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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第一章

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19/22

第19話 その嘘は誰の字で書かれましたか

 王宮記録局の保管棚は、鍵が三つ必要だった。


 一つは、記録局の管理鍵。

 一つは、王宮監査官の確認鍵。

 もう一つは、棚の横に置かれた小さな箱の鍵。


 鍵が多い場所は、安全そうに見える。


 でも、鍵が多いほど、誰が開けたのかを残さないと意味がない。


 私は帳面を開いた。


 王宮記録局、筆跡見本保管棚。

 ミラ・ノートン提出分の閲覧記録を確認。


 エドウィン様が、記録局職員に言った。


「臨時記録係の筆跡見本を」


「はい」


 職員は青ざめた顔で棚を開けた。


 王宮記録局の職員なのに、紙を出す手が震えている。


 紙が多い場所で働いている人は、紙の怖さもよく知っているのだと思う。


 薄い箱が取り出された。


 表には、小さく名前が書かれている。


『ミラ・ノートン』


 自分の名前が王宮の箱に入っているのは、少し変な感じだった。


 箱の中には、私が臨時記録係になる時に提出した筆跡見本が入っていた。


 氏名。

 日付。

 短い議事要約。

 発言者名を含む記録文。


 偽造するには、十分すぎる量だった。


「これを誰が閲覧したか」


 アデライン様が問う。


「閲覧簿を確認します」


 職員が別の薄い簿冊を持ってきた。


 閲覧簿。


 私はこの言葉が好きだ。


 誰かが何かを見た時、そのこと自体を残す紙。


 紙を見る人を、紙が見返しているようで少し安心する。


 職員がページを開いた。


 青雨月十八日。


 その日の欄に、名前が二つあった。


 私は息を止めた。


 一つ目。


 王宮記録局長、ベリル・ハース。


 二つ目。


 王妃付き侍女長、セリア・ランベルト。


 部屋の空気が、音もなく重くなった。


 エドウィン様が低く言う。


「侍女長に、記録係の筆跡見本を閲覧する権限はありません」


 職員は、さらに青ざめた。


「局長の同席があれば、特例閲覧が可能です」


「何のための特例ですか」


「王妃殿下の慈善茶会に関する、式次第記録の確認と……伺っております」


 慈善茶会。


 またその言葉だ。


 孤児院のパンも、焼き菓子の箱も、偽造文書も。


 全部、甘い茶会の名前で包まれている。


 私は書いた。


 筆跡見本閲覧簿に、王宮記録局長ベリル・ハースおよび王妃付き侍女長セリア・ランベルトの署名あり。閲覧名目は王妃殿下慈善茶会に関する式次第記録の確認。


「局長を呼んで」


 アデライン様が言った。


 記録局職員はすぐに頭を下げ、部屋を出ていく。


 私は閲覧簿を見つめた。


 セリア。


 火災現場に現れ、私を王妃殿下の保護下へ移そうとした人。


 ノートン男爵家を訪れ、書斎に入った人。


 そして、私の筆跡見本を見た人。


 線が一本になっていく。


 線が一本になる時は、たいてい良い気分ではない。


 少しして、王宮記録局長ベリル・ハースが現れた。


 丸い体。

 整えられた髭。

 高そうな上着。

 顔には、汗。


 部屋に入るなり、彼は深く礼をした。


「これはこれは、アデライン様、エドウィン様。何か手続きに不備でも」


「不備がありすぎて、どれから聞くべきか迷っています」


 アデライン様は静かに言った。


 ベリル局長の笑顔が固まる。


 私は書く。


 ベリル局長、入室。


「局長」


 エドウィン様が閲覧簿を示した。


「本日、ミラ・ノートン嬢の筆跡見本を閲覧していますね」


「ええ、ええ。確認業務の一環です」


「セリア侍女長と共に」


「王妃殿下のご依頼でしたので」


 王妃殿下。


 その名前を盾のように出した。


 盾は便利だ。


 でも、持つ手が震えているとよく見える。


「何を確認しましたか」


「慈善茶会に使う式次第の記録係について、字の整った者を選ぶ必要がありまして」


「ミラ嬢は、慈善茶会の記録係に任じられていません」


「候補の一人として」


「候補名簿はありますか」


 ベリル局長は、口を閉じた。


 私は書いた。


 ベリル局長、慈善茶会記録係候補確認のため筆跡見本を閲覧したと説明。候補名簿の有無について即答せず。


 即答せず。


 便利な記録だ。


 黙った、と書くより少し優しい。


 でも、意味はあまり変わらない。


「局長」


 アデライン様が言った。


「この偽造文書をご存じですか」


 監査官が、ノートン家で見つかった告発文を机に置く。


 ベリル局長は、それを見た。


 ほんの一瞬。


 目が止まった。


 紙を知っている人の止まり方だった。


「存じません」


 それから答えた。


 少し遅かった。


「この紙は王宮記録局の練習用紙です」


 私が言うと、ベリル局長は私を見た。


「記録局の紙は、様々な部署で使われています」


「はい」


 私は頷いた。


「ですが、こちらの紙束は端が少し青く染まっています」


「青く?」


「この棚の隣に、青藍インクの瓶が倒れた跡があります」


 私は保管棚の隣の作業台を指した。


 作業台の端に、薄い青い染みがあった。


 記録局の標準インク。


 昨日から何度も見た色。


「練習用紙の束を置いたままインクをこぼしたのだと思います。偽造文書の端にも、同じ場所に薄い染みがあります」


 鑑定官が紙を比べる。


 ベリル局長の汗が増えた。


「偶然でしょう」


「はい。偶然かもしれません」


 私は言った。


「なので、その日の練習用紙の使用簿も確認したいです」


 ベリル局長が黙った。


 また、即答しない。


 エドウィン様が職員へ目を向ける。


「使用簿を」


 職員が慌てて棚から別の簿冊を出す。


 ページをめくる。


 青雨月十八日。


 練習用紙、五枚持ち出し。


 持ち出し者。


 王宮記録局長ベリル・ハース。


 受領者欄。


 空白。


 空白。


 私はこの空白が嫌いだった。


 書くべき場所に何もない。


 それは、嘘より少し不気味だ。


「受領者欄が空いています」


 エドウィン様が言った。


「急ぎでしたので」


「急ぎなら、なおさら書くべきです」


 私は思わず言った。


 全員がこちらを見る。


 困る。


 でも、本当にそう思った。


「急ぎのものほど、後で揉めます」


 アデライン様が少しだけ口元を緩めた。


「ミラさんの言う通りです」


 ベリル局長の頬が引きつった。


「私は、王妃殿下の侍女長から依頼されただけです。筆跡見本を見せ、練習用紙を渡しただけで、偽造など」


 言った。


 言ってしまった。


 部屋の空気が変わった。


 私はペンを走らせた。


 ベリル局長、王妃付き侍女長セリアより依頼を受け、ミラ・ノートンの筆跡見本を見せ、練習用紙を渡したと発言。


 ベリル局長は、遅れて自分の発言に気づいた顔をした。


「いや、違う。練習用紙というのは、式次第の」


「局長」


 エドウィン様が遮った。


「今、偽造という言葉を先に出しましたね」


「それは、そちらが偽造文書だと」


「こちらは偽造の疑いがある文書、と述べています」


 ベリル局長の唇が震えた。


 私は少しだけ同情しかけた。


 でも、やめた。


 私の字を盗む手伝いをした人だ。


 同情は、後で余ったら考えればいい。


「もう一つ確認します」


 アデライン様が言った。


「セリア侍女長は、この部屋で筆跡を写しましたか」


「写したわけでは」


「では、何をしましたか」


 ベリル局長は袖口を握った。


 ハーウェル様と違って、自分の手を止めるためではない。


 言い逃れを探すための手だった。


「少し、練習を」


「何の練習を」


「……筆跡の確認です」


「誰の筆跡を」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 私はそれを書かなかった。


 書かなくても、部屋中が覚えている沈黙だった。


「ミラ・ノートン嬢の筆跡です」


 ベリル局長は、ついに言った。


 母が、小さく息を呑んだ。


 父は椅子の背を握っている。


 私は、妙に冷静だった。


 自分の字を盗まれたとわかった時、人はもっと怒ると思っていた。


 でも、怒りより先に、細かい確認が浮かぶ。


「練習紙は残っていますか」


 私は聞いた。


 ベリル局長は答えなかった。


「捨てましたか」


「……処分しました」


「廃棄炉に?」


「いや」


「では、どこへ」


 ベリル局長は視線をそらした。


 その視線の先に、小さな屑入れがあった。


 王宮記録局の屑入れ。


 紙を捨てるには少し浅い。


 燃やす前の紙を一時的に入れる箱だ。


 エドウィン様がすぐに近衛兵へ合図した。


 屑入れが机の上に置かれる。


 中には、丸められた紙が数枚あった。


 鑑定官が手袋をつけ、一枚ずつ広げる。


 そこには、私の名前が何度も書かれていた。


 ミラ・ノートン。

 ミラ・ノートン。

 ミラ・ノートン。


 気持ちが悪い。


 自分の名前が、知らない手で練習されている。


 しかも、少しずつ似ていく。


 最初は下手だった字が、最後の方ではかなり近い。


 私はそれを見て、胃の奥が冷えた。


「これが、練習紙です」


 鑑定官が言った。


「偽造文書の署名と同じ癖が見られます」


 アデライン様の声が低くなる。


「局長。これは誰が書きましたか」


 ベリル局長は、黙っていた。


「あなたですか」


「違います」


「では、誰です」


 ベリル局長は、ゆっくりと口を開いた。


「セリア侍女長です」


 私は書いた。


 練習紙にミラ・ノートンの署名練習複数あり。ベリル局長、当該練習紙を書いた人物はセリア侍女長であると発言。


 セリア。


 名前が、ようやく紙の上に乗った。


 でも、まだ終わりではない。


「セリア侍女長は、何のためにこれを書いたのですか」


 エドウィン様が問う。


「私は知りません」


 ベリル局長はすぐに答えた。


 早すぎた。


 知っているかどうかより、逃げたい時の速さだった。


「ただ、王妃殿下のご意向だと」


 ベリル局長は、そこまで言って口を押さえた。


 王妃殿下。


 また名前が出た。


 今度は、誰かの言い訳として。


 アデライン様は、すぐには何も言わなかった。


 その沈黙は、今までで一番静かだった。


「局長」


 アデライン様が言う。


「王妃殿下のご意向、とはセリア侍女長がそう言ったのですか」


「……はい」


「王妃殿下ご本人から、直接命じられましたか」


 ベリル局長は、汗を拭った。


「直接では、ありません」


 直接ではない。


 この言葉で、王妃殿下本人まではまだ届かない。


 でも、近づいた。


 かなり近づいた。


「記録します」


 私は言った。


 誰に断ったのかは、自分でもわからない。


 たぶん、自分にだった。


 ベリル局長、セリア侍女長より「王妃殿下のご意向」として筆跡見本閲覧および練習用紙提供を求められたと発言。ただし、王妃殿下本人からの直接命令は確認できず。


 長い。


 でも、正確に。


 ここで短くすると、後で逃げ道になる。


「ベリル局長」


 監査官が言った。


「あなたには、記録改竄および偽造文書作成幇助の疑いがあります。身柄を預かります」


 ベリル局長は崩れるように椅子へ座った。


「私は、ただ命じられただけだ」


 その声は、小さかった。


 私は書いた。


 ベリル局長、「私は、ただ命じられただけだ」と発言。


 便利な言葉だ。


 でも、命じられただけで紙を渡した人がいると、命じられただけで嘘を書く人も出てくる。


 命じられただけで、孤児院のパンが小さくなる。


「セリア侍女長を」


 アデライン様が言った。


「呼び出しましょう」


 エドウィン様が頷く。


「王宮監査官立ち会いのもとで。王妃殿下の名を使った経緯も確認します」


 私は、机の上の練習紙を見た。


 私の名前が、何度も並んでいる。


 ミラ・ノートン。

 ミラ・ノートン。

 ミラ・ノートン。


 そのどれもが、私ではない。


 けれど、私に似ている。


 嫌な紙だった。


 でも、見つかってよかった。


 嘘が下手だったからではない。


 紙を捨てるのが下手だったからだ。


 私は帳面を閉じる前に、もう一行書いた。


 偽造練習紙、保全。


 これで、私の字を盗んだ人の名前は残った。


 次は、その人が誰の名を使って盗んだのかを聞く番だった。

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