第4話 ざけんなよっ!
学園には外に設置されたトイレが2つある。1つはグラウンド脇にある比較的新しいトイレだ。運動部がよく使うため多少汚れているものの定期的に清掃されている。もう1つはプール脇に建つ古いトイレだ。こちらは建物自体が何十年も前のもので今では過去の遺物状態だ。校舎内のきれいなトイレが近場にあることもあり、わざわざこの古いトイレに足を運ぶ者はいない。掃除も行われていないようで悪臭がすごい。
生徒の間では「あそこには行くな」と半ば怪談みたいに語られる場所だった。俺の死体はもちろんその古いトイレへ運ばれた。校舎裏からそれなりの距離があったが、誰ともすれ違うことはなかった。
「くっさぁっ……!」
トイレに入ってすぐ獅堂が顔をしかめた。男女兼用で個室が2つだけ。古びたコンクリートの壁は黒ずみ、天井には無数のシミが広がっている。湿気を含んだ空気は重く長年染みついた尿とカビの臭いが混ざり合って鼻を刺す。
獅堂は息を切らしながら手前の個室の扉を開ける。中は古い和式便器だった。しゃがんで用を足し水を流す昔ながらのタイプだ。獅堂は俺の体を乱暴に床へとおろし、壁にもたれかかるように座らせる。力の抜けた俺の首が前へ垂れる。
「チー牛のくせに手間取らせやがって」
獅堂は舌打ち混じりに吐き捨てて個室の扉を閉めた。ドアを閉めても、ドアとコンクリート床との間に15センチほどの隙間が空いている。そのため角度によっては座り込んだ俺の下半身が見える構造だ。
トイレの外に出て獅堂はうんざりしたように言う。
「あと33時間もあんのかよ」
現在時刻は14時42分。13時にデスゲームが始まってから1時間42分が経過していた。その数字は俺と獅堂にとって意味合いが違う。俺からすれば1秒減るたびに敗北へ近づいており、時間が味方についている感じはない。反対に獅堂からすれば、余計なことさえ起こらなければ勝利は勝手に転がり込んでくる。どちらかといえば俺は時間に追われ、獅堂は時間に守られているように思えた。
獅堂は額に浮かんだ汗を腕で乱暴に拭った。シャツは体に張り付き、呼吸もまだ少し荒い。それでも警戒は怠らない。トイレの周囲を歩いて誰かがこちらを見ていないか確認している。辺りには誰も見当たらない。
その後、獅堂は悪臭の漂うトイレを後にした。トイレの近辺をうろついている方が怪しまれるとでも思ったのだろうか。校舎へ向かって歩き出したので、そのまま教室へ戻るのかと思った。だが向かったのは1階のラウンジスペースだった。自販機の前で立ち止まりジュースのボタンを押す。さらに隣の自販機でアイスを1本買った。獅堂はジュースを飲み、アイスをかじりながら階段を上っていく。4階にある俺たち1年A組の教室の前を素通りする。
授業中の教室からは教師の声が漏れてくる。クラスメイトたちは俺の死など知る由もなく、真面目に授業を受けている。そのすぐ横を殺人鬼が平然と歩いている。その異様な光景は現実感をますます薄れさせた。獅堂は迷うことなく階段を上り続け、屋上へ続く鉄扉を押し開ける。屋上には夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、コンクリートは焼けるような熱を帯びていた。
陽炎がゆらゆらと揺れ、遠くでは蝉が耳をつんざく勢いで鳴いている。獅堂は顔をしかめながら「あっちぃ」とつぶやき日陰へ移動した。食べ終えたアイスの棒と飲み干した缶ジュースを無造作に放り投げる。
続けてポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきでライターを鳴らした。小さな炎が煙草の先を赤く染める。深く煙を吸い込みゆっくりと吐き出す。白い煙は真っ青な夏空へ細く伸び、そのまま風に流されながら静かに溶けていった。
煙草を吸い終えると、今度は左手に巻いていたタオルを外し、枕代わりに頭の下へ敷いた。傷を負っていた左手の平の出血はもう止まっている。異常な回復力だった。そのままコンクリートの上へ大の字に寝転がる。日陰とはいえ真夏の屋上だ。かなり暑い。だが数分もしないうちに規則正しい寝息が聞こえ始めた。あっさり意識を手放している。その無防備さが信じられなかった。
やがて「グォッ、グォッ」と鈍いいびきまでかき始める。蝉の鳴き声と混じり合うそのいびきが耳障りだった。本当に眠っている。演技ではない。こいつは俺を殺し、その死体を運び終えた直後だというのに昼寝できる人間だった。俺の命を奪ったことなど、獅堂にとってはアリを踏みつぶすのと同じくらいの出来事なのだ。俺の胸の奥で殺意がどんどん大きくなるのを感じた。
テレビでは時々これといった理由もなく人を殺した事件が報道される。そのたびに理解できないでいた。どんな育ち方をすれば平然と人を殺せるのかと思っていた。だが今なら分かる気がした。そもそもの土台が違うのだ。人間性そのものが普通とは違う。人を殺して何が悪い、と本気で思える人間なのだ。殺人を特別な悪事だと認識していない。だから平気でいられる。ぐっすり眠れる。
相手にも家族がいて、友人がいて、未来があったのだという想像すらできない。いやできたとしても倫理や罪悪感という感情が最初から存在しない。人間として何かが決定的に違う。せっかくだから俺は神に聞いてみたくなった。
「おい神、どうしてこんな人間が生まれてくる世界を創った?」
「さぁ、上の方の神に聞いてもらわないと」
神はいつもの調子で軽く答えた。電話で問い合わせ窓口を案内されるときみたいな返事だった。結局、獅堂の人間性について考えたところで意味はない。俺が殺された事実は変わらない。なら答えは一つしかない。このデスゲームに勝ってこいつを葬る。
獅堂龍辰という人間は社会のガンだ。更生など絶対にあり得ない。気に入らなければ暴力を振るい、邪魔だと思えば殺す。そんな人間がこれから先も普通に生き続ければ、いずれまた誰かが俺と同じ目に遭う。そのたびに獅堂は何事もなかったように笑うのだろう。そんな未来は絶対に認めない、許さない。
俺は正義ぶっているわけじゃない。どこにでもいる高校生だ。それでも今はこのデスゲームに勝つことが俺の役目なのだと思えた。俺がここで勝って獅堂をこの世から排除する。その単純な結末がこの理不尽な世界で唯一納得できる答えだった。気づけば胸の奥にはある種の使命感まで芽生えていた。
でも残念ながらこの時点で勝負はほとんどついていた。あのトイレをわざわざ使う人間などまずいない。校舎内に清潔なトイレがいくつもある以上、悪臭の漂うあの古いトイレへ足を運ぶ理由がないのである。教師も生徒も意識的に避けている場所だ。そんな場所へ俺の死体を隠されてしまった以上、偶然発見される可能性は限りなく低い。仮に誰かが近くを通っても臭いに顔をしかめて素通りするだけだろう。
現実は残酷だった。今の俺には状況を変える手段がない。できることは誰かが奇跡のような偶然であのトイレへ入るのを祈るだけ。ゆっくりと水位が上がるように逃げ場のない絶望が心を満たしていく。敗北する結末がはっきりと見えてしまっていた。1秒1秒が重い。夏の風と蝉の鳴き声が時間を運んでいく。
獅堂が目を開けたのは、グラウンドから聞こえてきた運動部の掛け声がきっかけだった。現在時刻は16時30分。残り時間は『31時間30分』。獅堂が眠っている間、誰かが屋上へ上がってくることもなかった。
「いち、にっ、さん!」
威勢のいい声が屋上まで響いてくる。獅堂は気だるそうに体を起こし大きくあくびをした。それから屋上のフェンスへ近づき、両肘を手すりに乗せながらグラウンドを見下ろした。放課後の校庭は部活動で賑わっている。野球部の金属バットの音。サッカー部の掛け声。さらに吹奏楽部の演奏が校舎の窓から漏れ聞こえてくる。
獅堂の興味はそれらとは別にあった。じっと見ているのは女子テニス部だ。コートを走り回る女子生徒を値踏みするように眺め「いい胸してんなぁ。でもブスすぎる」などと勝手な評価を下していく。その目は人を見る目ではない。商品を品定めする目だった。その視線だけで俺には嫌悪感が込み上げてきた。
よく見ると黄城の姿もあった。コートには入らずベンチの隅に腰かけている。スマホを両手で握り締め画面を見つめていた。いつもの明るい表情ではなかった。その姿を見て胸が締めつけられる。俺からの返信を待っているのだろうか。だが俺はもう二度と返信できない。
「やっぱ黄城が1番か……」
獅堂は下品な笑みを浮かべながら、独り言のようにつぶやいた。その目には恋愛感情なんてものは欠片も感じられない。獲物を見つけた肉食獣みたいな欲望が浮かんでいた。獅堂の中で女子は一人の人間ではなく「欲しい物」でしかないらしい。
そして獅堂は欲しいと思えば相手の意思など関係なく奪おうとするだろう。俺の場合で言えば命を奪われた。泉羽だって例外じゃない。力ずくで従わせようとするかもしれない。そんなことがこの現代であっていいはずがない。
こんな危険すぎる人間が普通の顔をして学園へ通っている事実が信じられなかった。なんでこんな奴が何のおとがめもなく高校生をやっていられるんだよ。怒りと悔しさが入り混じり、意識だけの俺は奥歯が砕けそうなほど強く食いしばった。
獅堂はポケットから新しい煙草を1本取り出し、慣れた手つきでライターを鳴らす。深く煙を吸い込みゆっくり吐き出した。
そのときだった、鋭い笛の音が校庭に響く。獅堂の視線が自然とプールの方へ移った。水泳部の練習が始まったらしい。部員たちが一斉に飛び込み水しぶきが夕日に照らされて白く光る。あの古いトイレはプールのすぐ脇だ。水泳部員たちはすぐ近くに俺の死体が隠されているなど夢にも思っていない。
すると一人の男子部員が突然腹を押さえながらプールサイドを飛び出した。苦しそうに顔をしかめ、水着姿のまま前かがみになって走っている。両手で腹を押さえながら必死に足を動かしていた。その様子を見ればただ事ではないことは誰の目にも分かる。かなり切羽詰まっている。その進行方向を見たとき、フェンスを握る獅堂の手へ一気に力が入った。ギシッと金網が軋む。
「おいおいおい、嘘だろ……」
男子生徒が向かっている先には、俺の死体を隠した古いトイレしかない。彼は一直線にそこを目指して走っている。校舎内のきれいなトイレまで戻る余裕すらないのだろう。獅堂の顔からみるみる血の気が引いていく。口にくわえていた煙草を乱暴に地面へ叩きつけて叫んだ。
「ざけんなよっ!」
獅堂は屋上の扉へ向かって全力で駆け出した。鉄扉を勢いよく開け放ち、階段を転げ落ちそうな勢いで一段飛ばしに駆け下りていく。足音が激しく響いた。手すりを乱暴につかみ、体を投げ出すように階段を曲がっていく。その姿からは余裕という言葉が完全に消えていた。
校舎裏で学園長に声をかけられたときとは比べものにならないほど獅堂は焦っていた。そしてデスゲームに負けることを恐れていた。その現実が目の前に差し迫り本気で怖がっていた。さっきまで余裕たっぷりだった男が、今は呼吸を乱し、何度も足をもつれさせながら必死に走っている。追い詰められているのは俺じゃない。獅堂の方だった。
あの男子生徒が古いトイレへ入れば、俺の死体が見つかる確率は2分の1。手前の個室へ入れば俺の死体と鉢合わせになる。鍵はかかっていない。ドアを開けた瞬間、壁へもたれかかる俺の姿が目に飛びこんでくる。真っ青になった俺の顔を認識した瞬間、このデスゲームは終わる。勝者は俺だ。




