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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第二章

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第21話 ロシュフォード公爵家に私の机がありました

 ロシュフォード公爵家の屋敷は、王宮より静かだった。


 王宮の静けさは、誰かが息を潜めている感じがする。


 けれど、ロシュフォード家の静けさは違う。


 廊下に光が入る。

 窓辺の花が手入れされている。

 使用人たちは足音を殺しているけれど、怯えてはいない。


 同じ静かでも、ずいぶん違う。


 紙にも、似たような違いがある。


 隠された紙と、保管された紙は違う。


 どちらも棚の中にあるのに、まったく違う。


「ミラさん」


 前を歩くアデライン様が振り返った。


「緊張していますか」


「少し」


「少しだけ?」


「王宮よりは、紙が燃えなさそうなので」


 アデライン様は、一瞬だけ黙った。


 それから、ほんの少し笑った。


「ええ。燃やさせません」


 それは冗談のようで、たぶん冗談ではなかった。


 私は鞄を抱え直した。


 中には帳面が三冊。

 王宮監査の写しが一束。

 エドウィン様からいただいた銀色のペン。


 昨日まで使っていたペンは、先が少し割れてしまっている。


 頑張ってくれたと思う。


 道具に対してそう思うのは変かもしれない。


 でも、紙とペンはだいたい黙って働くので、少しくらい労ってもよいはずだ。


「こちらです」


 アデライン様は、廊下の奥の扉の前で止まった。


 扉は大きすぎない。


 けれど、安っぽくもない。


 真鍮の小さな札がかかっていた。


『記録官室』


 私は、その文字を見た。


 記録官室。


 もう一度見た。


 やはり、記録官室と書いてある。


「……部屋ですか」


「ええ」


「私の?」


「あなたの仕事部屋です」


 アデライン様は当たり前のように言った。


 当たり前ではない。


 少なくとも、昨日までの私にとっては当たり前ではない。


 記録係は、部屋の隅にいるものだ。


 長椅子の端。

 会議卓の端。

 夜会場の壁際。

 人の邪魔にならない場所。


 それなのに、扉がある。


 札まである。


 かなり困る。


「入って」


 アデライン様が扉を開けた。


 部屋の中は、明るかった。


 窓は東向き。

 午前の光が机に落ちている。


 中央には、少し大きめの机。

 右側には書棚。

 左側には小さな引き出し棚。

 机の上には、インク壺、砂入れ、封筒、白紙の束。


 そして、机の端に、もう一つ札が置かれていた。


『ミラ・ノートン』


 私は黙った。


 たぶん、少し長く黙った。


 アデライン様は急かさなかった。


 ただ、私がその札を見ているのを、黙って見ていた。


「名前が」


「ええ」


「机に」


「ええ」


「置いてあります」


「あなたの机ですから」


 私は机に近づいた。


 指先で札に触れる。


 木の札だった。


 手触りがよい。


 安いものではない。


 私の名前が、誰かに消されるためではなく、置かれるために彫られている。


 それは、少し不思議な感じだった。


「不要でしたか」


「いえ」


 私は首を振った。


「必要です。たぶん」


「たぶん?」


「まだ、慣れていません」


 アデライン様は静かに微笑んだ。


「慣れてください。これから、あなたにはここでたくさん働いてもらいます」


「休暇は」


「契約書に記載します」


 契約書。


 その言葉で、私は少し落ち着いた。


 感動より、契約書の方が扱いやすい。


 アデライン様は机の上に置かれていた封筒を取った。


「ロシュフォード公爵家記録官としての雇用契約書です。確認してください」


「はい」


 私は椅子に座った。


 座ってから、少し背筋を伸ばした。


 自分の机の椅子に座るというのは、思ったより落ち着かない。


 契約書を開く。


 雇用主、ロシュフォード公爵家。

 職務、会議録、領地報告、監査記録、来客記録、書状控えの作成および保管。

 給与。

 休暇。

 守秘義務。

 記録の改竄拒否権。


 私はそこで止まった。


「改竄拒否権」


「入れました」


 アデライン様は言った。


「あなたが必要だと言ったので」


「必要です」


「ええ」


 アデライン様は頷いた。


「私も必要だと思いました」


 私は契約書を見下ろした。


 記録の改竄拒否権。


 そんな項目を入れてくれる雇用主が、世の中にどれくらいいるのかわからない。


 たぶん、多くはない。


「ありがとうございます」


「感謝されることではありません。正しい記録を求めるなら、その権利も渡すべきです」


 私は、銀色のペンを取り出した。


 新しいペン。


 まだ少し手に馴染んでいない。


 でも、重さはちょうどいい。


 契約書の署名欄に、自分の名前を書く。


 ミラ・ノートン。


 最後のンを、いつも通り少しだけ跳ねさせた。


 偽造された私の字ではない。


 私の字だ。


 署名が終わると、アデライン様も名を書いた。


 アデライン・ロシュフォード。


 流れるような字だった。


 迷いがない。


 人の上に立つ字だと思った。


「これで正式です」


 アデライン様が言った。


「今日からあなたは、ロシュフォード公爵家の記録官です」


「はい」


 私は契約書を見た。


 どうしよう。


 少し嬉しい。


 嬉しい時の記録の取り方は、まだよくわからない。


「ミラさん」


「はい」


「嬉しいなら、嬉しい顔をしてもいいのよ」


「努力します」


「努力するものではないと思うけれど」


 そう言われても、急には難しい。


 私はとりあえず、契約書の控えを丁寧に折った。


 嬉しさの置き場所がわからない時は、紙を整えるに限る。


 その時、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、年配の男性だった。


 背筋が伸びている。


 白髪交じりの髪。

 黒い上着。

 隙のない礼。


 いかにも公爵家の人だった。


「筆頭家令のモーリスです」


 男性は深く頭を下げた。


「ミラ・ノートン様。今後、屋敷内の手配は私が担当いたします」


「よろしくお願いいたします」


 私は立ち上がって礼をした。


 モーリス様は、私の机を一度見た。


 記録官室。

 名札。

 契約書。


 その目に、嫌悪はない。


 けれど、歓迎もなかった。


 正確に言うなら、測っている目だった。


 この下級貴族の娘が、どれくらい使えるのか。


 どれくらい置いておいてよいのか。


 そういう目。


 嫌いではない。


 測られているなら、こちらも測ればいい。


「モーリス」


 アデライン様が言った。


「予定を」


「はい」


 モーリス様は書類を差し出した。


「本日午後、ロシュフォード家内評議がございます」


「早いわね」


「分家のヴィクター様より、強いご要望がありました」


 アデライン様の表情が、少しだけ変わった。


 ほんの少し。


 でも、変わった。


「叔父様が」


「はい」


 モーリス様は続けた。


「議題は、アデライン様の公爵位継承手続きについて」


 私はペンを握った。


 早い。


 非常に早い。


 机に座ってから、まだ契約書しか書いていない。


 もう新しい会議が来た。


「異議が出ていますか」


 アデライン様が問う。


「正式な異議ではございません」


 モーリス様は答えた。


「ただし、分家の一部からは、王宮での騒動が落ち着くまで継承手続きを見送るべきではないか、との声が」


 王宮での騒動。


 便利な言葉だ。


 誰が騒がせたのかを隠して、騒ぎがあった事実だけを残す。


「それから」


 モーリス様は、少しだけ言いにくそうにした。


「新しい記録官の同席についても、ご意見が出ております」


 新しい記録官。


 私のことだ。


「どのような意見ですか」


 アデライン様の声は静かだった。


「王宮騒動の中心にいた人物を、公爵家の内部評議へ入れるのは慎重であるべき、と」


 私は書きそうになって、止めた。


 まだ会議ではない。


 でも、覚えておく。


 王宮騒動の中心にいた人物。


 私が中心だった覚えはない。


 私はだいたい端にいた。


 端にいたのに、なぜか中心扱いされる。


 少し不本意だ。


「ミラさん」


 アデライン様が私を見る。


「午後の評議に同席できますか」


「はい」


 私は答えた。


 即答だった。


 机をもらった直後に、机から離れることになるらしい。


 少し惜しい。


 でも、記録官の仕事は、机を眺めることではない。


「よろしいのですか」


 モーリス様が言った。


「分家の方々は、あまり穏やかではないかと」


「穏やかでない発言ほど、記録した方がよいです」


 私は言った。


 モーリス様が、初めて私をまっすぐ見た。


 少しだけ、目の色が変わった。


「なるほど」


 彼は言った。


「王宮での噂は、誇張ではなかったようです」


「どの噂でしょうか」


「紙の上では容赦がない、と」


 私は少し考えた。


「容赦はあります」


「ございますか」


「余白を残します」


 モーリス様は、ほんのわずかに笑った。


 初めての笑みだった。


「それは助かります」


 アデライン様も少し笑った。


 部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。


 けれど、すぐにモーリス様の表情は戻った。


「もう一点ございます」


「何かしら」


「ヴィクター様側より、古い領地収支報告書の確認が求められております。アデライン様が公爵位を継ぐ前に、現状の負債と管理責任を明確にしたいとのことです」


「負債?」


 アデライン様の声が低くなる。


「ロシュフォード領北部の救済金について、未処理の支出があると」


 救済金。


 私は、その言葉を聞いてペンを取り直した。


 また、お金がどこかへ行っている。


 孤児院の小麦粉の次は、公爵領の救済金。


 紙は、本当に忙しい。


「報告書はありますか」


 私が聞くと、モーリス様は少し驚いた顔をした。


 アデライン様ではなく、私が聞いたからだと思う。


「ございます。ですが、かなり古いものも含まれます」


「古い紙は、嫌いではありません」


「量も多いですが」


「多い紙も、嫌いではありません」


 言ってから、少しだけ後悔した。


 自分で仕事を増やしている気がする。


 アデライン様が楽しそうに私を見ていた。


「では、記録官室へ運ばせましょう」


「全部ですか」


「必要なものを」


「必要かどうかは、見ないとわかりません」


「では、全部ね」


 しまった。


 言い方を間違えた。


 モーリス様が深く礼をする。


「かしこまりました」


 午後の評議。

 分家の異議。

 公爵位継承。

 北部救済金。

 古い収支報告書。


 私の新しい机は、もう空いていないかもしれない。


 モーリス様が退室すると、アデライン様は窓辺へ歩いた。


 午前の光が、その横顔に落ちる。


 王宮で見た時より、少しだけ柔らかい。


 でも、その目の奥は変わらない。


「ミラさん」


「はい」


「ここからは、王宮の嘘ではありません」


 アデライン様は言った。


「ロシュフォード家の中にあるものです」


 私は頷いた。


 家の中の嘘。


 それは、外の嘘より扱いにくい。


 外敵なら扉を閉めればいい。


 でも、家の中にあるものは、同じ食卓に座り、同じ紋章を使い、同じ先祖の名を口にする。


「それでも書けますか」


 アデライン様が問う。


 私は机の上の名札を見た。


 ミラ・ノートン。


 それから、契約書の一文を思い出した。


 記録の改竄拒否権。


「書きます」


 私は答えた。


「ただ、念のため確認してもよろしいでしょうか」


「何を?」


「この屋敷では、帳簿室は燃えにくい場所にありますか」


 アデライン様は、今度こそ笑った。


「すぐ確認させます」


 それは安心だ。


 私は新しい帳面を開いた。


 ロシュフォード公爵家記録官としての、最初のページ。


 見出しを書く。


 家内評議。


 その下に、少し迷ってからもう一行。


 公爵位継承に関する異議。


 インクは、よく紙に乗った。


 新しいペンは、思ったより書きやすい。


 私の机は、もうすぐ書類で埋まる。


 休暇は、やはりしばらく先になりそうだった。

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