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「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので 〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜  作者: 神居 朔
第一章

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第15話 火をつけた者は灰にも署名する

 帳簿室の外は、煙で白くなっていた。


 白い。


 でも、綺麗な白ではない。


 喉に貼りつく白。

 目を刺す白。

 紙が燃える時の、嫌な白。


「こちらへ」


 エドウィン様が、黒い帳簿と書状束を抱えたまま言った。


 監査官は名簿の入った封筒を胸に押さえている。

 近衛兵がロザベル様を支え、アデライン様は私の少し前にいた。


 私は帳面を抱えた。


 胸の前に。


 紙は盾にならない。


 でも、抱えていないと落ち着かなかった。


 階段の下が赤く揺れている。


 一階倉庫側から火が回っていた。


 誰かが叫ぶ。

 水を持ってこい、という声。

 裏口を開けろ、という声。

 帳簿を出せ、という声。


 帳簿を出せ。


 その言葉だけは、正しい。


「煙が早い」


 エドウィン様が低く言った。


「自然に燃えたにしては、回りが早すぎます」


「自然ではないでしょうね」


 アデライン様の声は冷たい。


「燃えて困るものが多すぎます」


 私は咳き込みながら書こうとして、やめた。


 歩きながら書くのは危ない。


 前に試したことがある。


 段差で転びかけた。


 その時の記録は、字がひどかった。


「ミラさん、今は書かないで」


 アデライン様が振り返らずに言う。


「はい」


 返事をした。


 でも、見たものは覚える。


 煙の流れ。

 焦げた匂い。

 階段下の炎。

 廊下の奥から走り去る黒い外套。


 黒い外套。


「今の」


 私は思わず足を止めた。


 廊下の先、使用人用の階段へ消える背中。


 黒い外套。

 左手に白い布。

 いや、布ではない。


 火傷痕。


 左手の甲に、白く引きつれた痕が見えた。


「ミラ嬢?」


 エドウィン様が私を見る。


「人がいました。黒い外套の男性です。左手に白い火傷痕」


 近衛兵が即座に動いた。


「追え」


 二人が煙の中へ走る。


 アデライン様が私の腕を取った。


「あなたは来なさい」


「はい」


 腕を引かれる。


 強い。


 でも、痛くはない。


 この人は、人を壊さない強さを知っている。


 階段を上ではなく、横へ抜ける。


 商会の使用人用通路らしい。


 細い廊下を進む途中、壁にかかった布が半分焦げていた。


 王家御用達の飾り布。


 その端に、白い花の刺繍がある。


 白百合。


 私はそれを見た。


 見て、少しだけ息を止めた。


 王妃殿下の私的書庫にあった便箋にも、同じ花が押されていた。


「これを」


 私は焦げ残った布片を指した。


 エドウィン様が、すぐに手袋をした手で拾う。


「白百合紋」


 アデライン様が言った。


「王妃殿下付きの意匠です」


 ロザベル様の顔が強張る。


「商会には、その意匠の布はありません。王妃殿下の使者が来る時だけ、父が応接室に出していました」


 私は記録したかった。


 とても記録したかった。


 けれど煙が濃い。


 紙より先に肺が負けそうだった。


「外へ」


 エドウィン様が言う。


 裏口から中庭へ出た瞬間、冷たい空気が顔に当たった。


 私は咳き込んだ。


 何度も咳をした。


 喉の奥に、焦げた紙の味が残っている。


 できれば一生食べたくない味だった。


「証拠は」


 アデライン様が問う。


「黒帳簿、書状束、名簿、鍵、布片を保全」


 監査官が答えた。


「写しの一部は焼失の恐れがありますが、主要物は確保済みです」


 私は、ようやく帳面を開いた。


 手が少し震える。


 でも、書ける。


 ミード商会本店帳簿室付近より出火。

 黒い外套の男性を確認。

 左手に白い火傷痕。

 焦げ残りの布片に白百合紋。

 黒帳簿、慈善局書状、買収名簿を保全。


 書いている途中で、馬車の音がした。


 王宮の紋章をつけた馬車だった。


 中から降りてきたのは、王妃付き侍女の制服を着た女性と、護衛が二人。


 侍女は、煙の中でも姿勢を崩さない。


 整った髪。

 白い手袋。

 淡い香水。


 焦げた紙の匂いの中で、その香りだけが妙に浮いていた。


「アデライン・ロシュフォード様」


 侍女が礼をする。


「王妃殿下より、緊急の御命令です」


 アデライン様の目が細くなる。


「この火災現場で、ですか」


「はい。混乱に乗じた記録改竄を防ぐため、記録係ミラ・ノートン嬢を王妃殿下の保護下へ移します」


 私のペンが止まった。


 保護。


 また便利な言葉が出てきた。


 処理と書くより、ずっと綺麗だ。


 でも、意味はあまり変わらない気がした。


「命令書を」


 アデライン様が言う。


 侍女は封書を差し出した。


 白い封筒。

 白百合の封蝋。


 王妃殿下の印だ。


 国王陛下の印ではない。


 エドウィン様が封書を受け取り、目を通す。


「宰相府番号がありません」


 侍女の表情が少しだけ硬くなる。


「緊急命令ですので」


「王宮監査中の証人および記録係を移送する命令なら、国王印か監査官署名が必要です」


「王妃殿下の御命令です」


「王妃殿下の御命令では、王宮監査官の保全対象を動かせません」


 エドウィン様の声は静かだった。


 静かなのに、扉を閉める音がした。


 侍女は私を見た。


 優しい顔をしていた。


「ミラ様。あなたもお疲れでしょう。王妃殿下は、あなたを案じておられます」


 案じている。


 心配している。


 保護する。


 優しい言葉が続くと、逃げ道が細くなる。


 私は、帳面を見下ろした。


 ミード商会の帳簿室で拾った紙。


『記録係処理、王妃付きに引き渡し』


 帳面の間に挟んである。


 その文字が、急に重くなった。


「恐れながら」


 私は言った。


 声が少しかすれた。


 煙のせいだと思いたい。


「王妃付きに引き渡される予定が、先ほどの名簿に記載されていました」


 侍女の目が、ほんの一瞬だけ動いた。


「何のことでしょう」


「こちらです」


 私は紙片を取り出した。


 煤で端が黒くなっている。


 でも、文字は読める。


 記録係処理、王妃付きに引き渡し。


 アデライン様の顔が冷えた。


 エドウィン様はすぐに監査官へ視線を送る。


 監査官が紙片を受け取り、確認した。


「王妃付き、とはあなた方の部署を指しますか」


 侍女は微笑んだ。


「王宮には似た部署名もございますので、断定はできません」


「では、確認します」


 監査官は答えた。


「ミラ・ノートン嬢は、現時点で証拠発見者および記録係です。王妃殿下の保護下には移しません」


 侍女の微笑みが、少しだけ薄くなった。


「王妃殿下へ、そのように?」


「はい」


 アデライン様が言った。


「私からもお伝えください。ミラさんは、ロシュフォード家が保護します」


「まだ正式な雇用関係ではないと伺っております」


「今、決めました」


 私は顔を上げた。


 今。


 今決まることなのか。


「ミラ・ノートン嬢は、本日この時点より、ロシュフォード公爵家の臨時記録官として保護します」


 アデライン様は、はっきりと言った。


「正式な契約書は後ほど作成します。もちろん、記録に残して」


 私は書いた。


 手が震えていた。


 でも、字は崩さなかった。


 アデライン・ロシュフォード、ミラ・ノートンをロシュフォード公爵家臨時記録官として保護すると発言。


 侍女は、深く礼をした。


「承知いたしました。王妃殿下へお伝えします」


 彼女は馬車へ戻る。


 その背中を見送りながら、ロザベル様が小さく言った。


「あの方、見たことがあります」


「どこで」


 エドウィン様が問う。


「王妃殿下の慈善茶会で。父と話していました。名前は……セリア様。侍女長です」


 侍女長セリア。


 私は書いた。


 王妃付き侍女長セリア、火災発生直後、王妃殿下の緊急命令としてミラ・ノートンの移送を求める。


 その時、追跡に出ていた近衛兵が戻ってきた。


「黒い外套の男を見失いました」


「方向は」


 アデライン様が聞く。


「西離宮方面です。左手に白い火傷痕を確認。途中で白百合紋の外套留めを落としています」


 西離宮。


 王妃殿下が、慈善茶会の準備に使う離れ。


 ロザベル様の顔がさらに白くなった。


「西離宮には、父が運ばせた菓子箱が残っています」


「菓子箱?」


「中身は、菓子だけではありません」


 私はペンを握り直した。


 また菓子だ。


 この人たちは、悪いことに甘い名前をつけすぎる。


 火は、まだ商会の一階で赤く揺れている。


 煙は空へ上がり、灰が降ってきた。


 小さな灰が、私の帳面の端に落ちる。


 指で払おうとして、やめた。


 灰にも、場所がある。


 火をつけた者は、紙を燃やしたつもりかもしれない。


 でも、燃え残りも、煙の向きも、落とした布片も、逃げた方向も。


 全部、何かを言っている。


 私は帳面の新しいページを開いた。


 次の見出しを書く。


 西離宮。


 焦げた匂いが、まだ指に残っていた。

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