第3話 公平公正だから
「もう授業は始まってますよ」
そこに立っていたのは学園長だった。細身の六十代くらいの女性。黒いショートヘアはきれいに整えられ、細い銀縁の眼鏡が知的な印象を与えている。白地に控えめな花柄の入った上品な服装は、この暑い夏でもどこか涼しげだった。静かな笑みを浮かべて立っているだけなのに、不思議とその場の空気が変わる。学園長という肩書きだけでは説明できない存在感がその場を静かに支配していた。
どの場面から見ていたのだろうか。恐らくいま来たばかりという感じだ。少なくとも獅堂がスコップを取りに行こうと漏らしていた独り言は聞かれていない。でもここで学園長が獅堂を不審に思ってくれれば俺の死体は見つかる。そんな希望が胸の奥で静かに膨らみ始めた。
「ここで何をしてるんですか?」
学園長は穏やかな口調のまま尋ねた。獅堂を問い詰めるような鋭さはない。本当に何気ない質問だった。それなのに獅堂の体はぴたりと固まっていた。さっきまで余裕たっぷりだった男とは別人だ。返事をするまで一瞬の間が空く。その沈黙で獅堂が動揺していることは十分伝わってきた。
学園長はそんな獅堂の様子を気にするでもなく、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。一歩、また一歩と、一定の歩幅で距離を縮めてくる。そのたびに俺の期待も少しずつ膨らんでいく。あと少しだ。茂みのそばまで来て俺を見つけてくれ。
「この辺にスマホ落としちゃったんすよ」
そう言って獅堂はしゃがみ込む。俺の体を茂みのさらに奥へ乱暴に押し込んだ。意識はあっても死んでいる俺には抵抗できない。枝が制服へ引っかかり、葉や草が顔へ覆いかぶさる。
学園長は俺の死体のすぐそばまで来た。しかし茂みを乗り越えなければ横たわる俺の姿は見えない。俺は学園長に向かって念を飛ばす。どうか茂みを乗り越えてください。お願いだから俺に気づいてください。そんな俺の願いとは裏腹に学園長の足は茂みの前で止まったままだ。見えない線でも引かれているかのようにそれ以上こちらへ近づこうとはしなかった。
獅堂は俺のスマホを学園長へ見せつけるように拾い上げる。そのスマホはついさっき自分で何度も踏みつけ、半分に割って壊した俺のスマホだ。それなのに獅堂は、探していた自分のスマホを今ようやく見つけたとでも言いたげな顔で平然と演技を続ける。困ったように苦笑しながら肩をすくめるその白々しい芝居に吐き気を覚えた。
「壊れちゃったみたいっす」
獅堂の乾いた作り笑いが校舎裏に響く。その笑い声を聞くだけで腹が立つ。高笑いしながら俺を殴り、最後は首を絞めて殺した凶悪犯罪者のくせに。スマホが壊れた不運な被害者みたいな顔をしやがって。こいつは完全にサイコパスだ。一切悪びれることもなく平然と嘘をつき他人を騙す。
「スマートフォンは持ち込み禁止なんですけどね」
学園長は穏やかな口調で言った。怒るでも疑うでもなく、事実を確認するような言い方だった。その落ち着きが逆にもどかしい。なぜ授業中に普段生徒があまり通らない校舎裏にいるのか。なぜ桜並木の下の茂みでスマホを探しているのか。どう考えても不自然な状況だ。少しくらい問い詰めてもいいはずだった。佐藤先生なら間違いなく事情を聞き、そのまま生徒指導が始まっている。
茂みの中に死体が隠されているなんて誰も思わないだろうが、少なくとも茂みに何らかの違和感を持ってほしい。しかし学園長は必要以上に踏み込もうとしない。獅堂の説明をそのまま受け入れるような態度だった。
「マジっすか。今知りました。明日からちゃんと家に置いてきます」
「そうしてください」
普段は教師へ反抗し、注意されても聞く耳すら持たない不良が、こんなときだけ素直な生徒を演じている。もちろん獅堂は校則に従うつもりなどない。この場を切り抜けるためならどんな嘘でも平然と口にするのだ。
会話はそのまま終わろうとしている。まずい。このまま学園長が立ち去れば、俺の死体は埋められ誰にも見つからない状態になってしまう。
「明日はここ一帯、伐採予定なんです。ソメイヨシノ。大体八十歳くらいなんですが、寿命と診断されました。もし台風が来ると倒れる危険性があると」
学園長は桜を見上げながら静かに言った。その横顔はどこか寂しそうだった。長年この学園を見守ってきた桜なのだろう。ただの木ではなく、一緒に歳月を重ねてきた相手へ別れを告げるような表情だった。風が吹くたび枝葉がさらさらと揺れ、木漏れ日が学園長の肩へ落ちる。
獅堂は「なんか切ないっすね」とそれっぽい相槌を打つ。足元へ俺の死体を隠している男が、桜の寿命に同情するふりをしている。その白々しさに対して無性に腹が立った。
「……だから桜とお別れをしておこうと思って。そっちに行ってもいいですか」
その一言を聞いた瞬間、俺は止まったはずの心臓が再び動き出すような錯覚を覚えた。学園長が茂みを乗り越えようとしている。俺の死体が隠されている場所へ自分から近づこうとしている。俺の死体は茂みの中へ押し込まれているとはいえ、人一人を完全に隠しきれるほど深い茂みじゃない。学園長でも俺の死体があることに気付くはずだ。
デスゲームはあまりにもあっけない幕切れを迎える。本気でそう思った。俺の胸は期待で激しく高鳴る。今度こそ、今度こそ……。この理不尽な戦いが終わる瞬間は、もう目の前まで来ていた。
学園長が茂みを越えようと足を上げたそのとき、獅堂が突然大きな声を上げた。
「ってぇ……!」
「どうしましたか!?」
学園長は驚いて反射的に足を戻した。獅堂は苦しそうに顔をしかめ左手を押さえていた。その手の平からは血がぽたぽたと地面へ落ちている。かなりの量だった。鮮やかな赤が土へ吸い込まれていく。獅堂は「ぅぅっ……」と喉の奥からうめき声を漏らし呼吸を乱す。
「壊れたスマートフォンで切ったみたいっす……」
震えるような声だった。俺はすぐに理解した。自分で切ったのだ。割れたスマホの鋭い破片を利用して意図的に傷を作った。茂みを越えようとする学園長を引き戻すために。傷口は決して浅くない。そこまでして死体を隠そうとする執念に少し寒気がした。
しかもその芝居は驚くほど自然だった。何も知らない人間が見れば本当に動けないほどの激痛に苦しんでいるように見える。学園長は茂み越しで心配そうに獅堂の手をとった。
「保健室まで行きましょう」
「痛すぎて動けないっす。山下先生、呼んできてもらっていいすか」
山下先生とは保健室にいる養護教諭だ。その弱々しい声には一人でいるときの乱暴さがない。助けを求める普通の生徒だった。演技だと知っている俺でさえ騙されそうになるほどだ。獅堂龍辰という男は腕力だけではない。必要とあれば平然と自分を傷つける。その事実が俺には何より恐ろしく思えた。
「分かりました。ここで待っていてください。呼んできますから」
学園長は校舎へ向かって小走りで去っていく。足音が少しずつ遠ざかる。その背中が小さくなったとき、獅堂の苦しそうな表情は仮面を外したように消え失せた。痛みに耐えていたはずの顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。演技は終わったのだ。
首へ掛けていたタオルを外し、手際よく左手へ巻き付け止血する。その動作には迷いがなかった。それから周囲を素早く見回し人影がないことを確認した獅堂はしゃがみ込んだ。俺の体を肩へ担ぎ上げる。両腕が力なく揺れた。自分の死体を客観的に見るのはどこか現実感がなかった。
獅堂は茂みを乗り越えた。そして校舎裏の通路を走る。その勢いに合わせて俺の体も揺れる。大胆な行動だった。途中で教師と鉢合わせる可能性もある。教室の窓から生徒が見ていたり、用務員さんと出くわすかもしれない。それでも獅堂は賭けに出た。
先ほどの茂みに俺を置いたままでは、学園長と山下先生が戻ってきた時点でゲームオーバーだ。その未来だけは何としてでも避けたかったらしい。危険を承知で俺の死体を移動させる。俺は肩に担がれながら、こいつが思っていた以上に厄介な相手なのだと思い知らされた。しかし獅堂がピンチであることに変わりはない。
「明日伐採とかタイミング悪すぎだろ」
獅堂は息を切らしながら吐き捨てた。焦りが声に滲んでいる。
「いやぁ、デスゲームはこうでなくちゃ。勝負はここからだ。そうだろ、灰守」
神は上機嫌だった。獅堂が焦れば焦るほど、あるいは俺が追い詰められるほど、神は楽しそうに笑う。こいつにとって人間の命はゲームにする程度の娯楽でしかないということだ。しかしあまりにも出来すぎていた。獅堂が言う通りタイミングが絶妙すぎる。明日が桜の伐採日で、しかも学園長が偶然この場所へやって来る。これを偶然という一言で片付けるのは難しい。俺は神に質問する。
「お前が仕組んだのか?」
「違う違う。本当に偶然だよ」
神はあっさり否定した。その言葉をどこまで信用していいかは分からない。本当だとしたら運で勝敗が決まると言うことだ。あと少し学園長が来るのが遅ければ俺は土の中だったし、逆にもう少し早ければ茂みの中の俺はあっさり発見されていた。戦略も頭脳も関係ない。俺の勝利に必要なのは幸運ということになる。つまるところ、史上最低のクソゲーということだ。
それにしても獅堂は俺をどこへ運ぶつもりなのか。景色が一定のリズムで流れていく。俺の頭は獅堂の背中へ何度もぶつかった。痛みはない。それが逆に荷物として運ばれているみたいだった。誰ともすれ違う気配はない。
しばらく何も話さず静かにしていた神が、突然笑い始める。面白い冗談でも聞かされたみたいに、ケラケラと無邪気に笑っている。その様子から察するに、獅堂と会話していたのだろうと思った。会話の内容などひとつしか思い浮かばない。俺の死体をどこへ運ぶつもりなのか、だ。
その答えが神にとってよほど面白かったのだろう。人の死体の隠し場所を聞いて笑えるなんて、やはりこいつはまともな感性を持っていない。
「どこに運ぶって?」
「それは教えられないなあ。神はどちらの味方でもない。公平公正だから」
なにが公平公正だ。獅堂は好きなように作戦を立てられ、好きな場所へ死体を運び出せる。一方の俺は視界ジャックをしながら見ていることしかできない。逃げることも助けを呼ぶこともできない。この無茶苦茶なゲームに公平も公正もあったものじゃない。もっとも、ここで文句を並べたところでどうせ何も変わらない。今さらルールを書き換えてくれるほど親切な存在ではないことくらい分かっていた。
俺の目の前に浮かぶ赤いデジタル表示は、容赦なく1秒ごとに残り時間を削っていく。現在時刻は14時31分。残り時間『33時間29分』。俺が何もできず見ている間にも、獅堂は着実に勝利へ近づいている。そう思うだけで胃が重たくなる。だが焦ったところで状況は何一つ変わらない。また必ずチャンスは来る。どこかで綻びは生まれる。その瞬間を信じて待つ。
俺は獅堂の視界を通して周囲の景色へ意識を向ける。学園の地図を思い浮かべた。どこなら死体を隠し通せるか、獅堂の立場になって考える。この先にあって生徒も教師も誰も寄り付かない場所……。
そのうち何となく察しがついた。確かに誰かが発見する可能性は限りなく低い。死体を隠すには最適だろう。そこはこの学園で唯一、目を背けたくなる場所だった。




