第15話 燃やすか
数秒後、下から鈍い音が聞こえた。獅堂は何事もなかったように高置水槽横のはしごを下りていく。視界ジャック越しに見える業者さんは、まだわずかながら動いていた。苦しそうに身体をよじり、声にならない声を漏らしている。
俺は彼が生きていることに安堵した。しかし同時に、まだ生きていることが彼にとって苦しみを延長させてしまっているように思えた。身体中に激痛が走っているだろうし、呼吸するだけで苦しいはずだ。今すぐ救急車を呼べばまだ間に合うかもしれない。しかしここには獅堂しかいない。獅堂が救急車を呼ぶはずがなかった。ぎりぎり助かる可能性があるという事実はかえって残酷だった。
「どうしてっ……?」
かろうじて絞り出された言葉だった。なぜ自分が突き落とされなければならないのか。当然の疑問だった。出会ったばかりで、業者さんは獅堂に優しく接していた。冗談まで言い合っていた。その相手に背中を押されるなんて想像できるはずがない。
「デスゲームの最中なんで。運が悪かったっすね」
デスゲームと言われても、業者さんからしたら意味が分からない。獅堂はそれ以上の説明をすることなくポケットから煙草を取り出した。ライターの火が小さく揺れる。煙を吐き出す横顔には、一仕事終えた後の気だるさすらあった。罪悪感の類は一切ない。警察に捕まるかもしれないという焦りも見受けられない。獅堂にとって暴力や殺人はハエをたたくくらいの認識でしかないのだ。
「だっ、誰かっ……」
業者さんの声は弱々しかった。至るところの骨が折れているだろうし、内臓を損傷しているに違いない。
神ならこの人を救う力を持っているはずだ。傷を完治させるくらい、神なら平然とやってのけるだろう。だが俺が神に訴えたところで無駄なのは分かっている。神はデスゲームに無関係な人間であっても救ってくれない。警備員のときもそうだった。あのときも神はただ見ているだけだった。
神にとって人の生き死にはどうでもいいのだ。むしろ今もどこかで笑みを浮かべながらこの光景を眺めているだろう。人間が苦しみ、絶望し、死んでいく様子を娯楽として消費している。でなければデスゲームの主催なんてやるはずがない。
俺がデスゲームに参加しなければ、メンテナンス業者の男性はこんな目に遭わなかった。警備員2人も死ななかった。そう考えると、デスゲームに参加してしまった自分に対しても責任を感じる。真っ当に働いている善良な人たちまで巻き込んでしまった事実が重くのしかかる。
そもそも神がデスゲームなんて始めなければよかったのだ。いや、獅堂が俺を殺さなければよかった。獅堂さえいなければ、誰も傷つかずに済んだ。みんな当たり前の日々が続いていた。考えるほど胸の奥が締め付けられるようだった。
業者さんが大きく咳き込んだ。苦しそうに体を丸め、肩が激しく上下する。次の瞬間、口元から赤いものがこぼれた。吐血だった。作業着に赤い色が染み込む。
「だっ、誰かっ……、たすけ――ッ!?」
獅堂は業者さんの首元を足で踏みつける。業者さんは必死に獅堂の足を押しのけようとした。でも落下の衝撃でまともに動けない体ではどうしようもない。
「誰も来ねえよ、こんなとこ」
悲しいことに、獅堂の言う通りだった。授業中のこの時間に屋上までやって来る人はいない。授業中じゃなくても滅多に人は来ない。
「知ってっか、少年法第51条。犯行時に18歳未満の少年に対しては、死刑を科すことはできない。要するに、何人殺そうが死刑にはならねぇ」
獅堂は得意げに公民の授業で習った知識を披露する。雑学でも披露しているような口調だった。俺の記憶が正しければ、16歳でも刑事裁判となり刑罰が科されることはあるという。しかし多くの場合、年齢や更生可能性などが考慮される。少年法は未熟な子供を守り、更生する機会を与えるためのものらしい。
本来は人生をやり直すためのその制度を、獅堂は自分を守る盾として利用するつもりなのだ。獅堂にはそもそも反省という考え自体がない。罪を償うなんてことは発想すらしない。あるのは自分がどうすれば損をしないか、それだけだ。
「しかも少年法第61条ってのがあってな。16歳の少年は、氏名や顔写真など本人を特定できる情報の報道が禁止されてる。まあ今の時代、SNSで拡散されるからあってもなくても同じだけど。でも俺の場合、それがむしろプラスに働く。なぜだか分かるか?」
「たっ、す……けっ……」
「俺の話をちゃんと聞けよ、オラァッ!」
獅堂はギリギリ窒息しない程度の力を込めて、業者さんの首を踏みつけた。業者さんの口から、かすれた声が漏れる。唇の端には泡が浮いていた。獅堂は業者さんの反応を確かめながら足へ力を込めたり抜いたりしている。
業者さんが苦しそうに空気を求める。その姿を見下ろしながら、獅堂は笑みを浮かべて煙草の煙を吐き出していた。虫の羽をむしって遊ぶ子供みたいな残忍性を、人に対して発揮していた。獅堂にとってこれは尋問でも脅迫でもない。もう業者さんを殺すことは決まっていて、ただ楽しんでいるだけなのだ。
その異常性が恐ろしかった。人を殴ること、苦しませること、殺すこと。そのすべてが、獅堂にとっては日常と同じ地平に並んでいるように思えた。
「就職先はヤクザと決めてる。あっちの世界じゃ、3人くらい殺しといた方がハクがつくってもんよ。そういう意味じゃ、あんたは俺の養分だ。アハハハハハ」
獅堂は笑いながらそう言って、踏み込む足にさらに力を込める。業者さんは必死に抵抗しようとしていたが、指先がわずかに動くだけだった。
俺はもうこんな状況を見ていられなかった。何もできずに見ているなんて耐えられない。さっきまで俺は自分が勝つことだけを考えていた。正直、勝つことが何より大事なことだと思っていた。でもそれは間違っていた。何の罪もなく、ただデスゲームに巻き込まれたこの人は、絶対に救うべきだ。
頼れる相手はあいつしかいなかった。俺は神へ意識を向ける。
「神、デスゲームは俺の負けでいい。だからこの人を助けてくれ!」
もう自分の勝利なんてどうでもよかった。目の前で苦しんでいる人を助けられるならそれでいいと思った。デスゲームに負けて俺が消えることになっても構わない。そう思えるほど、今の俺には業者さんの命の方が重く感じられた。なぜなら業者さんは生きているから。それ以上の理由はなかった。
「うーん……」
神はすぐには答えない。考えているようだった。実際、これで負けるなら仕方ない。既に死んだ俺の存在が消えて済むならそれでいい。何もしないまま目の前の命が消えていくのを見ているよりはずっとマシだ。
「早く業者さんを助けろ! 死ぬぞ!」
神の沈黙する数秒がやけに長く感じられた。俺との取引を飲んでくれるかもしれない。そんな期待が膨らんだとき、神は口を開いた。
「やっぱりダメだね」
「はぁ!? ふざけるな! ルールの解釈なんてお前次第だろ!」
「だってここでデスゲームが終わったら、面白くないじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。俺は神に怒鳴った。頭に血が上って、何と言っていたかも覚えていない。怒りで声が震え、汚い言葉が次々と口から飛び出した。それでも神の声はどこまでも平坦だった。俺がどれだけ声を荒らげても何も感じていない。エラーメッセージみたいに、ただ「できない」と告げるだけだった。
どこまでいっても、神にとって全ての人間はゲームを面白くするための駒にすぎなかった。人間が傷つこうが、死のうが、ゲームを盛り上げるなら構わない。そのスタンスが崩れることはなかった。そして神がルールを司る以上、俺は従う他ない。
業者さんの身体は動かなくなり、息を引き取った。業者さんの眼には確かな怒りと獅堂への殺意がこもっていた。当たり前だ。意味の分からない理由で突き落とされ、命を奪われたのだ。
獅堂はその場へ座り込み、業者さんの顔に向かって煙草の煙を吐き出した。既に命を終えた業者さんの目は閉じることもなく、涙が1滴流れた。
俺は自分が獅堂に殺されたときのことを思い出していた。気づけば俺も泣いていた。あのとき俺の感じた恐怖も怒りも殺意も、何一つ自分の中で消化できていなかったのだと気づかされた。
このまま獅堂の思い通りに終わらせてはいけない。俺にできることが何もないとしても、心まで折れてはいけなかった。ここで諦めたら、警備員2人の死もこの業者さんの死も無意味になってしまう。このデスゲームはもう俺1人の戦いじゃない。獅堂によって命を奪われた俺たち全員の戦いだった。
戦う意思を持たなければならない。俺にはその義務があった。たとえ身体が動かなくても、勝てる見込みが残されていなかったとしても、獅堂に復讐を果たさなければならないのだ。
獅堂の視線が業者さんのポケットへ向く。膨らみに気づいて、手を突っ込み財布を取り出す。中身を確認して紙幣だけを抜き取ると、空になった財布を乱暴に戻した。
どこまでも最低な人間だった。いや、もはや人間ではない。人間の皮を被った悪魔だ。そう思わなければ目の前の光景を理解できなかった。人を殺し、煙草の煙を吹きかけ財布をあさる。その一連の流れに対して吐き気を覚えた。こいつはもはや死ぬだけでは生ぬるい。俺を含めて4人分の苦しみを味わって地獄に落ちるべきだ。
「どうすっかな……、このおっさん」
屋上には生ぬるい風が吹いていた。獅堂はそんなことを気にする様子もなく、ポケットからライターを取り出した。
「燃やすか」
そう言って親指でホイールを回すと、シュッという乾いた音が鳴ってライターに火がついた。小さな炎が風にあおられて細く揺れた。風が吹くたびに炎の形が変わる。その横顔には迷いがなかった。というより好奇心に満ちていた。死体が燃えるのを見てみたい。そんな思いすらあるようだった。炎を見つめる獅堂の目には、これから起こることを楽しみにしているような、そんな危うい光が宿っていた。
信じられないが、獅堂は自分の手で殺した相手を本当に燃やそうとしているのだ。普通の人間なら思いつきもしない。仮に思いついたとしても実行できない。でも獅堂はこれまで、その境界線を簡単に飛び越えてきた。校舎裏で俺を殺して茂みの中に隠し、警備員を殺してプールに沈めた。
こいつが業者さんを屋上で燃やしても不思議はない。獅堂という男は、そういう狂った奴なのだ。感情に任せてどんなことでもやってしまえるクソ野郎なのだ。普通なら止まるはずの一線を軽々と踏み越えてしまう。
獅堂はライターの火をゆっくり業者さんへ近づけていく。その動作は異様なほど落ち着いていた。手元が震えるようなこともない。ただ炎の先端をじっと見つめながら、少しずつ距離を縮めていく。
あと少し。あと少しで炎が業者さんの服へ届く。俺は次に起こることを想像してしまった。燃え広がる炎。立ち上る煙。黒焦げになった業者さんの姿。
くそぅっ……。
俺がそんな言葉を吐いたとき、遠くからあの音が聞こえた。小さく、風に紛れてしまいそうな音だった。だが確かに聞こえる。その音は少しずつこの学園に近づいている。




