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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第二章

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22/22

第22話 評議室に、女公爵様の席はありませんでした

 ロシュフォード公爵家の評議室は、屋敷の北側にあった。


 高い窓。

 長い机。

 壁には、歴代当主の肖像画。


 どの肖像画も、こちらを見下ろす高さに掛けられている。


 私は少しだけ背筋を伸ばした。


 紙の上なら怖くない。


 肖像画は発言しないからだ。


「こちらです」


 筆頭家令のモーリス様が扉を開けた。


 中には、すでに人が集まっていた。


 分家の方々。

 古参の家臣。

 領地管理官。

 会計係。

 法務顧問。


 そして、長机の奥。


 本来なら当主が座るべき席に、一人の男性が座っていた。


 銀髪混じりの髪。

 整えられた髭。

 重そうな指輪。


 ヴィクター・ロシュフォード。


 アデライン様の叔父にあたる人物だ。


「アデライン」


 ヴィクター様は椅子に座ったまま微笑んだ。


「来たか」


 来たか。


 次期当主に向ける言葉としては、少し軽い。


 アデライン様は、いつも通り静かに歩いた。


 黒に近い青の外套。

 低く響く黒革の靴音。


 舞踏会で軽く鳴る靴ではない。


 石畳も濡れた庭も、そのまま歩ける靴だった。


 飾られるためではなく、進むための靴。


 その音だけで、部屋の空気が少し変わった。


 私は帳面を開いた。


 ロシュフォード公爵家家内評議。

 出席者、アデライン・ロシュフォード、ヴィクター・ロシュフォード、筆頭家令モーリス、各管理官。

 議題、公爵位継承手続きおよび北部救済金未処理支出について。


 そこまで書いて、気づいた。


 席がない。


 アデライン様の席ではない。


 私の席がない。


 記録官用の小机も、椅子も、インク壺もない。


 壁際に細い台が一つあるだけだった。


「ミラさん」


 アデライン様が、こちらを見ずに言った。


「記録官席は?」


「見当たりません」


 正直に答えた。


 ヴィクター様が笑う。


「王宮から来たばかりの娘に、いきなり家内評議の席を用意する必要はあるまい。壁際で聞けば十分だ」


 私は書いた。


 ヴィクター・ロシュフォード、ミラ・ノートンについて「壁際で聞けば十分」と発言。


「壁際でも構いませんが、机は必要です」


「机?」


「はい。立ったままでは、長い発言の記録精度が落ちます」


「それくらい覚えられないのかね」


「覚えられます」


 私は答えた。


「ですが、覚えたことと、記録したことは別です。後で『言っていない』と言われると困りますので」


 評議室が静かになった。


「モーリス」


 アデライン様が言った。


「記録官用の机を」


「すぐに」


 モーリス様は、ためらわなかった。


 使用人が小机と椅子を運んでくる。


 インク壺と砂入れも置かれた。


 私は座った。


 紙を置く。


 書きやすい。


 やはり机は大事だ。


 ヴィクター様は、まだ当主席に座っている。


 アデライン様は、その前で立ち止まった。


「叔父様」


「何だね」


「そこは当主席です」


「知っているとも」


「では、お立ちください」


 部屋の空気が、もう一段冷えた。


 ヴィクター様の笑みが薄くなる。


「まだ君は公爵ではない」


「ええ。ですが、正式な継承手続きが進められています」


「だからこそ、今日はその妥当性を話し合うのだ」


「妥当性を話し合う席で、妥当性を問われる者の席を奪うのですか」


 誰も返事をしなかった。


 私は書いた。


 アデライン・ロシュフォード、ヴィクター・ロシュフォードに当主席からの移動を求める。


 ヴィクター様は、ゆっくり立ち上がった。


「よかろう。席など、いくらでも譲る」


「ありがとうございます」


 アデライン様は礼をした。


 そして、当主席に座った。


 ただ座っただけだ。


 それなのに、部屋の形が変わったように見えた。


 席は、ただの椅子ではないらしい。


「始めましょう」


 アデライン様が言った。


 モーリス様が議題書を配る。


 表題は、


『アデライン嬢の公爵位継承延期に関する評議』


 嬢。


 延期。


 最初から決まっているような題だった。


「モーリス様」


 私は手を挙げた。


「この議題書は、どなたが作成されましたか」


「分家側より提出されたものです」


「作成者名がありません」


 紙の下部を指す。


「日付はありますが、作成者欄が空白です」


 ヴィクター様がため息をついた。


「細かいな」


「はい」


 私は頷いた。


「細かいところに、後で揉めるものが入ります」


 アデライン様が議題書を見る。


「作成者を記入して」


 ヴィクター様の横にいた若い書記が、慌ててペンを取った。


 書かれた名前は、領地管理官ダリオ・ベルン。


 私は記録する。


 議題書作成者、ダリオ・ベルンと確認。


「説明を」


 アデライン様が言った。


 ヴィクター様は立ったまま話し始めた。


「王宮での騒動が、公爵家の名誉に傷をつけたことは否定できない。王太子殿下との婚約破棄、慈善局の監査、王妃殿下に関わる不穏な噂。こうした状況で、君がただちに公爵位を継ぐのは時期尚早だ」


 時期尚早。


 便利な言葉だ。


 反対とは言わない。


 ただ、今ではないと言う。


「代案は」


 アデライン様が問う。


「私が一時的に後見人となる」


 ヴィクター様は当然のように言った。


「君が落ち着くまでの間、家政と領地管理を預かる。公爵位継承は、その後でよい」


 部屋の数人が頷いた。


 私は書いた。


 ヴィクター・ロシュフォード、アデライン・ロシュフォードの公爵位継承延期および自身の一時後見を提案。


「落ち着くまで、とはいつまでですか」


「状況次第だ」


「期限は」


「家の安定を期限で切るものではない」


 期限なし。


 かなり危ない言葉だ。


「記録官」


 アデライン様が言った。


「今の発言を」


「記録済みです」


「期限なし、と明記して」


「はい」


 私は書き足した。


 ヴィクター・ロシュフォード、一時後見の期限について明示せず。


 ヴィクター様の目が、こちらへ向いた。


「君はずいぶん主の意向に沿う記録を取るのだな」


「いいえ」


 私は答えた。


「発言に沿っています」


 アデライン様が少しだけ視線を伏せた。


 たぶん、笑いを隠した。


「次に、北部救済金について」


 ダリオ管理官が書類を広げた。


「前公爵様の代より、北部の洪水被害に対する救済金が未処理となっています。アデライン様が継承される場合、この負債も引き継がれます」


「額は」


「金貨二千枚相当です」


 部屋がざわついた。


 金貨二千枚。


 数字は、感情より冷たい顔をしている。


 でも、時々、感情より人を殴る。


「根拠となる報告書を」


 アデライン様が言った。


 ダリオ管理官は、分厚い書類束を机に置いた。


 表紙は古い。


 けれど、綴じ紐は新しい。


 表紙と紐の年齢が合わない。


 嫌な組み合わせだ。


「拝見しても?」


 私が聞くと、ダリオ管理官は眉をひそめた。


「これは領地管理の専門書類です。記録官が見ても」


「日付と署名を見るだけです」


 私は言った。


「専門外でも、日付は読めます」


 アデライン様が頷く。


「ミラさんに渡して」


 私は書類束を受け取った。


 洪水被害報告。

 救済金申請。

 支給承認。

 未処理一覧。


 日付は三年前。


 けれど、最後の未処理一覧だけ、紙の色が少し違う。


 古い紙に見せているが、端が硬い。


 インクも新しい。


「この未処理一覧だけ、印が違います」


 私が言うと、ダリオ管理官の顔がこわばった。


「違う?」


「はい。こちらの古い報告書に押されている会計印と、花弁の内側の点が違います」


 私は印を指した。


「モーリス様。この印は、いつから使われていますか」


「先月、新調いたしました」


 モーリス様は答えた。


 部屋の空気が変わった。


「つまり」


 アデライン様が静かに言った。


「三年前の未処理一覧に、先月の印が押されているのですね」


「押し直したのだ」


 ヴィクター様が言った。


「古い書類を整理する時に、確認印を押しただけだ」


「では、確認者名を」


 私は言った。


「確認印なら、確認者の署名欄があるはずです」


 ダリオ管理官が黙った。


 私は紙をめくる。


 署名欄は空白だった。


 空白。


 やはり嫌いだ。


「確認者欄が空白です」


 私は記録した。


 ダリオ管理官、北部救済金未処理一覧の確認者名について即答せず。当該書類の確認者欄、空白。


 ヴィクター様の顔から笑みが消えた。


「たかが記入漏れで、公爵家の負債が消えるわけではない」


「その通りです」


 アデライン様は言った。


「負債があるかどうかは、確認します」


 彼女は書類束に手を置いた。


「ただし、偽りの負債で私の継承を止めることは認めません」


 その声は低かった。


 評議室の奥にある歴代当主の肖像画まで、少し黙ったように見えた。


「本日の決議は延期します」


 ヴィクター様が言った。


「書類確認が必要なら、日を改めるべきだ」


「いいえ」


 アデライン様は首を振った。


「本日の決議は行います」


「何を決議する」


「北部救済金未処理一覧の真偽確認。関連書類の封印。ダリオ管理官の一時職務停止。そして」


 アデライン様は、まっすぐヴィクター様を見た。


「私の公爵位継承手続きは、予定通り進めます」


 ヴィクター様が立ち上がる。


「強引だ」


「ええ」


 アデライン様は、静かに答えた。


「家を守る時は、少し強引になります」


 私は書いた。


 アデライン・ロシュフォード、北部救済金未処理一覧の真偽確認、関連書類封印、ダリオ管理官の一時職務停止、公爵位継承手続きの継続を提案。


「賛否を」


 アデライン様が言った。


 最初に手を上げたのは、モーリス様だった。


「賛成いたします」


 次に、会計係。


 それから法務顧問。


 一人、また一人。


 全員ではない。


 けれど、過半は超えた。


 ヴィクター様は、椅子の背を強く握っていた。


 私は人数を数え、記録した。


 賛成多数。


 決議成立。


 書いた瞬間、胸の奥に少し熱が走った。


 紙の上で、場の向きが変わる瞬間。


 大声ではなく、積み重なった発言と署名で、何かが動く瞬間。


 嫌いではない。


「記録官」


 アデライン様が言った。


「本日の議事録を、すぐに清書して」


「はい」


「写しは三部」


「五部をおすすめします」


 アデライン様が少し笑う。


「では、五部」


 ヴィクター様が、低い声で言った。


「そんな紙切れで、家を動かせると思うな」


 私はペンを止めた。


 紙切れ。


 王宮でも似たようなことを聞いた。


「紙切れではありません」


 私は言った。


「議事録です」


 ヴィクター様が私を睨む。


「同じだ」


「違います」


 私は自分の帳面を見た。


「紙切れは、捨てても誰も困りません」


 私は続けた。


「議事録は、捨てると困る人が出ます」


 評議室が静かになった。


 アデライン様は当主席で微笑んでいる。


 私は書き足した。


 ヴィクター・ロシュフォード、「そんな紙切れで、家を動かせると思うな」と発言。

 ミラ・ノートン、「紙切れではありません。議事録です」と応答。


 自分の発言を書くのは、少し変な気分だ。


 でも、残す必要がある。


 家を動かす最初の紙だから。


 評議が終わると、ヴィクター様は何も言わずに出ていった。


 ダリオ管理官は、公爵家の警備に付き添われて別室へ向かう。


 机の上には、北部救済金の書類束が残った。


 表紙は古い。


 綴じ紐は新しい。


 印はもっと新しい。


 嘘は、古い顔をしていても、どこか一箇所だけ若い。


 私はその書類束を抱えた。


 重い。


 とても重い。


 でも、悪くない重さだった。


「ミラさん」


 アデライン様が評議室の出口で立ち止まる。


「初仕事、お疲れさま」


「まだ清書が残っています」


「そうね」


「五部です」


「そうね」


「それから、救済金の書類も」


「ええ」


 私は少し考えた。


「休暇は」


「記録しておきましょう」


 やはり、すぐには来ないらしい。


 廊下に出ると、アデライン様の黒革の靴音がまた響いた。


 低く、まっすぐな音。


 その後ろを、私は書類束を抱えて歩く。


 ロシュフォード公爵家の中にも、嘘はあった。


 ただし、王宮の嘘とは少し匂いが違う。


 もっと古く、もっと家に馴染んでいる。


 だからこそ、きちんと剥がさなければならない。


 私は帳面を閉じずに歩いた。


 次に書く見出しは、もう決まっている。


 北部救済金。


 どうやら、女公爵様の就任記録は、最初からかなり忙しい。

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