第3話 黒文字の記録、その先へ
王太子殿下への処分は、思っていたより早く決まった。
王太子の地位は停止。
王宮内での権限もすべて外され、しばらくは国王陛下の監督下で、法務と王宮事務の基礎から学び直すことになった。
公開の場で証拠もなく一人の令嬢を断罪しようとした責任は、顔のインクを洗えば消えるものではない。
ミレーユ嬢についても、事情聴取が行われた。
虚偽の訴えを重ねたことは事実だったが、殿下に唆されていた部分も大きいと判断され、王宮から退けられたあと、実家で謹慎することになった。
数日後、彼女付きだった侍女から短い手紙が届いた。
――ミレーユ様は、ようやく泣かずに眠られました。
それだけだった。
私は返事を書かなかった。
書かない方がよい手紙もある。
ただ、マリアには伝えた。
「そうですか」
彼女は一度だけ頷いた。
その顔からは、何を思っているのか分からなかった。
けれど、その日の午後、使用人用の郵便箱に、差出人のない小さな包みが入っていた。
中身は、よく眠れるという薬草茶だった。
私は何も聞かなかった。
マリアも何も言わなかった。
婚約の解消は、正式に認められた。
当然のことながら、その直後から新しい縁談の話も届いた。
王太子との婚約を失い、名誉を回復し、国王陛下から直接謝罪を受けた令嬢。
世間は、何かにつけて値札をつけたがる。
私はすべて保留にした。
すぐに誰かと結婚する気にはなれなかった。
一度、人生を他人の都合で決められかけたのだ。次くらいは、自分で考えてもよいだろう。
そんな折、国王陛下から使者が来た。
届けられたのは、謝罪状でも縁談でもなかった。
内政府で働く気はないか。
そう書かれていた。
夜会での受け答えと、婚約解消を即断した姿を見て、陛下が声をかけたらしい。
最初は、少し疑った。
王家が失態の埋め合わせとして、私へ役職を与えようとしているのではないか。
だが、添えられた書面には、担当する仕事と権限、報酬、試用期間まで細かく記されていた。
少なくとも、同情だけではないようだった。
「どう思う?」
私は書面を机へ置いた。
向かいに立つマリアは、内容をすでに三度読んでいる。
「条件は悪くございません」
「そうね」
「ただし、王宮内で働くことになります」
「そうね」
「殿下と顔を合わせる可能性もございます」
「その時は?」
「今度こそ、転ぶ前に距離を取ります」
「頭突きから離れなさい」
「インク壺は置いてまいります」
「そこではないのよ」
マリアは少し考えた。
「では、お嬢様のお考えに従います」
「あなたの意見を聞いているのだけど」
「私の意見は、お嬢様が選んだ道へ同行することです」
あまりにも当然のように言う。
私は書面へ視線を戻した。
誰かの隣へ立つためではなく、私自身の判断を使う仕事。
少しだけ、興味があった。
「検討しましょうか」
「はい」
マリアは頷いた。
それから、机の端に置かれていた銀のインク壺へ手を伸ばす。
私はその手を扇で叩いた。
「持っていかないわよ」
「まだ何も申しておりません」
「顔に出ていたわ」
「失礼いたしました」
「反省している?」
「隠し方を改めます」
「そこを改めないで」
数週間後、私は内政府から届いた資料を読み始めた。
王宮の予算。
各地から上がる陳情。
役人たちの報告書。
どれも、夜会で飛び交う噂よりは信用できた。
少なくとも、印章と日付がある。
仕事を受けるかどうかはまだ決めていないが、決めるために知ることは悪くなかった。
窓の外では、午後の光が庭へ落ちていた。
マリアが新しい茶を運んでくる。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日の確認分でございます」
机へ置かれた書類は、きちんと揃えられていた。
その横に、銀のインク壺がある。
蓋は、以前よりも固く閉められていた。
「マリア」
「はい」
「これは?」
「筆記具でございます」
「それ以外の用途は?」
「ございません」
少し間があった。
私はインク壺を引き寄せた。
「なら、私が使うわ」
「承知いたしました」
マリアは、いつもの位置へ下がった。
私の半歩後ろ。
近すぎず、遠すぎず。
何かあれば、すぐ手が届く距離。
これから私がどこへ行くのかは、まだ分からない。王宮かもしれないし、別の場所かもしれない。
ただ、一人で決めるつもりはなかった。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「次は、転ばないでね」
「最善を尽くします」
約束ではなかった。
でも、それでよかった。
私が前を向く時、彼女はきっと半歩後ろにいる。
書類を抱え、蓋の固いインク壺を添えて。
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