第3話 苺の記憶、その先へ
あの夜会から三か月後、私とフェリクス様の婚約は正式に解消された。
両家の話し合いは、思っていたより静かに終わった。フェリクス様が大広間で口にした言葉は、多くの招待客が聞いている。侯爵閣下も事実を否定せず、父へ丁重に詫びてくださった。
違約金についても、こちらが争うまでもなく提示された。
父は書類へ目を通したあと、私へ尋ねた。
「足りないか?」
「十分です」
「本当に?」
「ええ。これ以上いただくと、あのケーキの代金まで慰謝料に含まれているようで落ち着きません」
父はしばらく黙り、それから珍しく声を立てて笑った。
婚約解消後、私にはいくつか縁談が届いた。
以前より条件のよいものまであったのは、少し皮肉である。可愛げがなく、誰の妻にも向かないはずの令嬢を、世間は案外よく見ていたらしい。
けれど、すぐに次の婚約を決めるつもりはなかった。
まずは父の仕事を手伝うことにした。婚姻後の財産について口を出したことが罪になるのなら、いっそ最初から領地経営へ口を出す側になればよい。
帳簿を読むのは好きだった。
数字は、機嫌によって意味を変えない。
収穫量も、輸送費も、使用人の給与も、正しく記せば正しく答える。少なくとも、真実の愛を見つけたからといって、突然こちらへ謝罪を要求してくることはない。
父は私へ一つの荘園を任せるつもりらしい。
まだ補佐という形だが、数年後には正式に管理を任せたいと言われた。
未来の見通しは悪くない。
少なくとも、知らないふりを求める人の隣に立つよりは、ずっと明るい。
フェリクス様は、侯爵家の領地へ送られた。
表向きは経営実務を学ぶための修業だが、実際には社交界から遠ざけられたに近い。
あの夜以降、彼の名前が出るたび、誰かが咳払いをした。
苺を見るだけで笑い出す令嬢までいたという。
侯爵閣下はそれを大変重く受け止め、息子へ礼儀、会計、領地経営、女性への接し方を一から学ばせることにした。
ケーキを見かけると目を背けるようになった、と聞いた。
お可哀そうなことではあるが、もちろんケーキに罪はない。
マリアンヌ嬢は、フェリクス様との交際を終えた。
後日、私のもとへ短い手紙が届いた。
自分は愛されているのではなく、都合よく頷く相手として選ばれていただけだった。あの場で気づけたことに感謝している、と書かれていた。
最後の一行には、こうあった。
『あの時、笑ってしまって申し訳ございません。ただ、苺があまりにも見事な位置にございました』
私は返事を書いた。
『お気になさらず。私も同じ場所を見ておりました』
それ以来、彼女とは季節の挨拶を交わす程度の関係になった。
友人と呼ぶほどではない。
でも、敵と呼ぶ理由はなかった。
そして、マリアである。
婚約が解消されても、彼女は何も変わらなかった。
朝は決まった時刻にカーテンを開け、私の予定を確認し、机へ届いた書類を種類ごとに分ける。父から預かった帳簿に不自然な数字があると、私が気づく前に該当箇所へ紙片を挟んでおく。
相変わらず、優秀な侍女だった。
ただし、時折、廊下の絨毯の端を足先で確認する癖がついた。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「何をしているの?」
「安全確認でございます」
「転ぶ場所を探しているのではなく?」
「両者は必ずしも矛盾いたしません」
「矛盾してちょうだい」
彼女は承知した顔で頷いた。
もちろん、承知していない。
やがて私は、父から任された荘園へ移ることになった。
王都から馬車で半日の距離にある、小さな土地である。古い屋敷と、葡萄畑と、帳簿上だけは黒字になっている製粉所がある。
マリアは当然のように荷造りを始めた。
「あなたも来るの?」
「ご不要でしょうか」
「そうではないけれど、王都に残る道もあるでしょう」
「ございません」
即答だった。
「私がお仕えするのは、クラウゼル家ではなく、お嬢様です」
「そう」
「はい」
それ以上、尋ねる必要はなかった。
出発の日、父と母へ挨拶を済ませ、私は馬車へ乗り込んだ。
マリアは最後まで荷物の数を確認していた。
「全部ある?」
「はい。衣類、書類、帳簿、筆記具、救急箱」
「救急箱?」
「転倒に備えて」
「あなたが転ばなければ必要ないのでは?」
「万一に備えるのが侍女の務めです」
彼女は真顔だった。
私は諦めて、窓の外へ目を向けた。
王都の門がゆっくりと遠ざかっていく。
婚約はなくなった。
けれど、仕事があり、行く先があり、隣ではなく半歩後ろに、信頼できる人がいる。
それなら、悪くない。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「これからもよろしくね」
「承知いたしました」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「転倒の際は、お任せください」
「そこは任せません」
馬車の中で、私たちは同時に前を向いた。
この先も、マリアは私の半歩後ろを歩くだろう。
帳簿の誤りへ紙片を挟み、絨毯の端を確認し、必要もないのに転倒へ備える。私はそれを止めながら、時々は彼女に助けられる。
私たちの生活は、まだ始まったばかりだ。
ただ、顔面ケーキから始まったこの話は、ここでおしまい。
次にマリアが何を届けるのか。
それはまた、別のお嬢様の物語である。
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