第1話 苺は夜会を飛んだ
「リディア・フォン・クラウゼル。君との婚約を、今この場で破棄する」
王宮の大広間に、よく通る声が響いた。楽団も、踊っていた人々も止まり、視線が一斉にこちらへ集まる。
声の主は、婚約者のフェリクス様だった。
「理由をお聞きしても?」
「君は冷たすぎる。妻となる女性には、もっと柔らかさが必要だ。僕を立て、僕の言葉を素直に受け入れる心がね」
「婚姻後の共同財産について確認したことをおっしゃっているのでしたら――」
「そういうところだよ。女は少しくらい、知らないふりをしていた方が可愛げがある」
広間の空気が揺れた。
私の背後に控えていた侍女のマリアが、一歩だけ近づく。
「お嬢様」
「何かしら」
「私が転ぶふりをして、あの方に頭突きしてまいります」
「やめなさい」
「まだ何もしておりません」
「予定を聞きました」
「ご提案です」
「もっと悪いわ」
広間が静かだったせいで、近くの数人には聞こえたらしい。扇の陰で目を丸くする令嬢がいた。
フェリクス様は眉を寄せた。
「何を話している」
「侍女が、転ばないよう足元を気にしておりまして」
マリアは無表情で頷いた。
「はい。転ばないよう努めます」
努めるだけなのが怖い。
フェリクス様の隣へ、淡い桃色のドレスを着たマリアンヌ嬢が進み出た。
「僕は真実の愛を見つけた。マリアンヌは君と違って、僕を疑わない。僕のために涙を流してくれる」
彼女の目元は確かに潤んでいたが、その視線はフェリクス様より周囲へ向いている。
泣く位置取りが上手い方だ。
「君も潔く身を引き、僕たちを祝福すればいい。そうすれば、次の縁談には口を利いてあげよう」
なんて親切なのだろう。
顔にケーキを乗せて差し上げたいくらいである。
もちろん、私はしない。
淑女なので。
「お嬢様。今なら自然に転べます」
「あちらの絨毯を確認しないで」
「足を取られたことにして、額から」
「あなたの額が痛むでしょう」
「ご心配いただき、光栄です」
「許可はしていません」
フェリクス様のこめかみが動いた。
「君は本当に可愛げがない。賢いふりをして男を困らせる女など、誰の妻にも向かないよ」
私は何も言わなかった。
言うより先に、マリアが動いた。
「お嬢様。申し訳ございません。転びます」
「待ちなさい」
待たなかった。
優雅に一歩踏み出したマリアの靴先が、本当に絨毯へ引っかかる。
「あ」
転ぶふりではない。
本当に転んだ。
彼女はとっさにテーブルクロスを掴んだ。白い布が引かれ、銀の皿が跳ねる。
そして大きなデコレーションケーキが、ふわりと宙を舞った。
白い生クリーム。赤い苺。砂糖細工の薔薇。
たいへん美しい弧を描きながら、フェリクス様の顔面へ向かう。
べちゃり。
広間に、柔らかく重たい音が響いた。
沈黙。
フェリクス様の顔が、ケーキになっていた。
生クリームが額から鼻筋を通り、顎へ垂れていく。つい先ほどまで立派ではない言葉を並べていた立派な顔には、今、苺が乗っている。
誰かが噴き出した。
咳払いが続き、扇で口元を隠す令嬢たちの肩が震える。壁際の楽師は完全に横を向いていた。
マリアは床へ片膝をついたまま、深く頭を下げる。
「申し訳ございません。頭突きではございませんでした」
「そこではないわ」
「ですが、私は頭突きをしておりません」
「ええ。そこは認めます」
「事故です」
「大変、不幸な事故だったわ」
フェリクス様の顔から苺が落ちた。
ぽとり。
広間の端から、また小さな音がした。
「これは侮辱だぞ!」
「私も先ほどまで、ずいぶん侮辱されていた気がいたします」
「まだ正式に婚約を破棄していない!」
「あら。では、先ほどの宣言は取り消されますか?」
フェリクス様は言葉に詰まり、周囲を見回した。だが、誰も助けに入らない。
そこへ重々しい声が響いた。
「何の騒ぎだ」
フェリクス様の父君である侯爵閣下だった。
閣下は、婚約破棄を告げられた私、床のマリア、笑いを堪える招待客、そして顔面にケーキを受けた息子を順に見た。
長い沈黙のあと、目を閉じる。
「フェリクス」
「父上、これは――」
「黙れ」
閣下は私へ向き直り、深く頭を下げた。
「クラウゼル嬢。息子が大変な失礼をした。この件は後日、正式に話し合わせてほしい」
「承知いたしました」
閣下はマリアを見る。
「そちらの侍女に怪我は?」
「ございません」
「それはよかった。ケーキは残念だったが」
侯爵閣下は、息子の顔を見た。
「用途としては、そう悪くなかったかもしれん」
今度こそ、広間のあちこちから吹き出す音がした。
「参りましょう、マリア」
「はい、お嬢様」
広間を出る途中、マリアが耳元へ顔を寄せる。
「次回は、もう少し自然に転べるよう練習しておきます」
「次回がある前提で話さないで」
「では、万一に備えて」
「備えないで」
絶対に承知していない顔で、マリアは頷いた。
人生には、予想できないことが多すぎる。
けれど一つだけ、はっきりしている。
あの顔に乗った苺を、私はきっと一生忘れない。
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