬だった。


 光を受けると、毛並みが静かに光る。


 派手ではない。


 けれど、目を離せない。


 アデライン様はその首筋に手を置いた。


 馬は、当然のように静かになった。


 主と馬というより、昔から同じ道を知っている二人のように見えた。


「この子がアルジャン」


 アデライン様が言った。


「私の馬です」


「綺麗です」


 思ったまま言った。


 アルジャンは私を見た。


 黒い目。


 かなり賢そうな目。


 そして、少し疑っている目。


 私は小さく礼をした。


「ミラ・ノートンです。記録官です」


 アデライン様がこちらを見た。


「馬に自己紹介する人は初めて見ました」


「名前を知らないまま乗るのは失礼かと」


「あなたらしいわ」


 アルジャンは鼻を鳴らした。


 認められたのか、笑われたのかはわからない。


 ただ、噛まれなかったので、よい反応だと思う。


「ミラさんには、最初はおとなしい馬を用意します」


 アデライン様が言った。


「ありがとうございます」


「ただし、おとなしい馬でも、緊張している人は嫌います」


「私が緊張していると、馬に伝わりますか」


「伝わります」


「では、記録しておきます。馬には虚勢が通じない」


「ええ。人間より正直です」


 それは少し困る。


 人間相手でも手一杯なのに、馬にまで本音を見られるらしい。


 厩番が栗毛の馬を連れてきた。


 アルジャンより少し小さい。


 それでも十分大きい。


「この子はリュカです」


 厩番が言う。


「穏やかです」


 穏やか。


 信じたい言葉だ。


 私はリュカを見た。


 リュカも私を見た。


 お互いに、まだ相手を信用していない顔だった。


「よろしくお願いします」


 私は言った。


 リュカは草を噛んだ。


 返事はない。


 でも、無視ではないと思いたい。


 アデライン様が手綱を取る。


「まず、乗る前に立ち方から」


「乗る前に?」


「落ちないためには、乗る前が大事です」


 非常に正しい。


 紙も同じだ。


 書く前の準備で、だいたい後の揉め方が決まる。


 私は頷いた。


「わかりました」


 アデライン様は少し笑った。


「本当にわかった顔をしているわね」


「紙と同じなら、少しわかります」


「馬は紙より動きます」


「そこが問題です」


 私はリュカの横に立った。


 大きい。


 温かい。


 紙ではない。


 でも、この馬に乗らなければ、北部の橋までは行けない。


 救済金が橋になっていないのなら、橋になっていない場所まで見に行くしかない。


 記録官の仕事は、机に座っていることだけではないらしい。


 かなり大変だ。


 私は新しいペンを鞄の中にしまい直した。


 落としてはいけない。


 紙も、ペンも、自分も。


 できれば全部、落とさずに北へ行きたい。


 アデライン様の黒革の靴が、厩舎の床を静かに踏んだ。


「では、始めましょう」


「はい」


 私はリュカを見上げた。


 北部救済金の記録は、まだ机の上にある。


 でも、その続きは、馬の背の向こうにあるらしい。


 少しだけ、怖い。


 かなり、困る。


 それでも、書くべきものがあるなら行くしかない。


 私はリュカの鞍に手をかけた。


 せめて、落ちた場合の時刻だけは、誰かに記録しておいてほしいと思った。

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