第3話 花のそばで、生きていく
婚約は、正式に白紙へ戻された。
ルーファス様については、エルデン伯爵がすぐに処分を決めた。
王都での社交を禁じ、領地へ戻す。
伯爵領は広大な花畑で知られており、春になると丘一面が色づくらしい。
「花を見て、人を見る目を養え」
伯爵はそう言ったという。
ルーファス様は、毎朝その花畑を巡回する役目を与えられた。
頭に花束を刺したまま連れ帰られた方としては、たいへん適切な配置だと思う。
もっとも、本人がどう受け止めたかは知らない。
知る必要もなかった。
婚約がなくなり、ようやく自分で次を考えられるようになった。
縁談はいくつか届いた。
けれど、すぐに誰かの隣へ立つ気にはなれなかった。
隣に置かれる華として選ばれることにも、もう興味がない。
そんな時、神殿から奉仕の誘いが来た。
聖女でもなければ、奇跡を起こせるわけでもない。
施療院への薬草の配布、孤児院への支援、寄付の記録、季節の祭礼準備。そうした仕事を続ける人手が足りないのだという。
私は書面を何度か読み返した。
派手な役目ではないが、少し惹かれた。
見落とされやすい仕事ほど、誰かの暮らしを支えている。
「どう思う?」
向かいに立つマリアへ尋ねた。
「お嬢様に向いているかと存じます」
「そう?」
「はい。お嬢様は、誰も見ていないところで困っている方を見つけるのがお上手ですので」
褒められているのだと思う。
たぶん。
「でも、神殿よ。社交の場より地味でしょう」
「問題ございません」
「即答なのね」
「お嬢様は、地味であることを欠点とはなさいません」
私は少しだけ笑った。
「検討してみるわ」
「はい」
マリアも頷いた。
その数日後、イザベル・メイス男爵令嬢が訪ねてきた。
赤毛をきれいに結い上げ、以前より控えめなドレスを着ている。
応接室へ入るなり、彼女は深く頭を下げた。
「園遊会のことを、お詫びに参りました」
私は席を勧めた。
「どうぞ、お掛けになって」
イザベルは座ったが、顔を上げなかった。
「私は、ルーファス様に選ばれたことが嬉しかったのです。あなたより私の方が華やかだと言われて、喜びました」
正直な方だった。
「でも、あの場であなたが侍女を庇うのを見て、自分が何を喜んでいたのか分からなくなりました」
私は少し考えた。
「あなたも、あの方の隣へ置かれる華にされたのだと思います」
イザベルは顔を上げた。
「でも、私は喜んでそこへ立ちました」
「そうね」
否定はしなかった。
「なら、次はご自分で立つ場所を選べばよいのではなくて?」
イザベルは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「あなたは、もっと怒ってくださる方だと思っていました」
「怒っておりますわ」
「そうは見えません」
「顔へ出すのが苦手なのです」
背後で、マリアがほんの少し動いた。
おそらく、額を使う提案を思い出したのだろう。
私は振り返らなかった。
その日、イザベルとは長く話した。
次に会った時は、園遊会の話をしなかった。
その次は、少しだけした。
今では、時々お茶を飲む仲になっている。
イザベルはよく笑い、私はよく聞く。
以前なら、彼女の華やかさを眩しく感じたかもしれない。
今は、よく笑う友人だと思っている。
誰かの隣に置かれるためだけに、自分を決める必要はない。
神殿の奉仕については、引き受けることにした。
最初は週に数日。
施療院へ薬草を届け、帳簿を確認し、孤児院の子どもたちが使う冬服の数を揃える。
大きな奇跡は起きない。
薬が届けば熱は下がり、冬服があれば寒さをしのげる。
私は、そういう仕事が好きだった。
ある午後、イザベルを招いて茶会を開いた。
卓の中央には、季節の花を束ねた花瓶が置かれている。
イザベルはそれを見た瞬間、口元を押さえた。
「笑ってもよろしくてよ」
「申し訳ありません」
「笑っているでしょう」
「少しだけです」
とうとう彼女は声を上げて笑った。
私もつられて笑う。
マリアだけが、真剣な顔で花瓶の位置を確認していた。
卓の脚。
椅子の間隔。
床の段差。
すべてを見終え、満足したように一歩下がる。
「今日は転びません」
私はカップを置いた。
「それは約束?」
「努力目標でございます」
「約束になさい」
マリアは答えなかった。
イザベルがまた笑う。
テーブルの花束は、静かに揺れていた。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「花瓶から離れてちょうだい」
「念のため確認していただけでございます」
「その念が怖いのよ」
マリアは、しぶしぶ花瓶から離れた。
イザベルが肩を震わせている。
「笑ってもよろしくてよ」
「もう笑っております」
「そうでしたわね」
テーブルの花束は、今日も花瓶の中に収まっている。
私は念のため、マリアを花瓶から二席分離して座らせた。




