第17話 私の字で私の嘘が書かれていました
ノートン男爵家は、王都の端にある。
端、と言っても、田舎ではない。
貴族街の端。
商人街に近い端。
馬車が通るには少し道が細く、使用人を何人も置くには家が小さい。
つまり、下級貴族の家である。
私はその家で育った。
大きすぎない玄関。
少し軋む階段。
母が花瓶を置きたがる窓辺。
父が書類を積みすぎる小さな書斎。
懐かしい。
けれど、今日は懐かしんでいる場合ではなかった。
屋敷の前には、王宮監査官と近衛兵がすでに立っていた。
父と母は玄関先に出ている。
父は顔色が悪く、母は私を見るなり駆け寄ろうとして、兵に止められた。
「ミラ」
「お母様」
母の声を聞いた瞬間、少しだけ胸が詰まった。
昨日からずっと、帳面と証拠と王妃殿下の声ばかりを相手にしていた。
母の声は、紙ではなかった。
だから少し困った。
紙ではないものは、どう扱えばいいのかわからない時がある。
「ミラさん」
アデライン様が、私の横に立つ。
「大丈夫?」
「はい」
私は答えた。
「まだ書けます」
「そうではなくて」
「……たぶん、大丈夫です」
アデライン様はそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
「何があったのですか」
父が監査官に問う。
声がかすれていた。
「ノートン男爵家に、王宮記録改竄に関する証拠が隠されているとの通報がありました」
私は帳面を開いた。
通報。
また便利な言葉だ。
誰が言ったのかを隠したまま、家の扉を開けられる。
「証拠とは」
アデライン様が聞く。
監査官は封書を一つ掲げた。
「ミラ・ノートン嬢が、アデライン・ロシュフォード様の指示を受け、昨夜の夜会記録を意図的に改竄したという告発です」
父が息を呑んだ。
母は口元を押さえる。
私は、一瞬だけ何も書けなかった。
私が。
改竄。
その二つの言葉が、同じ文章の中に並んでいる。
気持ちが悪い。
誰かに自分の名前を汚されたというより、自分の机に泥を塗られたような気分だった。
「中を」
エドウィン様が言った。
監査官が封書を開く。
中には、折りたたまれた紙が三枚入っていた。
一枚目。
私の署名らしきものがある。
ミラ・ノートン。
見慣れた名前。
見慣れない字。
でも、ぱっと見は似ていた。
かなり似ていた。
私は自分の手元を見た。
自分の指なのに、少し遠く見えた。
「読み上げます」
監査官が言った。
「私は、アデライン・ロシュフォード様より命を受け、王太子殿下およびロザベル・ミード令嬢の発言を不利に記録した。夜会記録は、事実ではなく、アデライン様の指示に従って作成したものである」
母が小さく声を漏らした。
父は何も言わない。
アデライン様の顔は、冷えていた。
私は、その文を見た。
私の名前。
私の署名らしきもの。
私の罪。
でも、私の文章ではなかった。
「続けてください」
私は言った。
自分の声が、思ったより低かった。
監査官が二枚目を開く。
「また、孤児院支給記録およびミード商会倉庫に関する記録についても、アデライン様の意向に沿う形で加筆した。すべては王太子殿下を貶めるためであり、私の判断ではない」
私の判断ではない。
便利な文章だ。
私に罪を着せながら、私を少しだけ弱く見せている。
誰かに命じられただけの、下級貴族の娘。
圧力容易。
名簿の言葉を思い出した。
「三枚目は」
エドウィン様が問う。
「アデライン様からミラ嬢への指示書と見られます」
監査官が三枚目を広げた。
上質な紙だった。
ロシュフォード公爵家の封蝋らしき跡まである。
内容は短い。
『昨夜の件、王太子殿下に不利となるよう記録を整えなさい。あなたの家の件はこちらで取り計らいます。アデライン・ロシュフォード』
私は、その紙を見た。
アデライン様も見た。
そして、少しだけ眉を上げた。
「私、こんな雑な命令は出しません」
第一声がそれだった。
母が固まる。
父も固まる。
エドウィン様が少しだけ視線を落とした。
笑いを隠したのだと思う。
今は笑う場面ではない。
「雑、ですか」
監査官が確認する。
「ええ」
アデライン様は静かに言った。
「人に不正を命じるなら、もっと逃げ道のある文章にします」
私は思わず書いた。
アデライン・ロシュフォード、「人に不正を命じるなら、もっと逃げ道のある文章にします」と発言。
書いてから、これは残してよかったのか少し迷った。
でも本人が堂々としているので、たぶんよい。
「ミラ嬢」
エドウィン様が私を見る。
「あなたは、この文書に心当たりがありますか」
「ありません」
すぐ答えた。
これは考える必要がない。
「署名は?」
「私の名前です。でも、私の字ではありません」
監査官が紙をこちらへ向ける。
「似ていますが」
「似せています」
私は言った。
似ている、ではない。
似せている。
そこは違う。
私は一枚目を指した。
「私の署名は、最後のンの下が少しだけ跳ねます。これは止めています」
次に二枚目。
「私は日付を書く時、月名の後に点を打ちません。これは打っています」
三枚目。
「この文章は、句読点の位置が不自然です。私なら『事実ではなく』の後に区切りません。あと」
私は、少しだけ言葉に詰まった。
腹が立ってきた。
「私なら、自分の嘘をこんなに下手に書きません」
父が目を丸くした。
母も目を丸くした。
エドウィン様は今度こそ少し笑った。
「怒る場所はそこですか」
「かなり大事です」
私は答えた。
「偽造されるなら、せめて文体も似せてほしいです」
「そこではないと思います」
「そこでもあります」
アデライン様が小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのかはわからない。
ただ、さっきより部屋の空気が少しだけ戻った。
私は三枚目の指示書を見直した。
そこで、日付に気づいた。
青雨月十八日。
今日の日付だ。
だが、時刻欄がある。
午前第七刻。
私は眉をひそめた。
「この指示書が作られた時刻は、午前第七刻になっています」
「それが?」
監査官が問う。
「その時点で、私はまだ王宮にいました」
私は帳面をめくる。
王宮記録局での時刻。
王妃殿下の私的書庫へ向かった時刻。
東門でロザベル様が証言した時刻。
王太子殿下との面会が始まった時刻。
どれも残っている。
午前第七刻、私は王宮監査官の前にいた。
そして、アデライン様もその場にいた。
「つまり」
エドウィン様が言った。
「この指示書の日付と時刻では、アデライン様がミラ嬢へ密かに渡すことは難しい」
「はい」
「それ以前に」
アデライン様が、指示書を見た。
「私の封蝋ではありません」
監査官が紙を傾ける。
ロシュフォード公爵家の紋章に見える。
けれど、よく見ると違う。
本物の薔薇紋には、花弁の下に小さな剣がある。
この封蝋には、剣がない。
「かなり雑ですね」
私が言うと、アデライン様が頷いた。
「ええ。失礼です」
怒る場所が似ていた。
少しだけ嬉しい。
いや、今は嬉しい場面ではない。
「ですが」
監査官は慎重だった。
「偽造の疑いがあるとしても、これらがノートン男爵家に隠されていた事実は確認する必要があります」
「どこから見つかったのですか」
父が震える声で聞いた。
「男爵家書斎の机の奥です」
私は父を見る。
父は真っ青だった。
「私ではない」
「わかっています」
私は言った。
父の書斎は、昔から紙だらけだ。
でも、父は自分の紙の場所だけは覚えている。
机の奥に知らない紙があれば、絶対に気づく。
……いや。
たまに気づかないかもしれない。
でも、今回は気づくはずだ。
「今日、この家に来た人はいますか」
エドウィン様が問う。
母が頷く。
「王宮から使いの方が」
空気が止まった。
「王宮から?」
「はい。ミラの安全確認だと。王妃殿下のご配慮で、家族にも説明をするとおっしゃって」
私は、帳面を握る手に力を入れた。
王妃殿下の配慮。
保護。
心配。
配慮。
優しい言葉が、どんどん嫌いになっていく。
「名は」
アデライン様が問う。
母は少し考えた。
「侍女長のセリア様、と」
セリア。
火災現場に現れ、私を王妃殿下の保護下へ移そうとした侍女長。
私は書いた。
ノートン男爵夫人、同日午前、王妃付き侍女長セリアがノートン男爵家を訪問したと証言。名目はミラ・ノートンの安全確認および家族への説明。
つながった。
ただし、まだ足りない。
紙が家にある。
セリアが来た。
偽造文書がある。
でも、誰が机に入れたかまでは、まだ紙の上にない。
「お母様」
私は聞いた。
「セリア様は、書斎に入りましたか」
「ええ。お父様と話すために」
「一人になりましたか」
母は父を見る。
父が小さく頷いた。
「茶を取りに行った間、少しだけ」
少しだけ。
便利な時間だ。
紙を一枚忍ばせるには、十分な時間。
人の人生を汚すにも、たぶん十分な時間。
監査官が文書を封筒に戻す。
「これらは保全します。ミラ・ノートン嬢には、明日、正式に筆跡確認を受けていただくことになります」
「承知しました」
私は答えた。
怖くないわけではない。
私の字に似せた嘘が出てきた。
私の家に仕込まれていた。
父と母まで巻き込まれた。
でも、少しだけ落ち着いていた。
なぜなら、偽造は字を真似できても、一日は真似できない。
誰がどこにいたか。
誰が何を受け取ったか。
誰がどの紙に触れたか。
それは、別の紙に残っている。
「ミラさん」
アデライン様が言った。
「無理をしなくていいわ」
「無理ではありません」
私は、自分の帳面を見た。
黒いインク。
少し濃くなった字。
でも、私の字。
「私の字で、私の嘘が書かれていました」
そう言うと、母が泣きそうな顔をした。
父は拳を握った。
エドウィン様は、静かに目を細めた。
「ですので」
私はペンを持ち直す。
「私の字で、それが嘘だと記録します」
偽造文書は封筒に入れられた。
王妃付き侍女長セリアの名も、帳面に残った。
次に必要なのは、私の一日を取り戻すことだ。
私がどこにいて、何を書いて、何を書かなかったのか。
その全部を、紙の上に戻す。
私は新しいページを開いた。
見出しを書いた。
筆跡確認。
その横に、小さくもう一つ足す。
ミラ・ノートンの一日。
私の一日まで偽造されるのは、さすがに困る。




