第5話 どいてもらってもいいかな?
獅堂は息を切らしながら廊下を全力で走る。廊下にいた生徒たちは獅堂を見るなり自然と道を開ける。曲がり角で他の生徒と肩が激しくぶつかり、一人は派手に床へ転んだ。「いてっ……」という声が聞こえたが、獅堂は振り返ることすらしない。謝罪もなければ立たせようともしない。ただ一直線に走り続ける。吹き飛ばされた生徒も、相手が獅堂だと分かった瞬間に口を閉ざした。
男子生徒はもうトイレへ近づいている。いや、もうトイレの中へ入っている頃だろう。俺は期待と不安とが入り混じって胸を締めつけられ、自分の体に意識を戻せずにいた。頼む、手前の個室ドアを開けていてくれ。
昇降口へ着くと獅堂は乱暴に靴を履き替え、そのまま校舎を飛び出す。息は荒く、額から汗が流れ落ちている。それでも速度は一切落とさない。ただ一直線に古いトイレを目指して走り続けた。
そしてようやく目的のトイレへたどり着いた。勢いよく中へ飛び込むと、獅堂は迷うことなく手前の個室のドアを開けた。投げ置かれたときとまったく同じ姿勢で俺の死体が壁へもたれかかっている。獅堂の肩から一気に力が抜けた。俺は神へ結果を確認した。あっさりと答えが返ってくる。
「残念だったね灰守。50パーセントの賭けに君は負けた」
言葉が出なかった。頭の中が真っ白になる。男子生徒はそのまま奥の個室へ入ったということだ。たった一枚のドアを開けるか開けないか、その違いだけで勝敗が決まってしまった。運命は獅堂を選んだ。せっかく俺へ傾きかけた流れは、一瞬でひっくり返される。胸の奥で膨らんでいた希望が音を立てて崩れ落ちた。
一方で獅堂は大きく息を吐いて安堵していた。肩から力が抜け、全身の緊張が一気にほどけていく。助かった。本気でそう思ったのだろう。しかしその安堵はほんの一瞬で終わり怒りへと変わった。自分がここまで追い詰められたこと自体が気に食わなかったのかもしれない。
獅堂は隣の個室との木製の仕切りを勢いよく蹴りつけた。鈍い衝撃音が狭いトイレ全体へ響き渡り、壁までびりびりと震える。古びた木材がミシッと悲鳴を上げ、天井から細かなほこりが舞い落ちた。
隣からは男子生徒の短い悲鳴が聞こえる。そりゃそうだ。突然仕切りを力任せに蹴られたら、誰だって恐怖を覚える。当然ながら彼は何も悪いことをしていない。ただ腹を壊してトイレへ駆け込んだだけだ。それなのに理不尽な怒りをぶつけられている。あまりにも可哀そうだった。
「おいこらぁ、てめぇ!」
「えっ、は、え? 入ってます……」
「んなこた分かってんだよ!」
獅堂は終始、何の罪もない男子生徒を怒鳴り散らしていた。中から返ってくる声は戸惑いそのものだった。何が起きているのか理解できるはずもない。男子生徒にとっては災難でしかなかった。そんなことはお構いなしに獅堂の苛立ちはピークに達する。今度は男子生徒の入っている個室のドアを思い切り蹴り始める。ドアを持ってガタガタと揺らし、古びた蝶番が今にも壊れそうに悲鳴を上げる。
「早く出てこいや!」
「あの、えっと、まだ腹痛が収まらなくて……」
「てめぇの都合なんか知るか! 早くしろ! ぶち殺すぞ!」
やがて慌てたように水を流す音が響いた。ガチャリ、と鍵の外れる音が続く。男子生徒は小さく身を縮めて恐る恐るドアを開けた。顔色は悪く、目にははっきりと怯えが浮かんでいる。そして顔をあげた瞬間、相手が獅堂だと気づいたのだろう。いや、その前から気づいていたのかもしれない。男子生徒の怯えは目に見えて大きくなった。肩がぴくりと震えて視線が泳ぐ。この学園で一番の不良、獅堂龍辰を知らない生徒はこの学園にはいない。1年はもちろん、2年や3年の生徒でさえ獅堂とは関わらないよう距離を置いている。それが暗黙のルールになっていた。
獅堂は怒りに任せて男子生徒の首を乱暴につかんだ。指が首へ食い込み、そのまま片腕だけで体を軽々と持ち上げる。男子生徒の足が床から離れ、宙でばたついた。苦しそうに獅堂の腕をつかみ、必死に引きはがそうとするがびくともしない。その顔からはみるみる血の気が引いていく。目は大きく見開かれ、呼吸ができない恐怖で口だけが何度も開閉していた。喉の奥から「ぐぁっ……」というかすれた音しか漏れない。
こいつ、殺すつもりじゃないだろうな。嫌な予感が全身を駆け抜けた。俺は殺されたときの自分と、この男子生徒の姿を重ね合わせて胸の奥が冷たくなる。
「おい神、止めさせろ!」
「それは無理なお願いだ。神は人の行為に介入しない」
……ふざけやがって。何の罪もない生徒がデスゲームの犠牲になろうとしているのに。なにが神だ、と悪態をついても状況は変わらない。どうすればいい……。俺は必死に頭を回す。しかし何も思い浮かばない。救済システムは使いものにならない。死人の俺には目の前で起きようとしている惨劇を止める手段がなかった。
その無力さが歯がゆくて仕方ない。もしこの男子生徒まで殺されたら、その責任の一端はゲームに参加した俺にもあるように思えた。どうしようもない焦りが膨らむ。その間にも、獅堂は男子生徒の首をさらに強く締め上げた。それから顔をぐっと近づけ小声で脅すように吼えた。
「なんでこのトイレ使ってんだっ!」
低い声が狭いトイレへ響く。男子生徒は震えながら必死に答える。どうやらプールに備え付けられたトイレがたまたま満室だったらしい。最初は順番を待っていたが、腹痛が限界を迎えとても我慢できなくなった。それで仕方なく誰も使わないこの古いトイレまで走ってきたという。
たった1人の腹痛。たった1枚のドア。そんなくだらない偶然で勝敗が決まりかけた。このデスゲームは頭脳戦でも心理戦でもない。最後は運命がどちらへ微笑むか。その差だけなのかもしれなかった。
だからこそ俺は思ってしまった。どうして手前の個室を開けてくれなかったんだ、と。あと一歩だった。本当にあと一歩だったのだ。もちろん男子生徒に非はない。そんなことは頭では分かっている。それでも悔しさは抑えられなかった。運命に裏切られたような気持ちが胸いっぱいに広がり、どうしようもない無力感があった。
「早く外に出ろ!」
獅堂は男子生徒を解放した。よろけた男子生徒は慌てて体勢を立て直し、そのまま外へ飛び出していく。一度も振り返ることなく走り去って行った。その姿は猛獣の縄張りへ迷い込んでしまった小動物みたいだった。
そして獅堂も悪臭に耐えられなくなったのか、鼻をひくつかせながらトイレの外へ出ようとする。そのときだった。男子生徒と入れ替わるように古びた車輪がコンクリートの上をガラガラと鳴らしながら近づいてくる。その音はトイレの中までよく響いた。姿を現したのは灰色の作業着に身を包む用務員さんだった。台車には大きな段ボール箱が1つだけ載せられていた。
用務員さんはトイレの前で台車を止めると額から流れる汗を腕で拭い、一度腰へ手を当ててゆっくり背筋を伸ばした。年齢は50代後半くらいだろうか。頭頂部は薄く、日に焼けた顔には深いしわが刻まれている。長年この学園で働いてきたと聞いたことがある。生徒にも分け隔てなく接する穏やかな人だ。
用務員さんの首には黒い一眼レフカメラがぶら下がっていた。なぜカメラを持っているのだろうと俺は疑問に思った。獅堂が警戒感を強めるのが分かった。だが何事もなかったように努めて平静を装いながら用務員さんへ声をかけた。
「どうしたんすか?」
「今度このトイレを改修することになったから。改修前の写真を撮るように学園長から頼まれてね」
その一言を聞いてまた俺の胸が高鳴った。改修前の記録写真なら外観だけで終わるはずがない。当然、中も撮るだろう。個室の状態だって記録しておくんじゃないか。もし手前にある個室のドアが開けられれば俺の死体が発見される。ゲーム開始からここまでなんとか切り抜けてきた獅堂だったが、今度こそ終わりだと思った。まさかの用務員さんによって獅堂は負けるのだ。
用務員さんは首から下げたカメラを持ち上げ、まずはトイレの外観を何枚か撮影し始める。カシャッ、カシャッ、というシャッター音が聞こえてくる。その間ずっと獅堂の視線は落ち着きなく動き回る。用務員さんのいる外の方を見て、俺の死体を見て、という動作を何度も繰り返す。ついさっきまで男子生徒を怒鳴り散らしていた男とは思えないほど動揺していた。
トイレ内部には隠す場所などない。もちろん俺の死体をトイレの外へは持ち出せない。獅堂は袋小路へ追い込まれていた。
「どうする、どうする……」
小さく漏らした独り言にはかなりの焦りが滲んでいた。街に降りてきて森の方角を見失った獣みたいに滑稽だ。俺はその様子を俺自身の死体から見ていた。獅堂のとれる選択肢はない。つまり、この状況を切り抜けるのは不可能だ。ここでデスゲームは終わる。自分の目で獅堂の人生が終わる瞬間を見届けられるのだと思うとワクワクが止まらなかった。
用務員さんは何の疑いもなくトイレの中へ足を踏み入れる。獅堂が何らかの答えを出すより早く、外観の撮影を終えたようだ。カメラを下ろし、そのまま自然な足取りで中へ入ってくる。獅堂は反射的に俺のいる個室のドアを閉めた。
「このトイレ、めっちゃ汚いっすね」
獅堂は笑いながら言った。しかしその笑みは明らかに引きつっていた。口元は笑っているのに目は笑っていない。余裕を装ってはいるものの視線は落ち着かず、用務員さんの一挙手一投足に神経を張り詰めているのが分かる。そんな獅堂の異変に気づく様子もなく、用務員さんは苦笑いを返した。
「そうそう。汚すぎて誰も使ってないよね。一応、たまに掃除はしてるんだけど」
獅堂は道を譲らないため、用務員さんは獅堂の一歩手前で足を止めた。狭いトイレの通路で二人が向かい合う形になる。用務員さんは不思議そうな顔で獅堂を見上げている。目の前に立ちふさがる理由が分からないのだ。
「どいてもらってもいいかな?」
穏やかな口調だった。仕事の邪魔になっているから退いてほしい。それだけの意味しかない、当たり前の一言だった。しかし今の獅堂にとっては死刑宣告にも等しい言葉だ。道を譲れば俺の死体が見つかる。譲らなければ不自然に思われる。逃げ道は残されていなかった。
獅堂は立ち尽くしたまま動けない。頭をかきながら「あの……」と口を開き、何とか時間を稼ごうとする。しかし続きの言葉が出てこない。頭の中で必死に言い訳を探しているのだろう。目が泳ぎ喉が上下する。顎から落ちた汗がコンクリートの床へ小さな染みを作った。
勝てる。今度こそ勝てる。誤魔化しはきかない。そう思いながら、俺は息を詰めるような思いで次の展開を待っていた。トイレの外から水泳部の掛け声と蝉の鳴き声が途切れることなく聞こえている。夏らしい騒がしさとは裏腹に、この狭いトイレの中だけ時間が止まったようだった。
用務員さんは怪訝そうに首をかしげた。目の前の男子生徒の様子がおかしいことには気づいている。さっきまでの穏やかな表情が少し曇る。それでも用務員さんは、まさか獅堂が人を殺し、その死体を手前の個室へ隠しているなど思っていない。
そして獅堂は乾いた喉を鳴らし、覚悟を決めたようにゆっくりと口を開いた。それは俺の予想を裏切る言葉だった。




