第21話 バァァァァカッ!
真夏の夜。豪雨の中、今頃警察は深い森の奥を捜索していることだろう。雨水で洗い流された足跡を必死に追いかけ、見当違いの場所を懐中電灯の光で照らし続けている。しかしそこに獅堂はいない。獅堂は学園にいる。それとも既に捜索を打ち切っているのかもしれない。
どちらにせよ、俺の負けが決定したわけだ。俺を見つけに来る人はいない。圧倒的な絶望が俺の意識を塗りつぶしていく。
獅堂は職員室の窓を割って中に入った。ガラスの砕け散る音が響き、雨風が職員室の中に吹き込んだ。壁のスイッチを押して電気をつけると、白い蛍光灯がチカチカと点滅しながら無人の室内を照らした。
獅堂は先生たちの引き出しを次々と開けていく。何かを探しているようだ。ときには引き出しの中身を床にぶちまけ、散らばった文房具を乱暴に蹴散らしていく。その身勝手な行動を見ても、俺は全く驚かない。怒りすらわかない。こいつはそういう奴なのだ。
獅堂は俺たち1年A組の担任である佐藤先生の机をあさる。そして大きなクリップを見つけて手に取った。書類をまとめるアレだ。しかし、銀色に光る金属のクリップを何に使うというのだろうか。
獅堂はそのクリップに力を込め、曲がった先端をまっすぐにした。それはどこかで見たことがある光景だった。図書室の視聴覚コーナーで見た刑事映画、その中に登場した連続殺人犯と同じことをやっていた。要するにクリップを使って手錠の鍵穴を解除したいわけだ。そんなやり方が現実で通用するとは思えないのだが。
俺は半信半疑のまま視界ジャックを続け、その汚れた手元を見ていた。うまくいくわけない。
結論から言うと、獅堂はやってのけた。15分程度で手錠は解除できた。ガチャリという金属音が鳴り、両手を拘束していた鉄の輪が床に転がり落ちる。映画の知識を現実に持ち込み、力技と執念でやり遂げてしまった。
両手首には手錠の擦れた痕が残っている。皮膚は擦りむけ、ところどころ血がにじんでいた。それでも獅堂は痛みなど微塵も感じていないようだった。解放された両手を握ったり開いたりして、指が自由に動く感触を確かめている。逃走に成功し、警察を出し抜き、手錠を解除し、口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。勝ち誇った表情を隠そうともしなかった。
「チョレぇんだよ!」
夜の職員室に獅堂の笑い声が響く。その一言には警察への嘲笑も、社会を見下すような意味合いも混じっていた。結局はこうやって悪人が報われてしまう。人を殺した奴が笑い、逃げ延びて勝ち誇る。一方で俺のような人畜無害な人間が死に、存在まで消されようとしている。要するに、善人であるほど損をするのがこの世界の真実なのだ。
なぜ神はこんな風に世界を設計したのか。そんなことはこのデスゲームの主催者を見ていればわかる。理不尽な世界の方が見ていて面白いからだ。神は最初から良い世界を創りたかったわけじゃない。人が苦しみ、足掻き、絶望する姿を眺められればそれで満足なのだろう。ふざけやがって。
それから獅堂は廊下に備え付けられた水道へ近づき、蛇口を勢いよくひねった。冷たい水が音を立てて流れ出し、水飛沫が周囲へ飛び散る。廊下が濡れてもお構いなしだ。獅堂は両手を流水に突っ込み、泥と血で汚れた手をこすり合わせた。茶色く濁った水が排水口へ流れていく。
しかし次の瞬間、獅堂の表情が険しくなった。鼻をしかめ、反射的に顔を背ける。もう一度ゆっくりと蛇口へ顔を近づけると、水の匂いを確かめるように鼻をひくつかせた。そして嫌悪感を隠そうともせず、蛇口から流れる水をにらみつける。
「くっさッ!」
俺の腐敗が進んだ結果、菌が水道水に混入したのだ。実際、俺の死体は真夏の熱気で急速に腐敗し、体内には大量の腐敗ガスが溜まっていた。そのせいで膨れ上がった死体は高置水槽の底から浮かび、水面にぷかぷかと浮いている。
水槽の水は俺の死体に長時間触れ続け、腐敗臭が染みついてしまったのだ。つまり今、蛇口から流れ出ている水は俺の死臭を運んできているようなものだった。
ひどく惨めだった。情けなかった。自分が人から顔をしかめられる汚物にまで成り下がってしまった現実を突きつけられていた。それでも獅堂を少しでも不快にさせられて、ほんの少しだけ胸がスッとした。俺にできる反撃はこんなことしか残されていなかった。
手を洗った後、獅堂は屋上に向かって歩き出した。外ではさらに雨が激しく打ち付け、空を引き裂くように雷も鳴り出した。強烈な閃光が窓ガラスを一瞬白くする。数秒遅れて腹の底に響くような轟音が轟く。階段を一段飛ばしでのぼる足音が、暗い校舎内に響き渡る。その足取りはどこまでも軽く、勝利を確信した人間の余裕に満ちていた。
屋上の扉を開くと、はしごをのぼって俺の沈んでいる高置水槽の上にあがった。容赦なく吹き付ける強い雨風に煽られながらも、獅堂は高置水槽のふたを開ける。膨張して黒みを帯び始めた俺を見下ろす。
「何だよ、浮いてんじゃねぇか。すくい上げる手間が省けたわ。そんなに俺の勝利を祝いたかったのかよ!」
そう言って俺の体を水槽の中から引き上げた。腐敗の進んだぶよぶよの肉に指を食い込ませ、乱暴に水面から引きずり出す。大粒の雨が降り注ぐ。
獅堂は俺を軽々と担ぎ上げた。そのまま梯子を下りると思ったら、高置水槽の下に投げ捨てた。俺の体は無様に宙を舞い、10メートルの高さから落下してコンクリートに叩きつけられる。グシャリという鈍い音が鳴り骨が折れた。意識だけの俺に痛みはない。それでも屈辱的だった。またもや俺の尊厳は踏みにじられた。
獅堂は普通にはしごを下りてくる。俺の体は壊れた人形のようにあらぬ方向へと折れ曲がっていた。獅堂はそんな俺の死体を肩へ抱え「くせぇんだよ、お前」と愚痴をこぼす。
俺をどこへ、何のために運ぶのかは分からない。もう勝負はついている。デスゲームは俺の負けで終わる。それなのに、まだ俺の死体を動かす理由が分からなかった。
屋上を出て、獅堂は4階にある教室の前で足を止めた。俺が毎日通った1年A組の教室だ。獅堂は引き戸を開けて中へ入る。壁のスイッチを押す。パチンという乾いた音とともに蛍光灯が教室を照らし出した。俺の体がこの場所へ来たのは昨日の午前以来だった。
獅堂は窓際までゆっくり歩いていく。そして俺の机の前で足を止め、俺の死体を椅子へ座らせる。首は力なく前へ垂れ下がり、両腕は机の上へだらりと投げ出された。
「感謝しろ。最後はここで、お前が消える瞬間を見届けてやる」
獅堂は俺の隣にある泉羽の席へと腰をおろす。泉羽は今頃、何をしているだろうか。俺のことを心配してくれているだろうか。もしかしたら涙を流してくれているかもしれない。なんて妄想を繰り広げ、俺の口から自嘲気味な笑いが漏れた。
この世から消える前に、最後に一目だけ泉羽を見たい。そう思ったところで無意味なんてことは痛いほど分かっている。そんな願いはかなわない。奇跡が起きないことは、この理不尽なデスゲームが十分に証明してくれた。だから俺のことはもういい。
とにかく泉羽には幸せになってほしい。俺のいない世界で笑って生きていってほしい。それが俺の唯一の願いだ。できることなら、泉羽を幸せにするのは自分でありたかった。泉羽を守るのは俺の役目だと思っていた。でも、告白する勇気を持てなかったのは俺自身だ。心地よい距離感を失うのが怖くて逃げていた。
現在時刻は23時46分。視界に浮かぶデジタルは、残り時間『00時間14分』を刻んでいる。ゲームオーバーの瞬間がすぐそこまで迫っていた。赤い文字が血のように生々しく、暗闇の中で規則的に点滅を続けていた。数字が1つ減る。そのたびに、残された俺の人生が失われていく。たった1秒なのに、その1秒が重かった。数字が減るたびに何かが削り取られていくような感覚がある。
もう運命を変えることはできない。どれだけ願っても、どれだけ足掻いてもダメだった。結局、俺には何もできなかった。あぁ、なんて最悪な結末だ。こんなに惨めな終わり方があるだろうか。神の悪ふざけに付き合わされた挙句、本来失われるはずの無かった命が奪われ、俺は何もできないまま自分の消滅を待っている。あまりに救いがなさすぎた。
「あぁ、神よ。俺に最後のチャンスを与えてくれないだろうか……」
雷が光った。窓の外が一瞬だけ昼みたいに白く染まり、次の瞬間、鼓膜を押しつぶすようなゴロゴロという音が校舎全体を揺らした。教室のライトが消える。停電だ。また俺は暗闇に飲み込まれた。目を開けているのか閉じているのかさえ分からなくなるほどの暗さだった。何も見えない。
静まり返った空間に、ククッ、クククッ、と喉を鳴らすような低い笑い声が響く。その声は暗闇の中でゆっくり大きくなっていく。やがて獅堂は声を抑えることすらやめた。狂ったような笑い声が教室いっぱいに広がり、壁にぶつかって何度も反響する。
その声を聞いているだけで、背中に冷たいものが走った。獅堂は俺の胸ぐらを乱暴につかんだ。制服の襟元がぐしゃりとつぶれる。力の入らない俺の体は簡単に引き寄せられた。抵抗しようとしても腕には力が入らない。体を支えることすらできず、ただ獅堂に引っ張られるままだ。
獅堂の生ぬるい息が俺の顔へかかった。ひどく不快だった。俺は半開きになった目で獅堂を見上げる。暗闇の中でも、すぐ目の前にある表情はハッキリと見えた。自分が勝ったと信じ切っている人間の顔がそこにはあった。嫌な笑みだった。
「灰守、俺の勝ちだ! てめぇが俺に勝てるわけねぇんだよ! バァァァァカッ!」
獅堂は吐き捨てるように叫ぶと、俺の胸ぐらから手を離した。支えを失った俺の体はぐらりと揺れ、そのまま机へ突っ伏した。机の硬い感触が顔や腕へ伝わる。
獅堂はポケットへ手を入れ、タバコの箱を取り出した。箱を軽く振って1本を取り出し、口にくわえる。それからライターを取り出し、親指をホイールへかける。
そのときだった。突然、廊下の向こうから切羽詰まった足音が響いてきた。ダンッ、ダンッ、ダンッ! 静かな夜の校舎だからこそ、その音は異様に大きく聞こえた。遠くにあったはずの音が、1歩、また1歩と近づいてくる。
獅堂は視線を教室の入り口へ移した。何者かがこの教室へ向かっているのは確かだ。刑事だろうか。しかしなぜ今になって。分からない。獅堂が警戒心を強める。
そして次の瞬間、そいつは教室の中へ飛び込んできた。足を止めて、荒い呼吸を繰り返している。走り続けてきたせいで、すぐには息が整わないらしい。教室の中は暗い。そいつが入口に立っているのは分かるが、顔まではハッキリと見えない。輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
それでも俺は、そいつが誰なのかすぐに分かった。胸の奥で何かが強く反応した。間違えるはずがない。教室へ飛び込んできたそいつは……。




