第2話 野に咲く花を、私は知っている
お嬢様は、華やかな方ではない。
けれど、庭師が折れた枝を気にしていれば足を止め、新しく入った侍女が失敗しても、人前では叱らずあとで静かに教える。
誰にも見られていない時ほど、丁寧に人へ接する方だ。
ルーファス様がお求めなのは、隣に置けばご自身まで立派に見える華なのだろう。
お嬢様は、そういう華ではない。
野に咲く花のように、目立たなくても、踏まれても根を残す。
園遊会の朝、お嬢様は鏡の前で小さく息を吐かれた。
「似合っているかしら」
藤色のドレスは、派手ではない。
けれど、お嬢様の静かな目元によく似合っていた。
「たいへんお似合いでございます」
「本当に?」
「はい」
「マリアは、何を着てもそう言うでしょう」
「事実しか申し上げておりません」
お嬢様は少しだけ笑った。
その笑みを曇らせてまで、誰かに見せる華になる必要はない。
しかし、ルーファス様はそうではなかった。
園遊会であの方の隣にいたのは、赤毛のイザベル・メイス男爵令嬢だった。
胸元には大きな宝石が輝き、声も笑顔もよく目立つ。
ルーファス様がお好みの華なのだろう。
「君は私の隣には相応しくない」
ルーファス様は、周囲に聞かせるための声でそう言った。
「私の隣に立つ女性には華が必要だ。君は少々地味すぎる」
私は一歩出そうとした。
額の位置を確認する。
距離は十分。
一歩踏み込み、転ぶふりをすれば届く。
「お嬢様」
「何かしら」
「転ぶふりをして、頭突きをしてまいります」
「本当に転ぶからやめなさい」
即答だった。
「まだ、しておりません」
「今後もしないでちょうだい」
「善処いたします」
「約束なさい」
それは難しい。
お嬢様に無礼を働く者が、今後二度と現れないとは限らない。
私は黙った。
お嬢様は小さくため息をつき、ルーファス様へ向き直った。
「ルーファス様は、ご自身の隣に置く女性を、華やかさで選ばれるのですね」
声は静かだった。
だが、揺れてはいない。
「これは社交における適性の問題だ」
「人を見る目よりも?」
ルーファス様の笑みが止まった。
私は少しだけ満足した。
お嬢様は大声を出さず、相手を辱めるために言葉を使うこともない。
それでも、必要な時には退かない。
「マリア、行きますわよ」
「はい、お嬢様」
私はあとに続こうとした。
その時、靴先が芝生の窪みに引っかかった。
身体が傾く。
まずい。
今回は、転ぶふりではない。
咄嗟に伸ばした手が、伯爵夫人の背へ触れた。
夫人が老子爵へ倒れ、老子爵の杖が卓の脚を打つ。
白磁の花瓶が揺れた。
水が宙へ飛び出す。
その先にいるのは、私だ。
避ける時間はなかった。
「マリア!」
お嬢様が動いた。
考えるより先に、私を抱き留める。
ご自分の身体を盾にして。
冷たい水が、お嬢様の藤色のドレスへ降りかかった。
私は、息をするのを忘れた。
お嬢様が濡れている。
私を庇って。
胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
――違う。
今するべきことは、感激ではない。
お嬢様のお怪我を確認することだ。
「お嬢様、お怪我はございませんか」
「あなたは濡れていない?」
先に聞かれた。
まただ。
この方は、ご自分より先に私を案じる。
「私は、お嬢様に庇っていただきましたので」
「なら、よかったわ。あなたが風邪を引いたら困るもの」
言葉が出なかった。
三秒ほど、動けなかったと思う。
その間に、宙へ放り出された花束がルーファス様へ向かっていた。
赤い薔薇。
白い百合。
黄色い小花。
祝福のために用意された花々。
ルーファス様は、それを見て胸を張った。
ご自身へ贈られるものだと思ったらしい。
最後まで、華を求める方である。
花束は優雅な弧を描き――
サクッ。
ルーファス様の頭へ刺さった。
一瞬、園遊会が静まった。
赤、白、黄色。
確かに華やかだった。
「まあ……頭が、お花畑……」
イザベル嬢の声が響く。
私は、お嬢様の袖を拭きながら思った。
華を求めた方が、ようやく花を得た。
ただし、頭の上に。
「誰だ! 誰がこのような無礼を!」
ルーファス様は怒鳴った。
「申し訳ございません」
そう申し上げたが、すぐにそちらへ行くつもりはなかった。
先に確認すべきことがある。
「お嬢様、本当にお怪我は」
「ないわ。あなたこそ、足は?」
「問題ございません」
「なら、よかった」
お嬢様は微笑んだ。
濡れたドレスのまま。
ご自分が笑われることより、私の足を気にしている。
ルーファス様は、この方を地味だと言った。
見る目のない方に、花を語る資格があるとは思えない。
やがて現れたエルデン伯爵は、息子の頭を見て数秒黙った。
「帰るぞ」
「父上、せめてこれを抜いてから」
「抜くな」
「なぜです」
「お前によく似合っている」
妥当な判断だった。
ルーファス様は、花束を頭に刺したまま連れていかれた。
黄色い花弁が一枚、ひらりと落ちる。
周囲で扇が一斉に開いた。
笑いを隠すための花が、園遊会に咲いた。
私はお嬢様の半歩後ろへ戻った。
「先ほどは、お止めいただいてありがとうございました」
「何の話?」
「頭突きです」
「本当に転んだでしょう」
「お嬢様のご慧眼には感服いたしました」
「感服する前に、足元を見なさい」
今日のところは、額を使わずに済んだ。
花束が代わりに届いたからだ。
お嬢様は、咲き誇る華ではない。
誰かを庇うためなら、自ら雨の中へ立てる花だ。
それを見落とした方が、何を頭に咲かせようと、私の知ったことではない。




