第2話 あなたの半歩後ろで
私のお嬢様は、誰かを叱る前に、必ず理由を聞く。
以前、若い侍女が客用の茶器を割った時もそうだった。
「手を見せて」
お嬢様が最初に確かめたのは、茶器の値段ではなく、侍女の指だった。
「お怪我はない?」
「は、はい。申し訳ございません」
「謝るのはあとでいいわ。どうして落としたの?」
侍女は前夜から熱を出していた母親の看病をしていた。寝不足で手元が狂ったと知ると、お嬢様は彼女を休ませ、母親の薬代まで持たせた。
茶器については、翌日、私と一緒に在庫帳へ記した。
誰かを傷つけるために賢さを使わない。
間違いを見つけても、人前で追い詰めない。相手が自分で事情を話せるだけの時間を残す。
その一方で、ご自分が傷つけられた時だけは、なぜか我慢なさる。
実に不合理である。
ゆえに、私が必要なのだと思っている。
その夜、お嬢様は王宮の大広間へ向かう馬車の中で、何度も手袋の指先を整えていた。
緊張している時の癖だった。
「フェリクス様と、最近あまりお話しできていないの」
「はい」
「今日こそは、きちんとお話しできればいいのだけれど」
「はい」
私は余計なことを言わなかった。
フェリクス様については、すでに十分な観察を終えていたからだ。
使用人への声のかけ方。
帳簿の質問をされた時の目。
お嬢様が意見を述べた直後にだけ浮かべる、あの薄い笑み。
あの方は、自分より愚かな女性を求めているのではない。
自分より愚かなふりをしてくれる女性を求めている。
それは、ずいぶん都合のよい願望だった。
大広間へ入ると、フェリクス様はすでに中央にいた。
隣には、淡い桃色のドレスを着たマリアンヌ嬢。
お嬢様の歩みが、一瞬だけ遅くなる。
私はその半歩後ろで、状況を確認した。
フェリクス様は自信に満ちている。
マリアンヌ嬢は涙を用意している。
周囲には十分な人数がいる。
つまり、これは話し合いではない。
見世物である。
「リディア・フォン・クラウゼル。君との婚約を、今この場で破棄する」
予想よりも早かった。
楽団が止まり、人々が振り返る。
お嬢様は取り乱さなかった。
「理由をお聞きしても?」
声も姿勢も美しかった。
私は改めて思う。
やはり、私のお嬢様は完璧である。
問題は、相手がその価値を理解できないことだった。
「君は冷たすぎる」
フェリクス様は、まるで自分が傷つけられた側であるかのように話し始めた。
お嬢様が帳簿について質問したこと。
婚姻後の財産について確認したこと。
自分の言葉へ疑問を挟んだこと。
どれも当然の行為である。
だが、フェリクス様にとっては罪らしい。
「女は少しくらい、知らないふりをしていた方が可愛げがある」
私は一歩、前へ出た。
ここでの選択肢を整理する。
一、黙って控える。
二、言葉で抗議する。
三、物理的に黙らせる。
一は却下。
二は、お嬢様がすでに十分になさっている。
残るのは三である。
「お嬢様」
「何かしら、マリア」
「私が転ぶふりをして、あの方に頭突きしてまいります」
「やめなさい」
即答だった。
さすが、お嬢様である。
私の行動予測が早い。
「まだ何もしておりません」
「今、予定を聞きました」
「ご提案です」
「もっと悪いわ」
却下された。
仕方がない。
私は次の機会を待つことにした。
フェリクス様はさらに言葉を重ねた。
真実の愛。
素直な女性。
自分を疑わず、自分のために涙を流す相手。
私はマリアンヌ嬢を見た。
彼女は確かに泣いていた。
ただし、涙を見せる角度をよく理解している。
お嬢様も同じことに気づいたらしい。
ほんの少しだけ目が細くなった。
やはり、私のお嬢様は聡明である。
「君は謝罪し、僕たちを祝福すればいい」
フェリクス様はそう言った。
私は近くの絨毯を確認した。
端が少し浮いている。
使える。
「お嬢様。今なら自然に転べます」
「あちらの絨毯を確認しないで」
「足を取られたことにして、額から」
「あなたの額が痛むでしょう」
私は言葉を失いかけた。
ご自分が侮辱されている最中にもかかわらず、私の額を心配なさった。
お嬢様の優しさは、時々、判断を鈍らせる。
私の判断を、である。
頭突きは一度保留にした。
だが、その後の発言で状況は変わった。
「君のような女は、誰の妻にも向かないよ」
これは看過できない。
お嬢様は何も言わなかった。
だから、私が動くべきだった。
私は一歩踏み出した。
転ぶふりをして、額を当てる。
予定は単純だった。
ところが、靴先が本当に絨毯へ引っかかった。
「あ」
想定外である。
身体が傾く。
このままでは床へ倒れる。
近くにテーブルがある。
手を伸ばす。
布を掴む。
結果として、銀の皿が跳ねた。
グラスが傾いた。
そして、中央の大きなケーキが宙を舞った。
私は床へ落ちながら、その軌道を見た。
白い生クリーム。
赤い苺。
砂糖細工の薔薇。
まっすぐ、フェリクス様へ向かっている。
修正する必要はない。
そう判断した。
べちゃり。
大広間が静まり返る。
フェリクス様の顔面は、見事にケーキで覆われていた。
私は床へ片膝をつき、頭を下げる。
「申し訳ございません。頭突きではございませんでした」
「そこではないわ」
お嬢様の返しは早かった。
「ですが、私は頭突きをしておりません」
「ええ。そこは認めます」
「事故です」
「大変、不幸な事故だったわ」
お嬢様は、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
私は、頭突きを中止した判断が誤りではなかったと確認した。
フェリクス様が怒鳴り、周囲が笑いを堪え、マリアンヌ嬢まで彼を庇いきれなくなっていく。
私は黙って成り行きを見守った。
これ以上、私が手を出す必要はない。
ケーキが、すでに十分な仕事をしていた。
やがて侯爵閣下が現れ、事情を一目で理解なさった。
「用途としては、そう悪くなかったかもしれん」
閣下のお言葉に、広間の笑いはついに決壊した。
私は心の中で、侯爵閣下への評価を一段上げた。
お嬢様が広間を出る。
私はいつもの位置へ戻り、その半歩後ろを歩いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「次回は、もう少し自然に転べるよう練習しておきます」
「次回がある前提で話さないで」
「では、万一に備えて」
「備えないで」
承知した。
少なくとも、今夜のうちは。
私のお嬢様は、美しい。
それは、顔立ちのことではない。
人を見下さず、侍女の額を気遣い、どれほど傷つけられても他人の尊厳まで踏みにじらない。
だから私は、彼女の半歩後ろを歩く。
そして必要であれば、転ぶ。
次は、もう少し上手に。
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