第14話 やめろ!
7月22日。現在時刻は午前9時45分。1限目が終わり、今は休み時間だ。一睡もできなかった。というより、死んだ俺には眠るという概念がないらしい。高置水槽の底に沈んだままでいると、自分が世界から切り離された場所に置き去りにされたような気分になった。こんな孤独を俺はこれまで味わったことがなかった。
まだ学園に警察は来ていない。今日来るのかも疑わしくなってきた。神によると、獅堂は普通に学園へ登校してきているらしい。でも俺は獅堂の視界ジャックをする気になれなかった。正直言って、やる気が失せていた。
昨日の13時にデスゲームが始まってから20時間45分が経過している。残り時間は『14時間15分』だ。ここからの逆転は現実的に考えて難しい。何もできないまま着実に時間は過ぎていく。見えない縄でじわじわと首を絞められているような気分だった。
そのとき、誰かがはしごを上ってくる音がした。もちろん一人しかいない。ギギギッと高置水槽のふたが開く。朝の日差しが水面を照らす。揺れる光の向こうに人影が浮かんだ。逆光で顔は一瞬よく見えなかった。それでも金髪の容姿で誰なのかはすぐに分かった。獅堂だ。
朝から見るにはあまりにも嫌な笑みが浮かんでいた。
「よぉ、チー牛。ちゃんと沈んでんな」
その顔を見ているだけで胃液が上がってくる感覚を覚えた。
「黄城が俺に聞いてきたぞ。てめぇがどこにいるか知らないかってな。三途の川で溺れてるんじゃねえかって言っといたわ。アハハハハ」
笑い声が高置水槽の中で反響する。
「ていうか、チー牛のくせに心配されてんじゃねぇよっ! 調子乗りやがって」
獅堂はひとしきり文句を言ったあと、吐き捨てるように鼻を鳴らした。俺が泉羽に心配されていることが気に入らないらしい。俺を殺したという事実さえ忘れたような態度だった。高置水槽の中を確認することにも飽きたのか、獅堂は興味を失ったようにふたへ手をかける。
また金属の擦れる鈍い音が響いた。さっきまで差し込んでいた朝の日差しが遮られ、水面へ落ちていた光も消える。俺自身の視界から見る景色は再び暗くなった。
やはり泉羽には相当な心配をかけてしまっているようだ。俺が家出なんてするタイプじゃないことは、泉羽も分かっている。俺の身に何かあったと考えているはずだ。でもだからといって、獅堂に殺されたとは考えない。ましてや死体を学園のどこかへ隠されたなんて想像するわけがない。もっと常識的な可能性を探す。つまり、泉羽が屋上の高置水槽まで探しに来るなんてことは起きえない。
それでも俺は、かすかな希望にすがってしまう。獅堂の不自然な行動を怪しんだ泉羽が、こっそり獅堂のあとをつけていないだろうか。高置水槽の上にのぼり、水面へ語りかける獅堂の姿を泉羽がドアの隙間から目撃していないだろうか。そんな都合のいい展開を頭の中で組み立ててしまう。
追い詰められた人間の性というやつかもしれない。可能性がほとんどなくても、ゼロではないと思いたくなる。分かっている。希望を抱いたところで最後に待っているのは絶望だ。期待すればするほど、何も起こらなかったときの苦しみは増す。だからもう、何も期待しない方がいい。奇跡は起こらない。奇跡なんてものは、人間が自分をごまかすために作り出したに過ぎない。
残り14時間と少し。もう何も考えないようにしよう。どうせ俺は指1本動かせない。自分でここから出ることも、誰かに助けを求めることもできない。いくら願っても、叫んでも、俺の声は誰にも届かない。このデスゲームは獅堂の勝ちで終わる。それが現実だ。そう思い込もうとした。そう思い込んでしまえばこれ以上傷つかずに済む。
怒りも恐怖も焦りも、長時間水に浸された紙みたいに輪郭を失っていく。獅堂への憎しみも、泉羽に会いたいという気持ちさえ、全部が遠くへ流されていくみたいだった。何かを感じることに疲れていた。無という感情が胸の奥で鉛みたいに重さを持っていく。怖いはずなのに怖くない。悲しいはずなのに涙も出ない。
それでも一応、俺は獅堂の行動を把握するため視界をジャックすることにした。青空には雲ひとつ浮かんでいない。真夏の日差しが容赦なく屋上を焼いている。熱を吸ったコンクリートの照り返しで空気が揺らぐ。はしごを下りると、獅堂は屋上を吹き抜ける熱風に顔をしかめた。直射日光を避けるように屋上の影へと移動する。
それからコンクリートの上へ大の字に寝転がった。背中へ伝わる硬さなど気にする様子もない。むしろようやく休めるとでもいう様子だ。首に巻いていたタオルを外すと、適当に丸めて頭の下へ敷いた。さらに首元にはネッククーラーも巻かれていた。少しでも暑さをやわらげようとしているらしい。
獅堂が目を閉じると、数分もしないうちに規則正しいいびきが聞こえ始めた。死体の沈んだ高置水槽のすぐそばでいびきをかきながら眠る。不安で神経が擦り減るみたいなことはないらしい。人殺しを日常の一部へ組み込んでいるかのようだった。
その無神経さに今さら腹は立たない。怒りを通り越して、なぜこんな凶悪な人間が生まれるのか純粋に疑問だった。生まれつきどこかの部品が欠けているのか、それとも育った環境がそうさせたのか。俺には分からない。でもだからと言って、こんな人殺しの凶悪犯が自由に生きていていいはずがない。
善人は報われ悪人は裁かれる、それは嘘だ。なぜなら殺人犯が授業をサボり屋上で眠り、被害者である俺は高置水槽の底に沈められデスゲームの残り時間を眺めているのだから。世の中、狂っているとしか思えなかった。
それから何も起きることなく2時間ほどが過ぎたとき、屋上の扉が開く音がした。時刻は11時40分を示している。残り時間は『12時間20分』。デスゲームの終了まで、あと約半日と迫っていた。
突然の物音に獅堂も眠りから引き戻される。さっきまで横になっていた体を不機嫌そうに起こし、まだ眠気の残った顔で屋上の入口へ視線を向けた。寝起き特有のぼんやりした目がその人物を捉える。俺も視界ジャックを通してその姿を確認する。屋上へ現れたのは見覚えのない男性だった。
白いヘルメットに作業着姿で、腰には工具がぶら下がっている。歩くたびに金属同士が小さくぶつかり、カチャカチャと音を立てていた。年齢は40代くらいだろうか。日に焼けた顔には少し無精ひげが目立ち、いつも外で現場作業をしている雰囲気があった。こんな場所へ一体何の用があるというのだろう。
「誰っすか……?」
「メンテナンス業者だよ。制御盤が高置水槽の異常を検知してね。中を見てみようと思って」
その言葉を聞いて寝ぼけていた獅堂の目が一瞬で覚める。視界ジャック越しにも獅堂の心臓が跳ね上がったのが分かる。
「異常ってなんすか」
「水位を測るための電極が折れてるのかもしれない。めったにそんなことないんだけど、経年劣化かな」
昨日の夜、高置水槽の中へ投げ込まれたときに折れたのは電極だったのだ。今も俺の死体のすぐ隣には、その折れた電極が転がっている。あのとき獅堂は、電極が折れたことなど気にも留めていなかった。水槽の設備を1つ壊したくらい、どうってことないと思っていたに違いない。けれど、あのとき起きた破損が、今になって俺へ大きなチャンスを運んできた。
希望を抱くのはやめようと決めた。何度も期待して、そのたびに裏切られてきた。だからもう何かを期待するのはやめたはずだった。それでも心臓が早鐘を打つのを止められない。勝てると思う気持ちがおさえられない。これが本当に最後のチャンスだろう。業者以外に高置水槽の中を覗く人なんて現れない。
「まぁ、見てみれば分かるさ。興味あるかい?」
「そっすね」
「じゃあついておいで、課外学習だ」
業者さんは笑顔を見せながら、高置水槽の横に設置されたはしごの方へ向かう。足取りは軽く、これから行う作業に慣れていることが伝わってくる。
獅堂は平静を装いながら、その後ろをついて行く。きっと頭の中はパニック状態だろう。今からまさに、高置水槽のふたが開けられようとしているのだ。水面をのぞき込めば、そこには俺の死体が沈んでいる。隠し場所として完璧だったはずが、自らのミスで目の前の業者を呼び寄せたのだ。
でもまさか、メンテナンス業者が来るとは予想外だった。業者さんに俺の死体を見てもらうのは忍びない。それでもこのデスゲームを俺の勝利で終わらせるためには見てもらうしかない。胸の奥で消えかけていた希望が、再び熱を取り戻す。今度こそ本当に終わる。そう思うだけで、何も感じなくなっていたはずの心が弾んだ。
「実は俺もここの高校出身でさ。たまに屋上で授業サボったもんだよ」
「へぇ、ダメじゃないっすか」
「はははははっ、君が言うか」
はしごを上りながら、業者さんは気楽な調子で笑った。まさかそのすぐ先に高校生の死体が沈んでいるなど想像もしていないのだろう。本人にとっては、ただ電極を確認して部品を交換するだけの仕事だ。
2人は高置水槽の上へたどり着く。眼下には校庭と校舎の屋上が広がっていた。窓の向こうで授業が行われているのも確認できる。世にも奇妙なデスゲームが行われているというのに、学園は驚くほどいつも通りだ。その当たり前の日常が今の俺にはうらやましくて仕方ない。
業者さんは「さてさて……」と独り言をつぶやきながら、何の疑いもなく水槽のふたへ手を伸ばした。その真後ろに獅堂が立つ。
「どいつもこいつも、俺の邪魔ばかりしやがって」
獅堂は業者さんに聞こえないくらい小さな声で吐き捨てた。その声には明らかな苛立ちがにじんでいた。
嫌な予感がした。こいつは昨日の夜、警備員を2人殺している。人を殺すことにためらいなどない。俺の死体が見つかりそうだから殺す。獅堂はそういう人間だった。
獅堂は業者さんの背中へ向かってゆっくりと手を伸ばす。
「やめろ!」
俺は叫ぶ。高置水槽の縁には転落防止の柵もない。今いる高置水槽の上から屋上のコンクリート地面まで高さ10メートルはある。突き落とされたら、ただごとでは済まない高さだ。打ちどころが悪ければ死ぬ。いや、悪くなくても十分死に至ってしまうだろう。
業者の男性は真後ろに立つ獅堂が背中を押すなんて思ってもいない。当たり前だ。まさかさっき初めて出会った母校の後輩に命を狙われているなんて思うはずがない。業者さんは談笑しながら高置水槽のふたを開けようとしている。獅堂は適当に話を合わせながら相づちを打っていた。だからこそ業者さんは背後を警戒することもなかった。
いよいよ高置水槽のふたが開くというそのとき、獅堂の手が業者さんの背中を押した。業者さんの体が前へ浮き、ふわっと宙に浮く。一瞬、時間が止まったように見えた。けれど現実の時間は進み続けている。業者さんは何かをつかもうと両手で空をかく。しかし、そのまま重力に引かれて落ちていった。




