第20話 森の気配
森の中は薄暗かった。
街道から少し外れただけなのに、空気が変わっている。木々が陽を遮り、地面には湿った土の匂いが残っていた。苔むした根が地面から盛り上がり、踏むたびにじわりと沈む感触がある。葉の隙間から差し込む光は細く、地面にまだら模様を落としていた。
風は弱い。
葉の擦れる音だけが小さく響いている。
リナは前を歩きながら辺りを見回した。
「思ったより普通だね」
「……ですね」
セイルは周囲へ視線を向ける。
静かだった。
静かすぎるくらいに。
⸻
少し進んだところで、セイルの足が止まる。
「……あれ」
地面に深い跡が残っていた。
何かを引きずったような跡。近くの木には、鋭い爪痕も見える。樹皮が削られ、白い木肌が剥き出しになっていた。
リナがしゃがみ込む。
「魔物?」
「たぶん」
少し先には、壊れた木箱が転がっていた。
荷車の積み荷だったのかもしれない。木片が散らばり、布袋は裂けている。中身は土に混じって、もう何だったのか分からなかった。
「結構暴れてるね」
リナが立ち上がる。
その時だった。
奥の茂みが揺れた。
低い唸り声。
セイルの表情が変わる。
「来ます」
ゆっくりと、大きな獣が姿を現す。
黒い毛並み。裂けた口の奥で、長い牙が覗いていた。四足の体は異様に細い。黄色い目だけが、じっと二人を見ている。足が地面を踏みしめるたびに、湿った土がぐずりと沈んだ。
「……大きいね」
リナが小さく言う。
獣は低く唸った。
その瞬間だった。獣が地面を蹴る。
重い衝撃。剣と牙がぶつかり、火花が散った。リナの足が少しだけ地面を滑る。
「うわ、ほんとに強い」
獣が再び飛び込む。横へ流れる。速い。
セイルの指先に熱が集まった。
足元じゃない。もっと上。顔の横へ。
考えたわけじゃなかった。手が先に動いていた。
火球が弾ける。獣の動きが止まる。一瞬だけ。
リナが踏み込んだ。剣が走る。毛皮の下へ刃が入り、赤黒い血が散った。
獣が大きく首を振る。咆哮。二人とも後退する。
セイルは息を整えながら、自分の手を見た。
どこへ撃てば届くか、なぜか分かった。
それだけだった。
だが、獣は倒れなかった。
大きく首を振り、血を撒き散らしながら体勢を立て直す。傷を負っているのに、動きは鈍くならない。むしろ低く唸りながら、さっきより重心を落とした。
リナが剣を構え直す。
「しぶとい」
獣が地面を蹴った。
今度は速い。さっきより明らかに速い。
リナが横へ流れる。だが、ぎりぎりだった。爪が服の端をかすめ、布が裂ける音がした。
セイルは迷わず火球を作る。
獣の視界を横切るように放つ。
ぱち、と乾いた音。獣の動きが一瞬だけ止まる。
そこへ、リナが深く踏み込んだ。
剣が今度は深く入る。獣が大きくのけぞり、重い音を立てて地面へ崩れ落ちた。
葉がゆっくり揺れていた。木々の間から差し込む光が、地面の血をぬらりと照らしている。遠くで鳥が一声鳴いて、それきり静かになった。
リナは剣を振って血を払う。
「この前のより強い」
「はい」
セイルは周囲を警戒したまま答える。
まだ何かいる気がした。
森の奥。
陽の届かない暗がり。
そこだけ空気が重い。湿った土の匂いの奥に、何か別の、獣臭いものが混じっていた。木々の幹が奥へ続くほど太くなり、枝が絡み合って空を塞いでいる。昼なのに、そこだけ夜みたいに暗かった。
「……まだいる?」
リナが小さく訊く。
セイルはすぐには答えなかった。
奥を見る。
嫌な感覚だけが残っている。
「分かりません」
小さい声だった。
二人はしばらく、その奥を見つめていた。
「……少しだけ、見に行きませんか」
リナが振り返る。
「珍しいね」
「気になります」
「うん」
リナは迷わなかった。
「行こう」
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