第2話 眠らない侍女は、証拠を揃える
お嬢様は、嘘をつかない。
少なくとも、ご自分を守るために他人を貶めるような嘘はつかない。
だから、王太子殿下が聖女候補への嫌がらせを理由に、お嬢様を公衆の面前で断罪しようとしていると知った時、私が最初に考えたことは一つだった。
証拠が必要である。
お嬢様がなさっていないとおっしゃるなら、私にはそれで足りる。
しかし、殿下には足りない。
足りない相手のためには、記録を揃えるしかない。
私はその日の夕方から動いた。
まず、王宮主催の茶会の出欠記録。
王宮事務局へ照会すると、招待状の発送記録と、ミレーユ嬢から届いた欠席の返答が残っていた。
つまり、招待状は隠されていない。
次に、裂かれたドレス。
布地商会へ使いを出すと、納品時から裾の縫製に不備があり、補修を勧めた記録が残っていた。担当者の署名もある。
最後に、聖堂の階段。
当日は朝から一部が補修中で、立入禁止の札が置かれていた。神官長の印が押された報告書も受け取った。
どれも、少し調べれば分かることだった。
殿下は調べなかった。
涙の方が、印章よりも見やすかったのだろう。
夜が更ける頃には、必要な記録はほぼ揃っていた。
お嬢様は執務室へいらした。
「まだ起きていたの?」
「はい」
「もう遅いわ。続きは明日にしましょう」
「明日の夜会までに確認を終える必要がございます」
「でも、あなたが倒れたら困るでしょう」
お嬢様はそう言って、私の机へ温かい茶を置いた。
ご自分も不安なはずなのに、先に私の睡眠を心配する。
実に非効率である。
「お嬢様は、お休みください」
「あなたも休むのよ」
「承知いたしました」
お嬢様は疑わしそうに私を見たが、やがて部屋へ戻られた。
私は書類の確認を再開した。
一時間ほどして、扉が開く。
寝間着の上に羽織をまとったお嬢様が、枕を抱えて立っていた。
「やっぱり起きているじゃない」
「お嬢様こそ」
「眠れなかったの」
お嬢様は向かいの椅子へ座り、招待状の控えを手に取った。
「私のことなのだから、私も見るわ」
私は止めなかった。
こういう時のお嬢様は、妙に頑固である。
私たちは並んで、最後の一枚まで確認した。
夜更け、ローレン家の使用人入口に来客があった。
訪ねてきたのは、王宮でミレーユ嬢付きとして働く若い侍女だった。王宮事務局で、こちらが茶会の出欠記録を照会していると知り、ほかの証拠も集めていると察したらしい。
私は彼女を、使用人用の小さな応接室へ通した。
「王宮事務局へ、茶会の出欠記録を求めておられますね」
「はい」
彼女は周囲を確かめ、小さな紙片を差し出した。
『泣くのは殿下がこちらを見てから』
ミレーユ嬢の筆跡だった。
「なぜ、これを私に?」
侍女はしばらく俯いていた。
「このままでは、ミレーユ様が戻れないところまで行ってしまいます」
彼女は主人を売りに来たのではない。
罪を重ねる前に、主人を止めに来たのだ。
私は紙片を受け取った。
「あなたのお名前は、記録に残しません」
彼女はそこで初めて、息を吐いた。
執務室へ戻ると、セシリアお嬢様は机へ伏して眠っていた。
私は毛布をかけ、紙片を革表紙の一番上へ挟んだ。
翌日の夜会で、王太子殿下は予想通り、お嬢様を人前へ呼び止めた。
「セシリア・ローレン。君は聖女候補であるミレーユに嫌がらせをした。今ここで罪を認めろ」
お嬢様は扇を閉じた。
声も姿勢も乱れなかった。
「罪状を伺ってもよろしいでしょうか」
招待状。
ドレス。
聖堂の階段。
殿下は順に並べた。
どれも、昨夜確認した。
すべて事実ではない。
それでも殿下は、お嬢様が否定するたびに声を大きくした。
大きな声は、記録の代わりにはならない。
「ミレーユは傷ついている!」
「傷ついていることと、私が傷つけたことは別です」
お嬢様は静かに答えた。
私は改めて思う。
この方は、相手が王太子でも、事実を曲げない。
ならば、私も曲げる必要はない。
ここでの選択肢を整理する。
一、書類を差し出す。
二、殿下が受け取らない場合、読み上げる。
三、それでも黙らせようとする場合、物理的に阻止する。
三については、方法を考えていた。
「お嬢様」
「何かしら」
「私が転ぶふりをして、殿下に頭突きしてまいります」
「やめなさい」
即答だった。
「まだ額は動かしておりません」
「心だけ先に動かさないで」
「忠誠心でございます」
「忠誠心は額以外で示して」
却下された。
仕方がない。
私は書類で示すことにした。
殿下は、革表紙を見つけると眉を寄せた。
「必要ない」
内容を見る前に不要と判断なさった。
予想よりも重症である。
「その書類をこちらへ渡せ」
「お嬢様の許可がございません」
「王太子である僕の命令だ」
「恐れながら、こちらは王宮事務局、聖堂、布地商会からお預かりした記録でございます」
「侍女ごときが逆らうのか!」
殿下が手を伸ばした。
書類を奪い取るつもりらしい。
書類を奪わせるわけにはいかない。
「マリア、離れなさい」
お嬢様が言った。
殿下から距離を取れ、という意味だと理解した。
私は後ろへ下がった。
その足が、ミレーユ嬢のドレスの裾を踏んだ。
裾が引かれる。
布が足元から抜ける。
身体が傾く。
転ぶつもりはなかった。
少なくとも、この瞬間までは。
私は書類入れを守ろうと両腕を抱え込んだ。
留め具が外れる。
紙が舞う。
同時に、革表紙の上へ載せていたインク壺が滑った。
蓋が外れた。
黒いインクが宙へ広がる。
その先には、王太子殿下の顔があった。
軌道を修正する手段はない。
あったとしても、必要性は低い。
べしゃり。
殿下の顔面へ、インクが届いた。
続けて、証拠書類が額と頬へ貼りつく。
――未確認。
――ミレーユ嬢、当日欠席。
たいへん分かりやすい。
私は床へ片膝をついた。
「申し訳ございません」
「怪我は?」
お嬢様が最初に尋ねたのは、書類の状態ではなかった。
「ございません」
「なら、よかったわ」
一瞬、返答が遅れた。
昨夜もそうだった。
お嬢様は、ご自分が断罪されている時でさえ、私の身を先に案じてくださる。
胸の奥が、熱くなった。
嬉しい。
――違う。
今、私がすべきことは感激ではない。
証拠を拾い、お嬢様の名誉を取り戻すことだ。
「それと、頭突きではございません、は言わなくていいわ」
「先に封じられました」
「言うつもりだったのね」
「事実でございますので」
その後は、書類が仕事をした。
招待状の記録。
布地商会の控え。
聖堂の報告書。
そして、ミレーユ嬢の覚え書き。
侯爵夫人が『泣くのは殿下がこちらを見てから』と読み上げた時、ミレーユ嬢の顔色が変わった。
国王陛下が現れ、殿下へ命じた。
「書類を拾え。一枚ずつ読み上げよ」
私はその場で、国王陛下への評価を修正した。
公開の場で断罪を始めた者に、公開の場で確認不足を読ませる。
妥当な処置である。
殿下は、顔からインクを垂らしながら証拠を読み上げた。
お嬢様の名誉は回復され、婚約は解消された。
大広間を出る時、お嬢様が言った。
「あなたが怪我をしたら、証拠が揃っていても困るわ」
「……承知いたしました」
「それと、次からはインク壺を持ち歩かないで」
「次回は蓋を固く閉めます」
「次回を想定しないで」
私は黙った。
守れない約束は、するべきではない。
お嬢様は前を向いて歩く。
私はその半歩後ろへ戻る。
お嬢様がなさっていないとおっしゃるなら、私にはそれで足りる。
けれど、世界には足りない者もいる。
だから私は、証拠を揃える。
必要であれば、夜を徹して。
さらに必要であれば、インク壺も添えて。
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