第16話 西離宮の焼き菓子
西離宮は、王宮の西端にあった。
離宮という名前だけ聞くと、優雅だ。
白い柱。
小さな庭園。
季節の花。
王妃殿下の慈善茶会。
そういうものを想像する。
けれど、夕方の西離宮は、少し違った。
窓は半分閉じられ、庭園の端には荷車の跡が残り、裏口の石畳には小麦粉の白い粉が薄く落ちていた。
小麦粉。
孤児院のパンを思い出すには、十分すぎる粉だった。
「裏口を固めて」
アデライン様が言った。
近衛兵が左右へ散る。
エドウィン様は、焦げた白百合紋の布片を監査官へ渡した。
「黒い外套の男は、この方面へ逃げたとの報告です」
「西離宮の使用記録は?」
「王妃殿下主催の慈善茶会準備。名目上は、焼き菓子と寄付品の保管です」
焼き菓子。
また、甘い名前が出てきた。
この事件では、甘い言葉ほどだいたい苦い。
私は帳面を開いた。
西離宮裏口。
石畳に小麦粉状の白い粉。
王妃殿下慈善茶会準備名目にて使用。
ロザベル様は、私の隣で青ざめていた。
「ここに、父の荷が運ばれていました」
「中身は?」
アデライン様が問う。
「菓子箱と聞いていました。でも、全部が菓子ではありません」
ロザベル様の声は小さい。
「小麦粉、毛布、薬草茶。王立孤児院の荷札がついたものを、ここで貼り替えていました」
私は書いた。
ロザベル・ミード令嬢、西離宮にて王立孤児院宛物資の荷札貼り替えが行われていたと証言。
西離宮の裏口が開いた。
中は薄暗い。
甘い匂いがした。
焼き菓子の匂い。
そして、その奥に、焦げた布と古い木箱の匂い。
近衛兵が先に入る。
私たちはその後に続いた。
廊下の奥に、小さな保管室があった。
扉は半開き。
中には木箱が積まれている。
箱の表には、綺麗な札が貼られていた。
『王妃殿下慈善茶会用 焼き菓子』
その下。
札の端が、少しだけ剥がれていた。
私は近づいた。
「ミラさん?」
「札の下に、別の札があります」
監査官が手袋をつけ、表の札をゆっくり剥がす。
下から出てきたのは、汚れた荷札だった。
『王立孤児院 冬季配給分』
部屋の空気が、冷えた。
焼き菓子の箱ではなかった。
少なくとも、最初から焼き菓子の箱ではなかった。
「確認を」
アデライン様が言う。
近衛兵が箱を開けた。
中には、布袋が詰まっている。
小麦粉。
乾燥豆。
薬草茶。
小さな子ども用の靴。
その上に、見せかけのように焼き菓子の包みが数個置かれていた。
「菓子は上だけです」
ロザベル様が言った。
「茶会で見せる分だけ」
私は、リナの小さなパンを思い出した。
昨日より大きいです、と言った声。
この箱の中身が届いていれば、あの子は昨日より大きいパンを喜ばずに済んだのかもしれない。
私は書いた。
西離宮保管室にて、「王妃殿下慈善茶会用 焼き菓子」と貼られた木箱を確認。下部に「王立孤児院 冬季配給分」の旧荷札あり。箱内より小麦粉、乾燥豆、薬草茶、子ども用靴を確認。
長い。
でも、短くしたくなかった。
こういうものを「物資」と一言でまとめると、靴が消える。
子どもの足の大きさも消える。
「奥を確認して」
エドウィン様が言った。
近衛兵が保管室の奥へ進む。
その時だった。
棚の陰が動いた。
「伏せて!」
アデライン様の声。
黒い外套の男が飛び出した。
手には短い刃物。
近衛兵が受け止める。
金属音がした。
私は反射的に帳面を抱えた。
盾にならない。
わかっている。
でも、抱えてしまう。
男は逃げようとした。
その左手が、燭台の光に照らされる。
白い火傷痕。
「左手」
私は叫んだ。
「白い火傷痕です!」
近衛兵が男の腕を押さえ込む。
男は抵抗したが、すぐに床へ組み伏せられた。
黒い外套の留め具には、白百合紋。
王妃付きの意匠だった。
監査官が近づく。
「名を」
男は黙っている。
エドウィン様が顔を見て、わずかに眉を動かした。
「ガレス」
男の目が、初めて動いた。
「元王妃付き護衛、ガレス・ロウ。二年前に退職したはずです」
退職したはず。
便利な言葉だ。
今ここにいるなら、少なくとも完全には離れていない。
私は書いた。
黒い外套の男を西離宮保管室にて拘束。左手に白い火傷痕。白百合紋の外套留めあり。エドウィン・クレイ、当該人物を元王妃付き護衛ガレス・ロウと識別。
ガレスは床に押さえつけられたまま、私を見た。
嫌な目だった。
怒りというより、面倒な仕事が増えた時の目。
「記録係」
低い声。
「お前が拾わなければ、終わっていた」
私はペンを止めた。
お前が拾わなければ。
拾ったものが多すぎて、どれのことかわからない。
薄紙か。
布片か。
名簿か。
処理と書かれた紙か。
あるいは、最初の議事録か。
「何を拾わなければ、ですか」
私は聞いた。
エドウィン様が少しだけこちらを見る。
たぶん、聞くなと言いたいのだと思う。
でも、聞いてしまった。
ガレスは笑った。
「紙だ。お前たちは、紙を拾いすぎる」
その意見には、少し同意できる。
でも、今は同意する場面ではない。
アデライン様が静かに言った。
「誰の命令で火をつけましたか」
ガレスは答えない。
「誰の命令で、ミラさんを王妃付きへ引き渡そうとしましたか」
やはり答えない。
けれど、目が一瞬だけロザベル様へ動いた。
いや。
ロザベル様ではない。
その後ろ。
保管室の隅にある小机。
私はその視線を見た。
「机の中を」
エドウィン様が言った。
近衛兵が小机の引き出しを開ける。
中には、封筒が一つ入っていた。
宛名はない。
ただ、白百合の封蝋が押されている。
監査官が開封し、中を確認した。
「命令書ではありません。覚書です」
「読んで」
アデライン様が言う。
監査官が読み上げた。
「商会帳簿室焼却後、記録係を保護名目で移送。抵抗の場合、ノートン家の件を先に処理」
私の手が止まった。
ノートン家。
今度は、はっきり家の名前が出た。
喉の奥が、少し冷える。
「ノートン家の件とは」
エドウィン様の声が低くなる。
ガレスは黙っている。
けれど、口元だけがわずかに動いた。
「もう遅い」
その一言だけだった。
私は書いた。
西離宮小机内より白百合封蝋の覚書を発見。「商会帳簿室焼却後、記録係を保護名目で移送。抵抗の場合、ノートン家の件を先に処理」と記載。ガレス・ロウ、「もう遅い」と発言。
字が濃くなった。
まただ。
怒っている時の字になる。
「ミラさん」
アデライン様が私の名を呼んだ。
その声は、いつもより少しだけ近かった。
「あなたのご実家に、すぐ人を送ります」
「はい」
自分でも驚くくらい、返事が早かった。
怖い。
でも、何が怖いのかを考える前に、紙に出てきてしまった。
ノートン家。
私の家。
父。
母。
狭い書斎。
私が昔使っていた机。
そこに、何かが仕込まれている。
「偽造でしょうか」
私の声は、思ったより冷静だった。
エドウィン様がこちらを見る。
「なぜそう思いますか」
「私を保護名目で移送できなかった場合、次に必要なのは私の信用を落とすことです」
言いながら、自分で嫌になった。
こういう推測が当たると、あまり嬉しくない。
「私が嘘の記録を作ったことにすれば、今までの記録も疑えます」
アデライン様の目が冷える。
「ミラさんを、偽造記録の作成者にするつもりね」
「たぶん」
私は帳面を見た。
自分の字。
自分の記録。
これを使って、誰かが私の嘘を書く。
考えるだけで、気持ちが悪かった。
「ガレスを王宮監査官へ」
アデライン様が命じる。
「西離宮の物資と覚書はすべて保全。ロザベル様、ここに残る箱のうち、ミード商会から運ばれたものを指示できますか」
「できます」
ロザベル様は震えながら頷いた。
「やります」
「ありがとう」
アデライン様は短く言った。
許しではない。
でも、証人として必要な礼だった。
ガレスが連れて行かれる。
すれ違う時、彼は私を見た。
「記録係」
また、その呼び方。
「家の中の紙まで、守れると思うな」
近衛兵が彼を押さえる。
私は、ペンを握った。
「今の発言も記録しました」
ガレスは初めて、少しだけ顔を歪めた。
私は書いた。
ガレス・ロウ、「家の中の紙まで、守れると思うな」と発言。
紙は弱い。
燃える。
破れる。
隠される。
差し替えられる。
でも、弱いからこそ、何枚も残す。
何度も書く。
別の場所にも置く。
弱いものの守り方は、一つではない。
「行きましょう」
アデライン様が言った。
「次はノートン家です」
私は頷いた。
西離宮の保管室には、焼き菓子の匂いがまだ残っている。
その下に、小麦粉と薬草茶と、焦げた布の匂い。
甘い名前をつけられた嘘が、木箱の中で黙っていた。
私は帳面を閉じる。
でも、ペンはしまわなかった。
次に守る紙は、たぶん私の家にある。




